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はかない宴  作者: 安野穏
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彼と彼女を取り巻く事情

 チャイニェン大陸に人間という種族が台頭してから、数えきれないほどに国々の興亡が繰り返されてきた。幾度もの大陸の覇権を巡る争いに、一時の終止符が打たれたのは、四百五十年ほど前のことだった。神聖ルアニス帝国の初代皇帝が、チャイニェン大陸全土を統一したからだ。


 神聖ルアニス帝国は皇帝を中心とした君主国家で、最初は民衆の支持を得た善政を行ない、唯一の安定した国家として繁栄していった。ところが、二十代目皇帝の崩御後、後継者争いから各地で大規模な内乱が生じた。内乱はいずれ国の崩壊に繋がると懸念した神官たちが仲裁を試みたが、皇太子と二大公がそれぞれに自分の正統性を主張し譲らなかったため、解決策として大陸内を三つに分割して、統治することになったのだ。


 それが再びチャイニェン大陸に覇権を巡る争いを呼ぶ始まりとなった。皇帝の座を巡る醜い権力争いは、次第に人々を下剋上の時代へと引き摺りこんだ。一地方領主から大公の一人を殺して、その領地の簒奪者となった男は、アーリアン帝国を築き、その初代皇帝にのし上がった。また、民衆の起こした数多の反乱は、英雄と呼ばれる残虐な男たちの台頭を許した。大陸内は幾つもの新興国に分断され、神聖ルアニス帝国は、二十二代目皇帝の時代となり、大陸の南の隅へと追いやられていた。


 ソフィアの父でもある二十四代目皇帝アウグストが結果的に、神聖ルアニス帝国の最後の皇帝となった。アウグストはどちらかといえば、学者肌で争いを好まないタイプだった。二十二代目皇帝の末の息子として生まれたが、他の兄弟の方がより優れていたために早くから皇籍を離れ、一庶民として生きることを望んだ。妻に選んだ女性も名家といわれる家柄ではなく、庶民ではないが、貴族の末端に位置する名もない家の出身だった。二人の間にはソフィアという娘も生まれ、何事もなければ市井の中でひっそりと暮らせたはずだった。


 権力を有した者の常として、神聖ルアニス帝国二十三代目皇帝は、かつての夢を取り戻すべく、覇権争いに参戦した。勇猛果敢さを豪語する皇帝を中心とした若くて血気盛んな集団は、幾つかの新興国を打ち破り、大陸の三分の一を奪回した。こうなるとかつての栄光を完全に取り戻せると浅はかな人間は思いこむらしく、労せずに甘い汁を吸おうとする者が現れた。才気煥発な皇帝が完全な覇王となる前にその芽を潰し、代わりに傀儡となる皇帝を祭り上げようと画策したのだ。小賢しい策士家の出現で、二十三代目皇帝とその兄弟たちは闇の中に葬り去られ、一人生き残った凡庸なアウグストが二十四代目皇帝に祭り上げられることになった。


 ここで一つだけ問題が生じた。アウグストの嫡子が、三歳になるソフィア皇女だけであるという事実に目をつけた各国がこぞって、皇女との縁組を申し出たのだ。神聖ルアニス帝国の名は覇権を望む各国にとって、好ましい大義名分になる。このまま、男子の後継者が生まれなければ、皇女との政略結婚で神聖ルアニス帝国の正統な後継者となれるのだ。


 十二年前のことである。そうした各国の目論見を打破するかように、アーリアン帝国が突如、神聖ルアニス帝国に攻め込んだ。皇帝と皇妃は夜陰に乗じた卑怯な襲撃で命を落とし、ソフィア皇女は忠臣ロスモールの手によって、無事に逃げ延びることができたが、神聖ルアニス帝国はこの日に建国からの約四百四十年という歴史に幕を下ろしたのだった。





 初めて体験した男という激しい嵐が身体の上を吹き抜けたあとで、ソフィアの望みはもはや死ぬことでしかなくなった。できれば、きれいな身体のままで死にたかったが、今ではそれを望むことは不可能だった。女の浅知恵は、小賢しい男の前では何の役にも立たなかった。結局、男の命を奪うことは許されず、ロスモールを人質に取られた上に、純潔をも奪われた。


「死ぬ気なら、その前に俺の子を産め。お前の子供なら十分に価値がある」


 ソフィアの身体を堪能したあとで、フォーサスはソフィアの心を読んだように冷たく言い放った。ソフィアは身勝手な男の言葉に腹を立てた。自分の血筋が嫌になる。彼女は気がついたら、自分にかけていた変化の魔法が解けている事実に気づいた。銀月色の髪と紫水晶の瞳。それが否応なしにも自分が神聖アニス帝国の最後の皇女だと訴えていた。


「いやです!」


「なら、生きろ!」


 男の言葉の意図が掴めずにいるソフィアの顔を覗きこんだ男の翡翠の瞳が、一瞬和んだように見えた。


「死ぬのならいつでもできる。俺が憎いと思うなら生きてみろ」


 見ると、フォーサスは顔にふてぶてしい笑みを浮かべていた。男に挑発され、ソフィアの本来の紫水晶の瞳が静かな怒りを表していた。男の手がソフィアを掴み、自分の腕の中に誘いこんだ。ソフィアは顔を自然に男の胸へと押しつけられた形になった。男の腕の中で彼女の銀月色の髪が乱れる。


「ここだ、ここを剣で刺せば、人間は確実に死ぬ。だが、俺のここを刺したいと願う奴は、おまえばかりではないのだ………俺は簡単には刺し殺されはしない」


 男の言葉にはトーンの変化がなく、無機質なものを感じられた。正直言って、ソフィアは戸惑っていた。怒りと迷いとが胸の中に同居していた。フォーサスはソフィアの怒りを焚き付けて楽しんでいる。男は狩った獲物をいたぶるような普段の目つきとは相反するような和やかな目つきを時折見せた。それがソフィアを迷わせるのだ。このまま、男の術中にはまりそうで恐かった。


 ソフィアはまだ十五歳の小娘なのだが、幼い頃からの隠匿生活で人の顔色を伺う術を培ってきたつもりでいた。そのソフィアが、フォーサスの心中を察することができないでいる。フォーサスは一貫して猛々しさを表しているが、内面には何か深い心の傷を隠しているようにもみえた。その傷が痛々しげに見える。


「俺はおまえが気に入った。俺の女になれ。但し、皇女ではなく、ただの村娘としてだ」


 彼の唇がサッとソフィアの唇を塞いだ。男の熱が唇に伝わり、その熱さに飲み込まれそうになったソフィアは力任せにフォーサスを突き飛ばそうとしたが、女の非力は男に通用せず、彼女は再び彼の腕に抱かれた。ソフィアが身体を小刻みに震わせて怒りを露にすると、フォーサスは彼女の身体をベッドの上にドサンと突き放した。倒れた彼女を見下ろして、彼はいかにも愉快そうにお腹を抱えて笑い出した。


「これは当分退屈せずに済みそうだ」


 フォーサスの嘲るような声は、ソフィアの新たな怒りを誘った。


「わたくしはおもちゃではありません!」


 バシンという鋭い音を立てて、ソフィアの手がフォーサスの頬を叩いた。フォーサスの顔がニヤッとした笑みを浮かべた。翡翠の瞳が瞬き楽しみを見つけた子供みたいにパアッと輝いている。


「おもちゃか、確かにそうだ。おまえは俺にとっては、すぎたおもちゃになるかもしれないな」


 独り言のように呟くと、フォーサスはガウンを羽織り、ベッドから抜け出した。


「この部屋をおまえにやろう。どうせ行くところもないのだろう。ここで暮らせばいい。俺を殺したくなったら、いつでもかかって来い。剣を覚えたかったら、教えてやる。俺には暇な時間だけがたっぷりとあるからな」


 バタンという音を立てて、ドアが閉じられた。ソフィアはベッドにうつ伏せになって、泣き始めた。声を押し殺したのは、フォーサスに自分が泣いていると気付かれたくなかったからだ。フォーサスと話している内に、ソフィアはいつしか《死にたい》というささやかな望みを忘れていた。泣きじゃくるソフィアの頭で反芻されていたのは、部屋を出ていくフォーサスの最後の言葉だけだった。


「俺を殺したかったら、いつでもかかって来い。剣を覚えたかったら、教えてやる」


 その言葉だけが、頭の中で呪文のように幾度も繰り返された。それはソフィアにとっては甘い誘いの言葉にも聞こえた。




「フォーサスが新しい侍女と暮らし始めたそうですよ。兄上」


 小柄だが引き締まった体格の男が室内に入ってきた。翡翠の瞳を持つ男は、油断なく室内を見回しながら、兄と呼んだ痩せているが均整のとれた体躯の男に近寄った。二人はフォーサスの異母兄たちで、痩せた方が第二皇位継承者で今年二十五歳になるカーディス、小柄の方が第三皇位継承者で今年二十歳才になるラシェイルである。


 痩せたカーディスは長椅子に腰掛けて、熱心に本を読んでいたのだが、弟の来訪に、にこやかに顔を上げた。瞳の色は夜の闇と同じ色だった。二人の異母弟と違って、カーディスだけが父親の翡翠の瞳を受け継ぐことができなかったのである。カーディスの闇色の瞳は、神聖ルアニス帝国元公爵家の姫君という地位にすがる彼の母親を、陰湿な陰謀と小賢しい策略の世界へと誘い、カーディス本人には、権力にしがみつこうと露骨な態度を見せる母親に対する疎ましさをもたらしたのである。


「そうですか?心配していたんですよ。女好きという噂ばかりが先行して、身の回りの世話をする者がいなくては随分不便だろうと………」


「兄上も人がよい。そのような戯言を兄上の母君が耳にされたら………」


「ラシェイル、私は母上とは違います。フォーサスともラシェイルとも、無用な争いはしたくないのです」


「兄上は甘い方だ。もっとも、兄上がそうした考えであるからこそ、俺は兄上と親しくできる。俺が皇帝になった暁には、兄上にもそれ相応の地位を用意しよう」


 目の前に仁王立ちしたラシェイルを見ながら、カーディスは深々とため息を吐きだした。ラシェイルの翡翠の瞳が、鋭い光を放っている。目の前のラシェイルがカーディスの心の内を探り始めてから、既に一年が過ぎた。カーディスに野心がないと見て取ると、今度は手を組んで邪魔なフォーサスを葬ろうと言いだした。やんわりと断っているのだが、ラシェイルはカーディスの母親にも甘言をささやき、触手を伸ばしている。


「ラシェイル、何度来ても同じことです。私はランドラル地方領主という今の地位で十分満足しています。ラシェイルとも、フォーサスとも争うつもりはありません」


「兄上は、あの子供が皇帝の座に座るのを見過ごすというつもりなのか?」


 欲望に翡翠の瞳を燃えたぎらせて、熱り立ったようにラシェイルが怒鳴った。カーディスは眉間に皺を寄せて、穏やかな顔を曇らせた。


「ラシェイル、かつて神聖ルアニス帝国が滅びの道を辿ったのは、権力という醜い椅子を巡って争ったからです。フォーサスは亡くなられた皇妃の唯一の嫡子、彼が皇帝の地位につくことに何の異存があるというのですか?」


「兄上とは話にならない!もういい、兄上の母君と話を進めることにしよう」


 顔に険悪な表情を浮かべて、カーディスを見下すように一瞥するとラシェイルはクルッと踵を返した。彼の姿が部屋から出た瞬間、バタンという激しい音と共にドアを閉まった。室内に残されたカーディスは、ヤレヤレという感じで首を竦めると、また、読み掛けの本を取り上げたが、浮かぬ顔で窓の方を見つめた。権力という魔物を欲しがらない人間はいない。ましてや、権力が手に届く位置にいる以上、カーディスとて例外ではないのである。


「まだ、権力を握る時期は早過ぎるというのに、ラシェイルも母上も何もわかっていないのだ」


 独り言を呟くと、闇色の瞳を遠くでも見るように細めた。次の瞬間、彼の顔に不敵な笑みが浮かんでいた。


「やみくもに権力だけを求めても、いずれは神聖ルアニス帝国と同じ道を辿ることになる。まずは国の基盤を固めることが大事なのだ。権力を握るのはそれからでも十分に間に合う」


 今頃は、彼の母親と弟が同じ館内の一室で互いの腹の内を隠しながら、共通の敵であるフォーサスへの奸計を張り巡らしていることだろう。どうせ、あの二人がない知恵を絞っても、結局は暗殺という姑息な手段を講ずることしか思い浮かばないのだが、御苦労なことだと、カーディスは思う。手にした本に視線を移しながら、そろそろフォーサスに何がしかの恩を売ることが必要だと考えていた。小賢しい策を用いるのでなく、愚者の役割に甘んじて相手の懐に入りこむ、時期が来るまでは相手を持ち上げてやればいい、それが賢い生き方と言うものだ。熱心に本を読む振りをしながら、彼の頭の中ではいかにしてフォーサスの懐に飛びこむべきかという策を巡らせていた。


 カーディスは、先を見通す目というものを持っているわけではない。冷静沈着に今までの状況を分析したに過ぎないのである。今の現状から察するに、フォーサスが帝国の行く末を握っているのは確かなのだ。表立って醜い権力争いなどしたら、自分の母親とラシェイルはフォーサスに負けるだろう。まだ皇帝が存命中の内は序奏にしか過ぎない争いの結末を、とっくの昔にカーディスには予測していた。


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