キャラという少女
子供を失った悲しみは、ソフィアの心の奥底に苦い澱になって残った。キャラを恨むつもりはなく、チェシャにさえ真実は何も話さなかった。これは自分に対する罰なのだと受け止めたからだ。自分自身の心を偽って、創始神から授かった命を軽んだ罪に対する罰なのだ。
「ソフィア様、毎日、思い詰められてばかりいては余計に気が滅入ってしまいますよ」
チェシャの姉シェリルが窓を開けながら、声をかけてきた。男の自分よりは、二人も子供のいるシェリルの方が、ソフィアのためになると考えたのだろう。あの日から、ソフィアの世話はシェリルに代わった。今、ここにチェシャはいない。フォーサスに呼出されて、皇都に戻ったのだ。情勢に急な変化があったらしく、チェシャが必要となったらしい。
シェリルはベッドの上にソフィアを起き上がらせると、肩に寒くないようにショールをかけた。
「ありがとう」
か細い声でお礼を言った。フゥッとシェリルが吐息を洩らした。元々、人形みたいだった白磁の顔がますます白くなって、生気が一つも感じられない。紫水晶の瞳は虚ろで、誰にも焦点をあわせないようにしている。
「海賊から水軍に変わったお陰で、私は自分の二人の子を手放さずに済みました。二人とも男の子ですからね」
ベッドの脇にスツールを持ってくると、腰掛けて、遠くを見るように話し始めた。
「母さんは悲しそうでした。トシャーラの時もトシェインの時もです。掟だからしかたがないと子供心に思ってましたが、自分が母さんの立場になって、何て酷いことだったのだろうと初めて気が付きました」
チェシャと違って、父親似の彼女は赤茶色の髪を軽く撫でた。窓の外から彼女の二人の息子のはしゃぐ声が、聞こえてきた。五才と七才になる彼女の息子は、時折、ここにも姿を見せた。無邪気にソフィアにまとわりついて、ほんの一時だけ、彼女の沈んだ心を吹き飛ばしてくれる。
「母さんがよく言っていたのです。『生きてさえいてくれればいつか会える日が来るわ』って、死ぬ直前までそばにいるあたしよりも、里子に出した二人のことばかり気にかけていました」
鳶色の瞳がかげりを帯びる。
「反発したのですよ。私よりも弟たちの方がいいのねって」
スッと立ち上がると、窓辺に近付いた。窓から愛しそうに子供の姿を目で追いかけた。二人は鬼ごっこでもしているのか、夢中で追いかけっこをしていた。ドタンと何かにつまずいて転んだ弟が大声で泣くと、兄が近寄ってきて、助け起こした。「捕まえた」弟が泣きながらも、兄の服をしっかりと掴んで勝ち誇ったような声を上げた。クスクスとシェリルは楽しそうな笑い声を上げた。
「母親になってからわかるものなのですね。そばにいる者よりもなくした者の方が、より大切に思えるものなのです」
振り向いて、シェリルは寂しそうに微笑んだ。ソフィアもついと立ち上がり、窓辺に近寄った。子供の笑顔がまぶしくて、目を細めて思わず手をかざした。
「キャラ様と何かあったのですね?」
窓から外を見つめながら、シェリルが尋ねた。ソフィアは目の前に広がる海を目を凝らすように見つめた。海面から光がわき上がり、飛び撥ねるようにキラキラと輝いた。「飛び魚の鱗が光っているのです」と船でここへきた時に、チェシャが教えてくれた。あの頃は、まだ迷っていた。子供を産んでもいいものかどうか悩んでいた。愛してもないフォーサスの子供など、愛されてもいないソフィアが産んで、産まれてきた子は幸せになるのだろうかと考えていた。今にして思えば、子供の幸せを考えていた自分は、しっかりと母親になるつもりでいたのだ。潮風に身を委ねながら、馬鹿みたいだと感じていた。ソフィアは自分自身を嘲った。
「トシャーラは何か感じていたようでしたが、ソフィア様が何も仰らないので、キャラ様のことを責めるような真似はしておりません。ですが、それがキャラ様にはだいぶこたえているようです。このところずっとこの部屋の周りをうろついているのですよ。どうなさいますか?」
不意にサイコロを振られたような気分だった。「わたくし………」呟いたまま、身体を強ばらせた。
「キャラ様は、本当はフォーサス様とは何の血の繋がりもないのです」
シェリルの突然の発言は、少なからずソフィアを驚かせた。チェシャの説明では、フォーサスの妹というだけだったからだ。
シェリルの説明によると、キャラの母親は、盛られた毒により気がふれた皇妃の身の回りの世話をしていた侍女だった。父親は近衛騎士の一人で、既にこの世にはいない。母親の命と引き換えにして産まれたキャラを見て、皇妃はフォーサスと勘違いしたらしい。皇妃は亡くなるまで、自分の手元でキャラを我が子同然に育てたという。この事実をキャラ自身は知らないそうだ。
「フォーサス様がここにキャラ様をお預けになられたのは、お兄様方に人質に取られないための配慮です。本当のご兄妹のように、キャラ様をかわいがっていらっしゃいましたからね。フォーサス様はご家族の縁に薄い方ですから、人一倍家族というものに憧れていらっしゃるのです」
ソフィアは何と答えればよいのかと、頭の中で言葉を探した。フォーサスのふてぶてしい態度と尊大な態度の中でかいまみせた不可解な表情は、今もソフィアを悩ませる。フォーサスの真意がどこのあるのか今もってわかっていない。
「キャラ様のこと、許すとか許さないとかの問題ではないのでしょうが、キャラ様なりに苦しんでいる様子です。知らなかったのですね。ソフィア様がフォーサス様の大切な方だということを。後で知ったみたいで、蒼白な顔でしばらく部屋に閉じこもっていました」
一呼吸をすると、済まなそうな顔でソフィアを見つめた。
「これはトシャーラの責任でもあるのです。あの子がはっきりとキャラ様に伝えておけば、こういった悲劇は起こらずに済んだのですからね。あの子がキャラ様を責めずにいるのは、自分の罪を認めているからです。あの子ときたら、世界を動かすだけの悪知恵は幾らでも思いつくくせに、年頃の女の子の繊細な気持ちにはとんと縁がないようなのです。困った子です」
フフフとシェリルはからかうみたいな笑顔をみせた。ドキンとソフィアの胸が高鳴った。頬が赤味を増した。シェリルの瞳が一瞬だけキランと光って、フウとため息を吐きだした。
ソフィアはあわてて俯いた。自分でもどうしてよいのかわからない感情の動きだった。
「キャラ様は昔から、トシャーラのことが好きなのです。恋する女の子の気持ちは相手に関することならば、ほんの些細なことでも敏感になるものです。ライバルに関しては特にです。時には平気で鋭利な刃物にもなります。哀しいことなのですが………」
「わ、わたくしはべ、別にだ、誰も………」
心の動揺を表すように、ソフィアの声がうわずっていた。シェリルの瞳が和んだ光を見せる。
「人を好きになるということは、大切なことよです。それ自体、否定はしません。ただ、時と場合によりけりです。トシャーラは、フォーサス様の臣下です。そして、ソフィア様はいずれは、フォーサス様の正妃となられるお方です」
「わたくしはフォーサス様の正妃になどなりたくありません!」
自然と声のトーンが高くなった。眉間に皺が寄って、顔が醜く歪んでいた。
「それ以上は、何も言わないで下さい!」
ソフィアは両の耳を夢中で塞いだ。シェリルの言葉が鋭い棘となって突き刺さる。ソフィアが認めるのを恐れていた真実の心を白日の下に曝け出して、更に認めたくない事実を突きつけて逆なでするのだ。「止めて!」と大声で叫びだしたいのを必死で押さえた。このことは、他の誰にも知られたくない。
「ソフィア様、私も好きな人の許に嫁ぐことはできませんでした。長の娘の婿となる者には、次代の長として組織の頂点に立てる力強い者が望まれるからです」
ソフィアは危うく声を出しそうになった。夢中で言葉を飲みこんで、目の前の女の心を推し量る。父親似のシェリルはチェシャと違い大柄で、性格はどちらかと言えば、大らかの方だった。繊細な部分は微塵も感じられなかったのだが、女心を吐露しているシェリルからはもろく崩れそうな感じを受けた。
「恐らく、キャラ様もいずれは望まぬところへ嫁がされるでしょう。女という者は、皆そうした宿命を背負わされているのです」
「何が言いたいのですか?」
自分でも驚くほどの凍りついたような声で問い質した。シェリルは静かに首を左右に振った。
「何も………そうですね、私が願うことは一つだけです。フォーサス様とトシャーラとの間に波風だけは立てないで下さい。二人の望む夢を潰すようなことにはなってほしくないのです。あの子たちの将来のためにも」
最後にシェリルは哀願するような口調に変わった。窓の外にチラッと視線を走らせると、
「互いの気持を知るには、話し合うことも必要です。意に沿わぬ結婚をしたからといって、誰もが不幸になるとは限りません。お互いの心を変えるのは、お互いの思いです………まずは、キャラ様と話し合ってみて下さい」
窓の外に手を伸ばして、一人の少女を部屋の中に引き摺り込んだ。大柄で体格のいいシェリルは、楽々とキャラの身体を抱きかかえて、床の上に立たせた。
「シェリルの馬鹿力にはかなわないや。腕が痛いぞ」
不意に部屋の中に引き摺り込まれたので、キャラは照れ隠しのためか口を尖らせて、文句を言った。
「お茶でも用意してきますよ」
カラカラと笑いながら、部屋からシェリルが出ていくと、気まずそうな顔をした少女二人が取り残され、沈黙が室内に息苦しさを振りまいていた。キャラは窓際に立ったまま、もじもじとしながら、時折上目がちにソフィアを見つめ、視線があうとあわてて俯いた。ソフィアは無言のままで、時々少女の動静に視線を投げかける以外は、つま先をジッと見つめていた。
しばしの沈黙のあとで「コホン」と軽く呟払いをしたキャラは、ペタンと床に土下座するように平伏した。
「ごめんなさい!」
唐突に行なわれたキャラの謝罪にソフィアは、正直いって少々面食らった。
「あたし、もっと早くこうしたかった。ごめんよ、兄様の子供だなんて知らなかったんだ。てっきり、トシャーラの子だとばかり思いこんでいた」
平伏したままで謝るキャラは、顔を上げようとしなかった。身体が小刻みに震えている。泣いているらしい。そういえばと思い起せば、キャラの目の周りははれぼったくなっていたような気もする。あれから、ずっと泣いていたのかもしれない。
「あたし、兄様にもなんて言って謝ればいいのかわかんない。謝って済むものでもないけど、とりあえず、ソフィアに謝りたかった。ごめんなさい」
スッとかがみこんで、ソフィアはキャラの背中をゆっくりと撫で擦った。涙でクシャクシャに歪んだ顔を上げて、キャラがソフィアをすがるように見つめている。苦しんでいたのは自分だけではないのだとソフィアは悟った。ソフィアが許さなければ、この少女は辛い思いを抱えこんで生きていくのだ。
「もういいのです。あの子の運命だったのです。それに、わたくしの不注意でもあります。わたくしがもっと大事にしなかったから、創始神様が怒ってあの子を連れていったのです」
慰めるために言っておきながら、胸が潰れそうなくらいに重苦しさを感じた。罰なのだという思いが頭をもたげてくる。思いを振り払うように、夢中で頭を左右に振った。
「あたしを許してくれるのか?」
真っ直ぐにソフィアを見つめるキャラの視線に、思わずソフィアは顔を背けた。キャラの純真な子供を思わせる眼差しに耐えられなくなったのだ。そんなソフィアの心など知らない彼女はガクッと肩を落とした。
「ち、違います。恨んでいません。ですから、許すとか許さないとかの問題ではないのです。ただ、少し妬ましかったのです」
キャラの子供みたいな無垢な視線に、ソフィアは思わず心情を吐露していた。言ってから、しまったと言うように口を塞いでも、言葉は戻ってこない。キャラが涙で濡れた瞳で怪訝そうにソフィアを見つめていた。ソフィアが、フォーサスのせいでなくしてしまったものを、この少女はまだ持っている。羨ましいというよりも妬ましく感じられた。それ以上に、いつかこの少女にも自分と同じ運命が待っているのかもしれないと思うと、遣りきれない思いで一杯になった。
恐る恐るソフィアは、キャラの身体に触れてみた。先程は平気で触れられたのに、今度は勇気が必要だった。触れた瞬間、ドキッとして思わず手を引っ込めた。汚れた自分が触れることで、キャラも汚れそうな気がしたからだ。キャラにはソフィアの行動が不愉快に思えたらしく、ブスッと頬をふくらませた。
「あたしの身体に何か付いてるとでもいうのか?」
「いいえ、そうではなくて………」
アハハハハッッッッと高笑いが部屋の中に響き渡った。入口にお茶の用意をしてきたシェリルが笑いながら、立っていた。シェリルはテーブルの上にポットとカップを並べながら、笑いがおさまらないらしく、苦しそうに身をよじらせた。
「シェリル、何がおかしいんだよ」
「さあて、お姫様方、お茶が入りましたよ。お座り下さいな」
シェリルに促されて、二人は渋々とテーブルについた。キャラは不機嫌な子供の顔で、お茶の入ったカップをガブ飲みするように口に流しこんだ。ソフィアは恥かしそうに顔を赤らめた。
「キャラ様、ソフィア様は自由なキャラ様が羨ましくてたまらないのですよ」
シェリルがソフィアの代わりに、彼女が神聖ルアニス帝国の最後の皇女であるために、フォーサスに無理強いされて愛妾になっているのだという話をすると、キャラの顔がまた涙で醜く歪んだ。
「兄様がそんなことをするなんて、酷いよ」
「キャラ様、今の世の中では当たり前のことです。ソフィア様は神聖ルアニス帝国の最後の姫様ですからね。ソフィア様を狙っている国はこのチャイニェン大陸に数多あります。まだ、フォーサス様の許にいた方が、幸せなのかも知れません」
ソフィアは深く頷いていた。アーリアン帝国はチャイニェン大陸の覇権を争う国の中では、一番の勢力を誇っている。もし、ソフィアが捕まったのが弱小国だった場合にはすぐに他国に滅ぼされ、ソフィアは新たな国の男の許で暮らさなければならない。もし、その時に子供でもいたら、性別が男なら間違いなく殺されるだろう。女であれば、それはそれで別な使い道ができる。数多くの男たちの手を経ることになるよりは、フォーサス一人の腕の中にいられることは贅沢なことなのだ。ロスモールはそれを見越して、わざとソフィアに敵討ちを焚き付けたのだ。それも敵であるアーリアン皇帝を狙うのでなく、わざわざ嫡子のフォーサスの命を狙うようにと仕向けたのである。あざといことだ。それが亡き父親によって仕組まれたことと知りながも、自分の中に残っている父親のイメージと合わなくて、それもまた戸惑いの一つになっている。
「キャラ様、この機会にはっきりと申し上げておきます。ソフィア様に起きたことは、いずれキャラ様の身にも起こり得ることです」
「いやだ!あたしはトシャーラと結婚するんだ!他の男になど嫁ぎたくない!」
バタンと椅子を蹴って、テーブルをドンと叩いた。振動でカップがカチャカチャという音で震えた。泣いてた顔が怒りで赤く燃え上がっている。コロコロと極端に表情を変える仕草が微笑ましくて、ソフィアの顔が次第にほころんだ。シェリルの顔も同じらしく、フフフと笑みを洩らしていた。
この一件から、キャラはソフィアに同情したらしく、何かとまとわりつくようになった。キャラは、遊んでほしくてじゃれてくる子猫みたいだ。フォーサスがキャラをかわいがっている気持ちがよくわかった。ソフィア自身もキャラがかわいくてたまらなくなってきている。二人の少女は、互いを名前で呼合い、世間から遠く離れた隠れ里での日々を自由でのびのびと過ごすことに専念した。




