偽りの生活の中で
「よかった、目が覚めたようだね。びっくりしたんだよ。急に倒れるんだからね」
「えっ?」とソフィアは短い声を上げた。見たこともないおばさんたちが、ソフィアを取り囲んでいた。ソフィアが寝かされているのは、木陰に敷いた粗末な敷物の上で、衣服はおばさんたちと同じ繕ったあとのある古着だった。
ソフィアの頭の中はモヤッとした霞がかかっているみたいで、はっきりとしたことを思いだせなかったが、自分が誰なのかは覚えていた。
「ここはどこなのでしょうか?」
女たちは一瞬、顔を見合せた。
「やだね、何を言いだすんだい、フィーアときたら、急に丁寧な言葉使っちゃってさ」
太ったおばさんが手加減なしに、バシンとソフィアの背中を叩いた。叩かれたソフィアはゲホゲホと咳き込んだ。どうやら、ソフィアは誰かと間違えられているらしいということだけは、ぼんやりとした頭でも理解できた。
「やだ、悪かったわね」
アハハハハと大らかに笑うと、おばさんたちは「さて、もう一仕事しようかね」と言いながら立ち上がった。
「あの、わたくし、どうしてここにいるのですか?それにわたくしの名前は、ソフィアです。フィーアという名前ではありません」
おばさんたちがアハハハハと大声で笑いだした。
「止めてよ、フィーア、今日は一体どうしたんだい?」
「そうだよ。まさか、頭でも打っておかしくなったとでもいうのかい?」
「いやだね、そんなことあるわけないよ」
「ほらほら、早く仕事にとりかからないとね」
ソフィアは強引に手を掴まれて、おばさんたちと一緒に畑へと連れて行かれた。既に畑では男たちが忙しなく働いていた。
「遅いじゃねえか、いつまでもグタグタと下らねえおしゃべりなんかしてねえで、さっさと働きな」
赤銅色に程よく焼けた中年の男がやってきた女たちを見ると、怒鳴り声を上げた。女たちはブツクサと文句を言いながら、畑の麦を刈り始めた。ソフィアは一人で途方に暮れていた。
「フィーア、ボケッとしてねえで、サッサと働きな」
先程の男に怒鳴りつけられた。
「あ、あの、わたくし、何をすればよろしいのですか?」
恐る恐る尋ねると、男は「アン?」と声を出すと、手を止めてそばに近寄ってきた。女たちが麦を刈るふりをしながら、困ったようにソフィアを見つめた。
「わたくし、フィーアという名前ではありませんし、ここがどこなのかもわかりません」
「フィーア、おめえどうしちまったんだ?」
「さっき、急に倒れちまった時に頭でも打っちまったんじゃねえかね」
「そうなんだよ、きっと。気が付いた時から変だったからね」
噂好きの女たちが、ソフィアと男の周りにすぐに集まってきた。
「おーい、ウィリー、手を止めて、ちょっとこっちに来てくれねえか」
遠くで黙々と仕事をしていた男が、中年の男の呼びかけで肩にかけたタオルで汗を拭いながら、歩み寄ってきた。皆と同じ黒髪黒目の若い男は、人なつっこい笑みを浮かべて、ソフィアを見つめた。
「ウィリー、フィーアがおかしくなっちまったらしい」
「フィーアが?」
「そうなんだよ、さっきの休憩の時なんだけどね、急に倒れたんだよ」
「そんときに頭でも打っちまったみたいで、自分のこと、フィーアじゃないとか、ここはどこだとか言いだしたんだよね」
「最初はふざけてるんじゃないかって、勘繰ってたんだけど、どうも本物みたいでさ」
ウィリーがソフィアの肩を優しく抱きしめた。知らない男に気安く抱きしめられて、ソフィアは身体を強ばらせた。
「フィーア、まさか俺のことまで忘れちまったなんて言わねえよな」
「あ、あの、どなた様でしょうか?」
不安で一杯になりオドオドとしながら、ソフィアは尋ねた。これだけたくさんの人たちから、自分がフィーアだと言われる内に、本当に自分がソフィアであるのか疑問になってきたのだ。
「俺だよ、ウィリーだよ。フィーア、最愛の俺まで忘れちまうなんて、一体どうしちまったんだよ」
ウィリーがソフィアの両肩を鷲掴みにして、身体を揺さぶった。ウィリーの真摯な眼差しに、ソフィアは一層不安を覚えた。
「あ、あたくし、本当にフィーアという方なのですか?」
「おまえはフィーアに決まってるだろう、俺たちは一ヵ月前に結婚したばかりなんだよ。それさえも覚えてないのか?」
中年の男が、ウィリーの肩をトントンと叩いた。
「今日は休ませた方がいいな。頭を打ったショックで、物忘れになっちまったようだ。ウィリー、今日はおめえも一緒に家に戻れ。家に帰れば、何か思いだすかもしんねえしな」
「カダスさん、せっかくの刈り入れ時に、こんなことになっちまって、申し訳ありません」
「いいってことよ。それより、フィーアが早く元に戻るといいな。ほら、おめえたちはさっさと持ち場に戻れ」
カダスに追い払われるようにして、女たちも畑に戻っていった。
「ウィリー、元気だしなよ」
「そうそう、フィーアはすぐに戻るから」
「あとで様子見に家にいくから、大事にしてやるんだよ」
ウィリーに肩を抱かれるように、ソフィアがあぜ道を歩き始めると、女たちが次々に声をかけてきた。ウィリーは一人一人に挨拶しながら、村の方へと足を速めた。
村はずれに粗末なあばら家が建っていた。そこがウィリーとフィーアの家らしく、ウィリーに押されるように、ソフィアは家の中に入った。元々、村全体が裕福とは言い難い暮らしなので、世帯を持ったばかりの若い二人には、十分すぎるほど、贅沢な家でもあった。
家の中は外見と同じで古惚けたたたずまいだったが、きれいに掃除が行き届いていて、手製のカーテンやベッドカバーなどの小物が室内に温かい雰囲気をかもしだしている。
家に入ったウイリーはヒョイと手慣れた様子で、ソフィアを抱きかかえると、優しくベッドにソフィアの身体を下ろした。布団をかけ直して、ソフィアの唇にキスをすると、安心させるように微笑んだ。
「何も心配しなくてもいいよ。そばについているから、ゆっくりと休むといい」
「わたくし、よく思いだせませんので、お尋ねしたいのですが、ここにずっと暮らしていたのですか?」
「いいや、生まれは他所の村だった。ここに来たのは一ヵ月前で、俺たちは結婚したばかりだった。畑で働く人手を捜していると聞いて、二人で暮らすためにこの村に来た」
「本当にそうですか?」
「では、フィーアは自分が何者だと思っているんだい?」
「わかりません。自分が本当にフィーアなのか、別な誰かなのかもわからなくなりました」
ウィリーが和んだような笑みを浮かべた。
「わからないなら、フィーアでいいじゃないか。その内に思いだすよ。疲れてるんだよ、このところずっと働き詰めだったからね。ゆっくりとお休み」
ウィリーの声はトーンが高い分優しく響いた。ソフィアは言われるままに目を閉じた。確かに身体は疲れているらしく、深い眠りにおちていった。
「フィーア、もう身体の調子はいいのかい?また、変にならないでおくれよ」
「今更、何を言ってんのさ、あれからもう一ヵ月だよ。ウィリーが一週間も献身的に看病したんだ。元気にならなきゃ、おかしいってもんだよね、フィーア」
「いいね、若い新婚さんは、うちの亭主にも見習ってほしいもんだよ」
「無理無理、ウィリーと亭主たちじゃ、元が違うからね」
「そうだよ、フィーアはいいムコさんを見つけたもんだ」
畑で働いたあと、休憩時間にお茶を飲みながら、女たちに取り囲まれて、ソフィアは楽しい一時を過ごしていた。徐々に思いだしたソフィアだった頃の記憶から、皇太后の物忘れの薬を飲んだものの、何かの拍子に途中で記憶が戻ってしまったのだと理解した。
嬉しかったのは、自分がもうソフィアではないということだった。記憶をなくしている間に出会ったウィリーという青年と結婚していたことに驚いたが、ウィリーは夫として申し分のない男で、ソフィアを何よりも深く愛している。ソフィアは望んだ通りに市井での幸せをかみ締めていた。
ただ、朝早くから夜遅くまで身を粉にして働いても、徴集税が多過ぎて、暮らしが一向に楽にならないということが気になっている。
「まだ、税が高いくらいはいい方だよ。戦なんかが始まった日には、男たちは兵士として駆り集められちまうし、ここが戦場になった日には畑はメチャクチャで、また一から出直しになるからね」
「そう、そう、亭主を戦に取られちまうよりは、税を取られた方がまだましってものさ」
「兵士に取られても、無事に帰って来れば恩の字さ。行ったきり戻ってこない時もあるからね。あたしの亭主はイマザシェンとの戦に駆り集められたまま帰ってこなかった。仕方なく親戚を頼ってここへ来たんだ。あたし一人では子供たちを養ってやれないからね」
「戦に勝とうが、負けようが、あたしたちの暮らしには何の変わりもないけどさ、いい加減にしてほしいもんだよ」
税が高過ぎないかと尋ねたソフィアに、女たちは税よりも口々に戦に対する不満を言い立てた。ソフィアは身につまされる思いで一杯になった。女たちとの休憩時間にかわす会話から、市井に生きることも、決して楽ではないのだと気がついた。国の上に立つ者次第で、市井の者の生活はいかようにも変えられてしまう。戦が起これば、ウィリーも兵士に取られていくだろう。ソフィアの手に入れたささやかな幸せなど、フォーサスたちの気持ち次第であっさりと吹き飛んでしまう程度のものなのだ。虚しさを感じる。
風の便りで、キャラが無事にサナザール公国へ嫁いだことを知った時、ソフィアは後ろめたい思いで胸が潰れそうになったのだが、ソフィアの周りの女たちは、戦が一つ減ったことを心から喜んでいる様子だった。
「人質代わりになる皇女様にはかわいそうだけどね、戦が一つでもなくなってくれれば、それだけ心配は減るってものさ」
「そう、そう、こんな風にたくさん縁組みしてさ、もっと戦をなくしてほしいものだよ」
「うれしいね、これで当分は戦がなくなるんだろうからね」
この時だけソフィアは、女たちとの世間話の中に口を挟む気にはなれなかった。
キャラがサナザール公国へ嫁いだと知った日から、ソフィアはボウッと考えこむことが多くなった。昼間は村の共同の畑仕事、夜は家事に追われて、毎日の生活は単調だったが、あっという間に崩れるもろい基盤の上に成り立っているような気がしてきたのだ。いつか、ソフィアの前にフォーサスが現れて、強引に元の世界へと連れ去られる日が来るという強迫観念に苛まされたのである。
「フィーア、この頃、変だね」
ベッドの中でソフィアの黒髪を撫でながら、ウィリーが何気なく口にした言葉に、ソフィアは恐れおののいた。いつもは甲高いウィリーの声のトーンが押さえられていたせいで、フォーサスの声に似ていると気付いたからだ。ビクビクと怯えながら、ソフィアはウィリーを目を凝らすようにしてジッと見据えた。ああっと悲鳴のような声を上げた。今まで、ウィリーの黒髪と黒い瞳に騙されたのだ。目を凝らして見れば、ウィリーは髪の色と瞳の色を変えただけで、フォーサスそのものだった。
「何かあったのかい?」
優しい笑みを浮かべて、ウィリーが尋ねた。フォーサスだった頃には、決して見せなかった優しさにも騙された気分だった。
「あなたは誰ですか?」
「嫌だな、ウィリーだよ、また忘れちまったのかい?」
「もう、ごまかさないで下さい。全ては皇太后様の差し金でしたのでしょう。フォーサス様、馬鹿な女だと笑っていらっしゃたのでしょうね。わざわざ、農夫の真似事などして、また、いつもの気紛れでございますか?」
「フィーア、何を言っているんだい?俺にはわからないよ」
ウィリーの瞳を覗きこんで、ソフィアは小首をかしげた。嘘を言っているようにも見えなかった。ソフィアの勘違いなのだろうかと気後れしてみたが、思いっきり、ブンブンとかぶりを振った。間違いなく、ウィリーはフォーサスなのだ。ソフィアが思案していると、ウィリーの手がソフィアの身体を自分へと引き寄せた。
「フィーア、明日も早いよ、今日は休もう。何を悩んでいるのかわからないけど、俺たちは夫婦だろう。俺では頼りないかい?」
物忘れの薬のせいだと思いついた。皇太后はソフィアだけでなく、フォーサスにも飲ませたのだ。頭を打ったショックで、ソフィアだけが記憶を取り戻したのである。
「いいえ、何でもありません。ウィリー、わたくし、この幸せが長く続くようにと願っておりますわ」
「ああ、そうだね」
昼間の疲れから、ウィリーはすぐに眠りについた様子だった。スウスウと穏やかな寝息が隣から聞こえてきた。静かにソッとソフィアはベッドから抜けだした。
「申し訳ありません。フォーサス様、わたくしはもう少し市井の中で夢を見続けたいのです。今度こそ、お膳立てされた夢でなく、自分自身で確かな夢を探します」
ソフィアの置き手紙を見て、フォーサスの記憶のないウィリーがどう思うのか考えると、後ろ髪を引かれる思いもあったが、いずれはチェシャたちがウィリー=フォーサスを迎えに来るはずだ。それはそう遠くない日のことだと思う。キャラがサナザール公国へ嫁いだことで、エフラカーン王国もあからさまに野心をむき出しにできなくなり、今は安定を保っているが、皇太子をいつまでも市井に置いておけるほど、状況は甘くないはずなのだ。
粗末な家だったが、今までに住んだ立派な館よりも居心地が一番良かった。家の外に出て、ソフィアは一度だけ家を振り返ると、あとは真っ直ぐに前を見て歩きだした。
藍染のカメをぶちまけたような空には、天空を北東から南西へと横断するような星の大河が横たわっていた。銀盆のような月が南の空を優雅に散歩している。あぜ道の草ムラからは、蛙のボォー、ボォーという間延びした声が聞こえた。生まれて初めて本当の自由を得たような高揚した気分で、ソフィアは飛び撥ねるように先を急いだ。
その先に何が起こるのかワクワクした気持ちにもなる。期待感で高揚した身体に夜の風は心地よかった。




