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はかない宴  作者: 安野穏
14/21

皇太后

 皇太后が自ら皇太子宮を訪れたのは、キャラを巡って、チェシャとの些細な口論をした翌日だった。ソフィアと同じ紫水晶の瞳を持つ皇太后は、初めての対面の時に外見は穏やかな老婦人といった印象を受けたが、相手の言葉に応じて、時折、突き刺すような視線を投げかけた。ソフィアは背筋にゾクッと凍るような思いを感じたのだ。できれば、なるべく会うことを避けたい相手だった。


「ゆっくりお話をしたいと思ってましたのよ」


 貴賓室の長椅子に腰を下ろした皇太后は、神聖ルアニス帝国の宮廷作法にのっとった正式な挨拶をしたソフィアに優雅な微笑みを向けた。笑みの裏に隠された本心を図りかねて、ソフィアもとりあえず笑みを返した。キャラだけが礼儀作法通りの挨拶をしながら、顔を引き攣らせていた。


「まあ、懐かしい作法ですこと。娘時代を思いだしますわね」


 ホホホと口許を手で覆って、皇太后は上品な笑い声を上げた。お茶の用意を整えてきた侍女が三人にお茶を入れ終わると、ソフィアはお茶の道具だけを残して侍女を下がらせた。皇太后の態度で、他人に聞かせたくない話をしたいらしいと悟ったからである。


「心配してましたのよ。他国へ嫁がせるキャラには、アーリアン帝国の皇女として恥かしくない礼儀作法を教えこまねばいけませんからね。心配は無用だったようですね」


 皇太后は紫水晶の瞳の奥底で、何を考えているのだろうかと、ソフィアは見探るような視線を向けた。フッと笑みを洩らして、皇太后はソフィアを見返した。途端に言い知れぬ不安に襲われた。次に皇太后の視線はキャラを捕えた。


「キャラ、自分の立場を忘れてはいけませんよ。あなたがサナザール公国へ嫁ぐ目的は、人質としてなのです」


 ドキンとソフィアの胸の鼓動が撥ね上がった。傍らのキャラがビクンと身体を震わせた。俯いた顔の表情は見えなかったが、身体がブルブルと小刻みに震えているので、泣くのを必死にこらえているのだとわかった。


「キャラ、他国へ嫁ぐということは大切な任務でもあるのですよ。あなたの働きいかんで、サナザールがアーリアンの味方になるか、敵に回るか決まるのです。あなたにとって、大切なことはただ一つだけ、必ず跡継ぎとなる男の子を産みなさい」


「いやだ!サナザールなど行きたくない!」


 だだをこねた子供みたいに怒鳴るように叫ぶと、ドタドタと足音を大きく立てて、キャラは夢中で部屋から飛出して行った。ソフィアは一礼して後を追いかけようとしたが、皇太后に腕をギュッと掴まれた。


「大丈夫です。あの子もバカではありません。すぐに自分の立場の重要さに気付くでしょう」


「皇太后様」


「あなたとゆっくり話したいと私は言いました。もう少し、付き合って下さいね」


 凄んだ顔よりも優美な笑顔の方が恐ろしいという事実を初めて知った気がした。皇太后の笑みは、ソフィアに重苦しくてたまらないほどの重圧感をともなった。微笑みで脅されている気分である。皇太后は長椅子にソフィアと共に腰掛けた。


「私もあなたと同じ亡国の皇女です。強引に父を殺した男の物にされ、今の皇帝を産みました。男という生き物は身勝手です。女を子供を産ませる道具としか考えていないのですからね」


 淡々と語る口調には、感情がこもっていなかった。瞳はソフィアに向けられていたが、どこか焦点があっていない様子で、ソフィアを通して、別のところを見つめているようにも見受けられた。


「フォーサスもチェシャも、実際には私が育てたようなものなのです。今、あの子たちは、定められた運命に従って、チャイニェン大陸を一つにまとめて、醜い争いのない国を造るようにがんばっています。いいえ、運命から逃れようと抗っているのかもしれませんね」


 吐息を洩らすと、皇太后は目を瞬かせた。ソフィアは身体を緊張で堅く強ばらせていた。落ち着けようとお茶をの脳とするが、カップが少し音を立てている。ああ、自分は震えているのだと気が付いた。目の前の老婦人は笑みを浮かべているが、その紫水晶の瞳が見据えているのはここではないどこか別な場所だった。


「この頃思うのです。私は正しかったのだろうかとね。人には定められた運命があり、誰もその運命から逃れることなどできないものだと、あの子たちに定められた運命を押しつけました。ただ、運命を甘受し見つめることしかできない私の許を、あの子たちが飛びだしていった時、先が些細な変化を見せたのです。ソフィア、あなたにはまだ何のことかわからないことでしょうが、いつか、あなたも真実を知る日が来るのです」


 顔に再び優雅な笑みを浮かべると、皇太后はソフィアの手を取り、自分の手を重ね合わせた。柔らかい感触と温もりが伝わってきた。この方は何を伝えたいのかと彼女は少し小首をかしげて見る。


「フォーサスやチェシャから、あなたの話を聞いています。今更、何かを変えようとするには、私は年を取り過ぎました。この辺で私はゆっくりと休むことにします。ソフィア、できれば、あなたにはあの子たちを支える柱になってほしいのです」


「わ、わたくしがですか?」


「ええ、後宮というところにいると、いやでも醜いことをたくさん見てしまいます。実は運命の流れを見ているだけの私にも、一つだけ後悔していることがあるのですよ。私がもう少し気を配っていれば、防げることでしたからね。ですが、私はただ、見つめることしかできなかったのです」


 皇太后の口から出たのは、フォーサスの母親ディアナのことだった。亡くなった皇妃は皇太后の兄の娘で姪にあたる。父である大公と共に兄夫婦も前アーリアン皇帝に謀殺されたそうだ。その時一才だった皇妃は、女であるために生き残ることを許されたのだ。皇太后の手元で育てられた皇妃と一年後に産まれた今の皇帝は、その時点で将来を決められた。


「我が子ながら、男という生き物はどうしようもないと思ったのは、たくさんの愛妾を抱えたことです。二人を早くに結婚させたのですが、跡継ぎがなかなか産まれませんでした」


 フォーサスが産まれたのは、結婚後十年も経ってからだということだ。その間に名家の出である愛妾たちに、フォーサスの二人の異母兄カーディスとラシェイルが産まれていた。


「その時には、私はもう息子に呆れ果てていたのです。後宮の奥深くに閉じこもって、世間から隔絶した暮らしを求めました。そんな私の許にディアナが産まれたばかりのフォーサスを連れて逃げ込んできたのです」


 皇妃の子であるフォーサスの出生に関して、愛妾側から悪意ある噂が流されたそうだ。十年も経ってから産まれたわけは、皇帝の子でなく別な男の子供であるという噂が本筋で、あとはこの噂にたくさんの根拠のない中傷や誹謗が付けられていたらしい。生真面目な皇妃は噂に耐えられなくなって、皇太后を頼ってきたのだった。


「もちろん、フォーサスは息子の子です。アーリアンの血を引くあの子の翡翠の瞳が何よりの証拠ですからね。息子にはわかっていたようでしたが、意図的にディアナたちを遠ざけたのです。フォーサスは今も息子をあの子の父親を恨んでいますが、簒奪者の国は一代限りと言われる中で、この国を次代に残すための努力は並大抵ではなかったのですよ」


 つまり、現皇帝がたくさんの愛妾を抱えたのは、自国の安定を図るために、名家という権力の後ろ盾を必要としたからだ。皇妃とフォーサスをわざと邪険にしたのは、二人を他の愛妾の実家から守るためだという話だった。


「ですから、私も息子の案に乗ったのです。わざと仲違いをしているようにみせかけて、フォーサスのために運命に従って、次代を担う人材を育ててきました」


 皇帝と皇太后の努力にもかかわらず、第一皇位継承者のフォーサスが生きていては、将来のためにならないと考えた愛妾たちは、実家の権力を頼りにフォーサスの命を執擁に狙ってきた。暗殺の手段には後宮という場所であることもあり、毒を用いてきた。皇太后は心を鬼にして、幼いフォーサスに少しずつ毒を与えたという。毒に対する耐性をつけるためだ。ソフィア自身も幼い頃に、毒に対する耐性をつけさせられている。皇太后やソフィアが毒殺から身を守る術を知っているということは、神聖ルアニス帝国の四百四十年にも及ぶ歴史の中で、表面にでない暗闘の部分があった証拠でもある。


「ディアナにも毒に対する耐性をつけるべきでした。懸念はフォーサスのみに向けられ、私は息子とディアナに関しては、毒に対する警戒を怠っていたのです」


 結果として、同じものを食べた皇太后とフォーサスだけが無事に済んだのに対して、皇妃は手当が早かったものの、神経を麻痺させる毒のせいで、気がふれてしまったのである。


「あなたの国を滅ぼす元となった原因を造ったのは私です。人は定められた運命から逃れることはできないのだと思い込んでいた私のせいです。ディアナが毒に倒れてから、息子は神聖ルアニス帝国という魔物とそこに巣くっていた愛妾たちの実家もろとも、永遠に抹殺することを決めたのです。結果的には、アーリアン帝国に移っていた二貴族だけは助かってしまったのですが………」


 皇太后は冷めたお茶を一息に飲干した。ソフィアはあわてて、新しくお茶を入れ直した。温かいお茶を飲んで一息入れると、再び皇太后は口を開いた。実はソフィアは、皇太后が幾度も口にする《定められた運命》という言葉が気になっていたのだが、それを尋ねることは差し控えた。


「未だに昔の栄光が忘れられないのでしょうね。愛妾にしか過ぎない娘の産んだ男の子が、皇帝になれると夢見ているのですから、困った方たちですこと」


 ホホホと皇太后は上品な笑い声を上げた。ソフィアは温かいお茶を口にした。返事をすることも、相槌を打つような真似も一切しなかったのは、皇太后自身がそれを望んでいないとわかっていたからだ。老婦人は真実を語りたいだけなのだとソフィアは解釈していた。


「話が長くなりました。若い方にはつまらない話だったかも知れませんね。あとのことはあなたに任せましたよ。定められた運命は、あなたたち三人の出会いをもたらしました。あなたには辛いことが幾つも起きるでしょう。ソフィア、あなたは私とは違うのです。あなたは望むままに、生きなさい」


 再び、皇太后はソフィアの両手を包むように掴んだ。紫水晶の瞳から柔らかい光が放たれ、顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。肩の荷を下ろしたような思いなのだろうか。ここでもソフィアは返事を保留した。答えるべき言葉を見つけられなかったのは、《定められた運命》という言葉を気にしていたからだ。


「キャラのこともよろしく頼みましたよ。今はサナザールと事を構える時期ではありません。キャラが自分の使命をわきまえてくれると信じています」


 最後にまたキャラの話に戻って、皇太后は後宮にある自分の館へと帰って行った。いなくなった途端に、ソフィアの身体から全ての力が抜け落ちたような気がした。皇太后を見送ったあとで、長椅子に腰掛けたまま、しばらく立ち上がれなかったのである。


 どこか得体のしれない恐ろしいお方だとソフィアは思う。それでも、彼女がフォーサスとチェシャを慈しみ大切にしていることは伺えた。ただ、皇太后の言う《定められた運命》という言葉の意味が理解できずに悩む。冷めたお茶を一口飲みこみ、ホッと吐息を漏らす。



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