皇太后の思惑
脱力感が去ってから、ソフィアはキャラを探した。館の隅々を探した後に、侍女たちに尋ねてもキャラの居場所を知る者はいなかった。一人だけ、ソフィアと同じ年の若い侍女が窓拭きの途中で、泣きながら外へと飛出していくキャラを見ていた。追いかけようにも、ニ階の窓から飛び降りるわけにもいかず、そのまま見送った形になったのだとソフィアに済まなそうに答えた。
「謝ることではありませんからね、目を離したわたくしが悪いのです」
ソフィアは侍女をともなって、ここへ来てから初めて皇太子宮の外に出てみた。フォーサスから一人で外に出るなと厳しく言い渡されていたためだ。ソフィアが勝手な真似をすると、侍女たちを処罰するとフォーサスに脅されたという経緯もある。
「誰かをお捜しですか?」
穏やかな声の主はカーディスだった。ソフィアはたじろぐように後ずさった。好色そうにねぶるような視線を向けるラシェイルと違って、穏やかな笑顔を向けて微笑むカーディスからは、圧倒されるような威圧感を感じて息苦しくなるのだ。無言でかぶりを振ると、逃げるように立ち去った。
しばらく、周辺を探したが、キャラの姿を見つけることはできなかった。ひとまず、館に戻り、皇宮城は広いのでどこから探してよいのかと思案にしていると、チェシャにともなわれて、キャラが戻ってきた。
ソフィアと違って、幼い頃にここで暮らしていたキャラは、どこに何があるのか熟知していた。皇太子であるフォーサスは、サナザール公国との和平条約を結んだのちは前線基地を引き上げて、日中は執務室のある皇宮殿で過ごしている。当然、側近のチェシャたちもそこへ詰めていた。
「キャラ様は泣きながら、執務室に飛びこんできたのです」
と、困った顔でチェシャが言った。
「キャラ様、よろしいですね」
何か言い含められてきた様子で、皇宮殿へと戻るチェシャの言葉に、キャラは壊れた人形みたいに何度もコクコクと何度も頷いた。
「チェシャ、待って下さい」
侍女にキャラを部屋に連れて行くようにと頼んだ後で、ソフィアはドレスの裾をつまんで、軽やかにチェシャの後を追いかけた。皇太子宮を少し出たところで追い付いたソフィアは、肩でハアハアと苦しそうに息をした。
「大丈夫ですか?」
「ええ、お願いがあります。ロスモールと連絡をとっていただきたいのです」
ソフィアはチェシャと視線をあわせないように気を付けながら、頼みごとを伝えた。
「何か御用ですか?」
「はい、サナザールの種々の事情と王太子殿下の人となりを教えてほしいのです」
「それでしたら、既に調べがついています」
「いいえ、女性関係ですわ。嫁いでからキャラが哀しむことのないようにしたいのです」
「今のところは愛妾とかはおりませんよ。元々、サナザールの国王陛下は愛妾を置かない主義ですから、王太子殿下もそれにならうはずです」
「では、王妃様やご兄弟の方はどのような方ですか?」
「王妃様も優しい方と伺っています。ご兄弟は、エフラカーンに嫁いだお姉様だけなのです。サナザールの国王陛下は、元々は神聖ルアニス帝国の地方領主でした。穏やかで民衆の信頼の厚いお方です。キャラ様に無理難題を押しつける方ではありませんよ」
「わかりました。わたくしが不用意に口を出す問題ではなかったのですね」
視線をあわせないまま、クルッと後ろを振り向いて、来た時と同じようにソフィアは、ドレスの裾をつまむとたたたと軽やかに駆けだした。ソフィアを見送ってから、軽くかぶりを振ると、チェシャは澄ました顔に戻り前へと歩きだした。
ソフィアが戻った時に、館の中はキャラと侍女たちの興じるような笑い声に包まれていた。女たちの明るい嬌声を聞きながら、ソフィアは自分だけが一人で空回りしているような気がして、自己嫌悪に陥った。
「ねえ、ねえ、それで、それでどうしたの?」
ソフィアが部屋に入ると、キャラが一人の侍女にせまって、興味津々に何かを聞きだそうとしているところだった。
「いやですわ。キャラ様、もうこれでおしまいです」
ソフィアの姿を見て、侍女たちは軽く会釈すると、部屋から出ていこうとした。
「別に下がらなくても構いませんよ。楽しそうですね。わたくしも仲間に入れて下さいますか?」
侍女たちが困ったように顔を見合せた。ついとキャラが立ち上がった。逃がさないような感じでソフィアの腕を掴んで、長椅子まで引っ張ってきた。
「今ね、皆に結婚の心得を教えてもらっていたの。ちょうどいいから、ソフィアも教えて、ねえ、ねえ、兄様に初めて抱かれた時の気分はどんな感じだったの?」
無邪気な顔で笑いながら、キャラはズバッと切込んできた。ソフィアの顔がパァァァァァッと赤く火照った。掴まれた手を振り解くと顔を両手で覆って、イヤイヤするみたいに頭を左右に振りまくった。
「キャラ様、もう止めましょう」
「ううん、聞きたいの。ソフィア、教えてくれる?好きでもない男に抱かれるってどんな感じ?恐かった?嫌だった?」
ソフィアは覆った手の隙間から、チラッとキャラを見遣った。先程の軽いノリと違いキャラの眼差しは真剣そのもので、ソフィアはごまかしたり、逃げたりはできないと感じた。哀願するように侍女たちを見つめると、彼女たちは軽い会釈をして静かに部屋から出ていった。侍女たちがいなくなると、キャラは長椅子の上に膝を抱えて座りこんだ。
「あたし、サナザールへいくことにした。トシャーラと約束したんだ。あたしは兄様とソフィアに取り返しのつかない酷いことをしたもの。なのに、誰もあたしを責めなかった。本当は責めてほしかったよ」
膝に顔を埋めて、キャラは声を押し殺すようにむせび泣きを始めた。
「いいえ、もう済んだことです。キャラがいつまでも罪を抱えている必要はありません」
「ねえ、ソフィア、優しさっていうのは、時には残酷な仕打ちでもあるよ」
どんと雷にでも打たれたような衝撃が、ソフィアの身体中を走り抜けた。一瞬で全てが凍りついたような気がする。偽善者という言葉が思い浮かぶ。自分では良かれと思っていても相手はそうと思わない。それは衝撃だった。
「恨んでもよかったんだ。憎んでもよかったんだ。あたしはソフィアにそれほど酷いことをしたもの。ねえ、ソフィアが恨み言も言わず、憎悪も見せなかったのはなぜ?」
ソフィアの唇がわなわなと震えた。触れられたくない心の傷を無理矢理こじ開けられて、太い棒でグリグリと強引にかき混ぜられている気分になる。心の奥底に蓋をして、忘れることに決めたはずの想い。
「まだ、ソフィアは兄様が嫌いなの?」
ソフィアの胸から見えない鮮血があふれだした。ソフィアは俯いて唇をかみ締めた。同じ立場になるキャラに嘘をつくことはできない。といって本心を告げるような愚かな真似は、尚更できない。
「トシャーラが、シェリルたち夫婦も愛のない結婚をしたって言ってた。最初は信じられなかった。だって、あんなに仲良さそうだったもの。お互いの気持ちをわかり合えれば、愛情は生じるものだって」
俯きながら、ソフィアは突き刺さるような視線を感じていた。長椅子の上で、キャラが子供みたいに真っ直ぐな目でソフィアを見つめているのだ。ソフィアが失った純真無垢な心と身体。それは羨ましくも妬ましくもある。
「ねえ、トシャーラが好き?」
ソフィアは悲痛な顔で、左右に激しくかぶりを振った。
「そう、あたしは今でも好き」
消え入りそうな小さな声で、キャラがボソッと呟いた。息苦しくなったソフィアは窓辺に歩み寄ると、窓を開け放した。館の周りに植えられている木々の間をすり抜けてきた風が、新鮮な緑の息吹きを吹きこんできた。目を瞑り、胸に手を当てながら、幾度も浅い呼吸を繰り返した。
「最初、ソフィアを見た時に直感したんだ。この女はトシャーラが好きだって、だから子供はトシャーラの子だと決めつけた。トシャーラの子は、あたし以外に産ませてなんかやるものかって、だからわざと蹴飛ばしたんだ」
キャラはまた、膝に顔を埋めて、静かに泣き始めた。二人の間に沈黙が流れ、時折、キャラがグスンと鼻をすする音以外には何も聞こえなくなった。
どのくらい経ったのだろうか、ギシッという音が聞こえたと思うと、ソフィアの背中にキャラがしがみついてきた。キャラのわずかな動きが、長椅子をギシッと軋ませたのだ。沈黙していた時間が、ソフィアの心に冷静さを運んできた。ソフィアは戸惑いがちになりながら、肩越しにキャラを観察するように見つめた。
「本当はこんなことを言うつもりじゃなかった。でも、あたし、兄様にもソフィアにも幸せになってほしいんだ。ねえ、ソフィア、兄様は口に出さないけど、ソフィアが好きなんだ。あたしにはよくわかる」
「キャラ、わたくし………」
それ以上言葉を出せなかった。言いたい言葉が喉の奥に引っ掛かったようだった。言葉を紡ぎだすことができなかった。自分は何を言いたいのかもわからない。
「ソフィアはどうして、言葉を飲みこむの。枕を叩いて文句言ってたあの時みたいにすればいいのに。あたしはソフィアも感情を素直に出せばいいと思う。怒ったソフィアをもう一度見たかった。ごめんね。変なことばかり言っちゃった」
テヘッと照れたような笑みを浮かべると、頭をソフィアの背中に押しつけ、両手でギュッとソフィアを抱きしめた。小さな子供みたいな仕草が愛しかった。それはもうソフィアにはできないこと。
「キャラが羨ましくて、妬ましくてたまらなかったときもあります。キャラは、わたくしにはないものばかり持っているのですもの」
抱きついてきたキャラの手を掴むと、ソフィアは自分の身体から離して、クルッとキャラの方を振り向いた。
「ですが、キャラを見ていると、恨んだり憎んだりできなかったのです。キャラは妹みたいにかわいくてたまりませんでした。本当は、キャラをサナザールなどへ行かせたくありません。ずっとわたくしのそばにいてほしいのです。キャラはわたくしにとっては、初めての大切な友達なのです」
今度はソフィアがキャラにしがみついていた。二人の少女は抱き合って、大声を上げて泣き始めた。
一つのベッドで手を繋ぎあって眠った夜、ソフィアの寝息を伺うようにして、キャラが起き上がった。ベッドからスルリと抜けだすと、そっと忍び足で歩き、音をひそませまがらドアを開いて部屋の外へと出て行った。皇太后のことやキャラのことで寝そびれていたソフィアは、キャラの気配が室内から消えたあと、ムクッと起き上がった。こんな夜更けにキャラがどこへ行こうとするのか気になったのだ。
こっそりと開いたドアの陰から廊下を覗くと、キャラは階下へと下りる階段を下りずに、真っ直ぐに廊下を歩いて行った。それで、ソフィアにもキャラの行く先の見当がついた。二階には、フォーサスとソフィア、キャラ以外に警備の都合で、チェシャやトシェインといったフォーサス配下の主な者たちも住んでいた。ただし、彼らの部屋は西側で東側の自分たちの部屋とは隔てられている。キャラの気配を感じたらしく、不意にドアが開けられた。キャラは開けられたドアの中に消えた。チェシャの部屋である。
見てはいけないものを見てしまったような、バツの悪い思いを抱えこんで、ソフィアはベッドに戻った。幾度も寝返りを繰り返し、枕元を涙で濡らした。「信じられない」とか、「汚らわしい」とかいう言葉を繰り返し呟いて、ソフィアは身体の奥に醜い嫉妬の炎を燃やしている自分に気がついた。即座に浅ましい思いを恥じながらも、悶々として眠れぬ夜を過ごしていた。
明け方に出て行った時と同じように、そっと戻ってきたキャラの頬が赤く上気していた。子猫がなついてくるみたいに、ソフィアの身体に自分の身体を擦り寄せると、キャラはスゥッと深い眠りにおちこんだ。ソフィアはチェシャに対する恨み言を心の内でたっぷりと呟いた。
何も知らない振りをするのは、結構きついものだったが、ソフィアはキャラを責める気になれなかった。彼女自身がキャラの立場なら、きっとそうしていたと思うからだ。ただ、許せないのは、チェシャの態度だった。キャラは義理とはいえ主君の妹であり、サナザール公国へのお輿入れが決まっている身なのだ。そんなキャラに手を出すことなど、もっての外というものだ。チェシャも普通の男だったのだと、割り切ればいいことなのだが、感情というものは素直に割り切れるものではなく、しばらく、ソフィアはあからさまにチェシャを避けた。
思いつめたソフィアは、キャラと共に後宮にある皇太后の館へと足を運んだ。キャラには言葉使いと礼法の勉強だと偽り、皇太后推薦の女官にキャラの世話を押しつけた。
「若い人が尋ねてくれるのは、嬉しいことですね。こちらも気分が若返った気になるわ」
サロンに招き入れられて、勧められた椅子にぎこちなく腰を下ろしたソフィアは、勇気づけるために出されたお茶を一口すすった。
「この前のお話のことなのですが、わたくしにはできそうもありません」
思いきって口に出すと、もう言葉が止まらなくなっていた。
「わたくしよりもチェシャの方が何でもできます。皇太后様の代わりは、チェシャが立派に果たしています。むしろ、わたくしは何もしないほうがいいのです。フォーサス様にとっても、チェシャにとっても、わたくしの役目はフォーサス様の皇子様を産むことだけなのです。今までも、必ず誰かが私のそばにいて見張られておりましたが、皇宮城へ参りましてからは一層厳しくなりました。現に今日、皇太后様の許へ伺うのにも、フォーサス様の許可が必要でした。わたくしは篭の中に閉じ込められた鳥と同じなのです。そんなわたくしに何ができると仰られるのですか?」
一気にまくしたてると、ジワンと涙が滲んできた。俯いて、必死にこらえようとしたが、ウグッと嗚咽がこぼれ、ワッとテーブルに泣き伏していた。
「皇太后様、お願い申し上げます。わたくしを元の生活に戻して下さい。わたくしはこれ以上、醜い権力争いの道具に使われたくないのです。神聖ルアニス帝国のソフィアは、三つの時に両親と共に亡くなりました。わたくしはただのソフィアです。神聖ルアニス帝国とは何の関係もありません」
「人には皆、定められた運命というものがあります」
凛とした皇太后の声の響きに、ソフィアはビクンと肩を震わせて、ヒックヒックと嗚咽だけを洩らした。《定められた運命》という言葉に過剰に反応したのである。神聖ルアニス帝国の最後の姫という身分のために、実年齢よりもずっと大人びた生き方をしなければならなかったソフィアは、今、自分に対する自信を失っていた。ほんのささやかな出来事に対する気持ちのぐらつきが、ソフィアの根底を揺るがすほどに発展してしまったのだ。
「わたくしは定められた運命などいりません。わたくしが欲しいのは、市井に生きてささやかな幸福を手に入れることです」
「では、あなたは定められた運命から、逃げるというのですか?」
「はい!何もかも捨ててしまって構いません」
「わかりました」
皇太后はスクッと立ち上がると、鈴をリリンリリンと鳴らした。年取った女官が音もなく室内に入ってきた。
「あれを持ってきて下さいますか?」
「あれでございますか?」
女官が訝しげに、ソフィアを見つめた。ホホホと皇太后が上品な笑い声を上げた。
「ええ、そう、ここにいる皇太子妃が、物忘れの病にかかりたいというのですよ」
「わかりました」
目線だけで会釈すると、女官はスッと部屋を出て行った。
「物忘れの病とは、どのような病気なのでしょうか?」
不安げにソフィアが尋ねると、皇太后は再びホホホと上品な笑い声を上げた。
「病気ではないのですよ。ほんの少し薬を飲むだけで、あなたの望み通りに、今までの記憶全てを何もかも忘れることができるのです。これは神聖ルアニス帝国皇家にだけ、極秘に伝わっている秘薬なのです」
「記憶がなくなるというのは、本当のことなのでしょうか?」
「ええ、あなたが本気で薬を飲むことができれば、望み通りの生活を約束しましょう」
また、音もなく女官が戻ってきた。手の中に薄茶色の瓶を抱えていた。女官はグラスに半分ほど茶色の液体を注ぎこんだ。グラスを皇太后に渡すと、女官は慇懃に一礼して部屋から出て行った。
「さあ、どうぞ」
皇太后がソフィアの前にグラスを差し出した。ソフィアはグラスを受け取ると何の躊躇いもなく、一気に飲干した。これ以上、辛い思いはしたくない一心だった。液体が喉元を通り過ぎた時に、少し咳き込んだが、夢中でゴクンと飲み下した。途端に身体中が熱くなりカァァァァッと火照ってきた。クランクランと身体が回るようなめまいを覚えて、床にガクンと膝をついた。それから彼女の意識は途切れた。




