小さな哀しみ
長老との会見の後で、チェシャから「ここを自分の家だと思ってゆっくりとくつろいで下さい」と言われても、ソフィアは落ち着かなかった。ザザン、ザザァッという潮騒の音が耳について眠れなかったのだ。
-コトン!
小さな音が窓から聞こえた。小さな足音が潮際の音に混じって、忍び寄ってくる。バサッと布団を侵入者に被せた。侵入者は、ソフィアが寝ていると思って油断していたらしい。枕の下に隠しておいた短剣を取り、身構えた。相手の武器も短剣らしく、シュッと下から突き上げるように風を切る音が聞こえた。避けながら、相手の手をバシンと手刀で叩いた。相手の短剣が弾き飛ばされ、カランと音を立てて床に転がった。後ろに回ると相手の首を掴み、グイッと腕を回して喉を締めるように抱えこんだ。相手が、自分と対して変わらない身長差であることに気付いたからだ。
「わたくしに何か御用ですか?」
相手の見当はついていた。キャラという少女だ。兄フォーサスの側近であるチェシャを気に入って、まとわりついているらしい。年はソフィアの二つ下で十三歳。フォーサスとは六歳違いになる。
「あたしと勝負しろよ。あたしが負けたら、トシャーラのことをあきらめてやる。でも、あたしよりも劣るようなら、おまえを殺す」
陰にこもった声は殺気だっていた。ソフィアは、手を緩めてフゥと大きく息を洩らした。
「勝負はついてます。あなたの負けです。わたくしはチェシャにつきっきりで、戦い方を教わりました。無用な争いは止めるべきです」
「知ったような口を聞くなよ!」
自由になった少女の足が、ソフィアのお腹を力任せにどんと蹴飛ばした。突き飛ばされたような形になったソフィアの身体は、ベッドの端に激しくぶつかった。「アウ」低いうなり声を上げて、ソフィアがお腹を抱えて床にうずくまった。激痛が走ったのだ。ソフィアの顔が苦しそうに歪んでいた。
「いい気味よ」更にキャラはソフィアのお腹を蹴ろうとした。「ダメ!」ソフィアが物凄い形相でキャラの足を掴んだ。
「チェシャを、チェシャを呼んで下さい」
苦しそうな声で頼んだのだが、キャラは床に流れた血を見て急に恐くなったのか、パタパタと足音を立てて逃げ去っていった。ソフィアは少しずつ床を這うようにして、ドアに近付いた。
「駄目、我慢して、こんなことで弱音を吐いちゃ、強い子になれないわ」
肩で息をしながら、ドアを必死に開けて外に転がり出た。下腹部から何かが流れ落ちたような気がした。「ああ」と呟いたソフィアの瞳から涙があふれた。
「ソフィア様!」
悲鳴に近い女の声が頭に響き渡った。幾人かが慌ただしく、かけてくる足音も聞こえる。ソフィアは、下腹部を襲った酷い痛みと胸をグイグイと太い棒で突き刺されたような痛みに耐えかねて、床に崩れるように倒れた。
「痛みはもうありませんか?」
気が付いた時に、ベッドの傍らでチェシャが柔らかい笑顔で微笑んでいた。ソフィアは顔を背けた。話をするのが恐かった。チェシャにはっきりと子供はもういないのだと告げられることを恐れた。望んでなかった初めての妊娠は、ソフィアに戸惑いと恐怖をもたらした。少しずつ落ち着きを取り戻したあとでも、子供などいなければと幾度も考えた。子供を産んだあとの自分はどうなってしまうのかと、不安でたまらなくなるからだ。
フォーサスが望むのは、神聖ルアニス帝国の血筋を継いだ子供のみで、ソフィアではないのだ。それだけはよくわかっているつもりだった。子供だけをソフィアから取り上げて、元の市井に戻すつもりなのだろうか?考えてみて、頭をぶんぶんと夢中で振った。ソフィアの子供を手に入れて、彼女を市井に戻すような真似をフォーサスがするはずがない。他の国がこれ幸いにソフィアを手に入れ、新たな子供を産ませようとするからだ。そうなれば、覇権争いは熾烈を極める。結局、ソフィアはフォーサスの許で過ごさざるを得なくなるだろう。既にソフィアは、自由に生きることを許されない存在になっていた。
子供の存在は、いなくなってわかる大切なものだった。産まれてこなければいいと思いながらも、心の奥底では子供の存在を確かめるように幾度も確認していた。ソフィアは素直に喜べなかっただけなのだ。下腹部の痛みよりも、胸をキリキリと締めつけるような痛みの方がつらくて、せつなく感じられた。
「しばらく、ゆっくりとお休みになられた方がよろしいでしょう。何も考えない方が身体のためにはよろしいですから」
チェシャの言葉は、ソフィアを打ちのめした。遠回しの言い方をするチェシャの言葉は、子供が駄目になった事実を告げていた。何も考えるなとは、クヨクヨするなという意味だと悟った。「ウクッ」という声を洩らすと、ソフィアは急にガバッと撥ね起きて、チェシャにすがって大声で泣いた。チェシャの腕がソフィアの身体を壊れ物でも抱くように優しく抱きしめた。温かいチェシャの抱擁に、ソフィアは我を忘れてすがりついた。
鳩が届けたチェシャからの定期報告に目を通したあとで、フォーサスはしばらく目を閉じて腕組みをした。石にでもなったみたいにジッとそのままの姿勢なので、不安に思ったトシェインが「殿下?」と恐る恐る声をかけた。我に返ってほんの一舜だけハッと驚いたような顔になったが、すぐに表情を隠した。
「何でもない、それより、サナザールとの和平の道を開きたい」
「殿下?」
「いつまでも見苦しい争いを続けていては、兵力の消耗を招くだけだ。サナザールの背後にはエフラカーン王国がいる。こちらが弱ったところを野心家のエフラカーン国王は襲うつもりなのだ。弱ったところを叩かれる前に、決着をつける。国境の件では譲れないが、他の面で譲歩できるならその線で和平を進めろ」
いつにない厳しい声だった。トシェインの身体が緊張して、ビシッと直立不動の姿勢に変わった。
「わかりました。早速に情報を集めます」
言い終わるなり、トシェインは脱兎のごとくに部屋を飛び出していった。フォーサスは片手を額に置き、机に肱をついて俯いた。
「俺としたことが、これしきのことで動揺するとは無様だな」
自嘲めいた笑いを浮かべると、今度は両手で顔を覆った。チェシャから届いた水軍に関する報告の中には、ソフィアの流産がさりげなく記されていた。顔を覆い隠すように俯いたフォーサスの周りだけ、ほんの少しの間、時間が凍りついたようだった。
「これ以上無益な争いは無駄だ。サナザールとは和平を進める」
トシェインが至急にロスモールと連絡をとり、もたらされた情報を幾つか分析した後で、フォーサスは会議を開いた。席上で、開口一番に言った言葉だ。集まった将軍や騎士隊長たちの口から、ザワザワと不協和音が流れた。
「殿下は臆病風に吹かれたと見える」
フォーサスは声の主をチラッと一瞥した。兄カーディスの従兄弟でもある若い騎士隊長は、不遜な笑みを浮かべていた。周りに同族の騎士隊長たちを集めて、フォーサスを誹謗する声をがなりたてていた。前線基地に赴いてわかったのだが、サナザール討伐隊の騎士隊長の大半は、二人の兄カーディスとラシェイルの血族の者によって占められていた。イマザシェン領にいるカーディスに書簡で問い質したところ、彼の母親とラシェイルが仕組んだことだという話だ。『汚い手だな』と半ば呆れたように舌打ちをしたものだ。
事実、サナザール公国との戦が一向に決着しないのは、彼らののらりくらりとした戦い方に問題があった。彼らにこれ以上兵を任せていては、無駄に兵力を消耗させるだけだとわかっている。サナザール公国自体にもエフラカーン王国がらみの思惑があるのがみえみえで、あからさまに戦いを引き伸ばすような動きをみせていた。これ以上、無駄に争うのは愚者の行為である。
「ヒラテ将軍、皇帝陛下から承った勅命は、サナザール公国の滅亡でしたな」
鬼の首でも取ったような勢いで、若い騎士隊長は居並ぶ面々を一望したあと、将軍のヒラテに確認を求めた。ヒラテは、皇帝付きの将軍から皇太子付きの将軍となったばかりで、皇太子となったフォーサスの後見として、皇都からついてきたのだ。ヒラテが、苦虫をかみつぶしたような顔で重々しく頷いた。
「それを今更和平などと戯言を仰られるとは、本末転倒もはなはだしい」
どうせ何を言ったところで、聞く耳は持たないだろう。勝手にしろとばかりにフォーサスは腕組みをして、ドサッと椅子に座りこんだ。ふてくされたような態度に見えるが、実際にはサナザール公国とどう和平すべきかを考えていた。とりあえずは、チェシャを呼び戻す必要がある。互いの下心を見探りながら、相手をこちらに誘いこまねばならない交渉ごとは、チェシャの得意とするところだからだ。
「頭の悪いボケナスどもに、一応俺の考えは伝えてやったのだから、あとはやつらが何をほざこうが俺の勝手にやる」
これがフォーサスの信条だ。ふてくされたり反抗的な態度をとるからいけないのだと、心の内で舌打ちをしながら、トシェインは不満げな顔をフォーサスに向けた。この点がチェシャとトシェインの違うところだ。チェシャならフォーサスの足りない言葉を補い、舌先三寸で周囲を丸めこもうとするが、トシェインにはそこまでする度胸がまだなかった。
「では、このまま、ずるずると小競り合いをいつまで続けるおつもりですか?」
フォーサスの代わりに反論するつもりで、声を出したトシェインを見た男の目が、トシェインにあからさまな侮蔑を与えた。
「これだから、戦にでたことのない青ニ才は困るんだ。我が国がいつまでもこんな戦いを続けると思っているのか。殿下が我々に号令さえすれば、一気に攻勢にでれるのだ。我々が本気を出せば、サナザールなど一息で蹴散らしてくれるわ」
大言壮語する若い騎士隊長をフォーサスは冷静に観察していた。彼の意図を汲み取ろうとしたのだ。彼の言論から推察される幾つかの事項が、頭の中で浮き沈みを始めた。最終的に思考は二つに絞りこまれた。フォーサスが熟考した結果、彼らの狙いはサナザール公国との戦いの失策により、フォーサスの社会的な地位の抹殺か、もしくは戦いのさなかに合法的に存在を抹殺するかの二つに一つしかないだろう。それに乗ってやるのも一つの手だが、フォーサスの傍らで下らない男相手にむきになってキャンキャンと吠え立てているトシェインを見ていると、わざわざ危険を犯すような真似はしづらくなる。
「………勝手すぎます。では、エフラカーンの脅威はどうしますか?サナザールが危機に陥れば、エフラカーンが必ず出てきます。一方的な戦いは我が国の疲弊を招くだけです」
知らず知らず、フォーサスは顔をほころばせた。子供だと思っていたが、それなりに成長はしているようだ。ポイントはきちんと掴んでいる。
「エフラカーンなど、恐れるに足りず!」
ガタンと椅子を後ろに蹴って、ムッとした顔で男が立ち上がった。追従するように幾人かの男も立ち上がる。一瞬、室内に険悪なムードが漂った。男たちからは殺気が発せられ、剣に手をかけて今にも抜き放ちそうな勢いさえ感じられた。ヤレヤレと肩を竦めながら、フォーサスが身を乗り出した。
「トシェイン、もうよせ。ヒラテ、俺は一時皇都に戻る。後はおまえに任せた………若い血を煮えたぎらせるのもよいが、大局を見極めきれずに収束を考えられぬようでは大成できぬ」
辛辣な一言で男を突き刺して、フォーサスは席を立った。その後から、すがすがしい顔つきをしたトシェインがくっついてきた。まだまだ青いなとフォーサスは苦笑した。
もう一つ、フォーサスの許へ他国との外交に関して喜ばしい情報がもたらされた。イマザシェン国の庇護下にあったマティーラ国が、アーリアン帝国との同盟を望んでいるという話である。情報をもたらしたのは、旧イマザシェン国の地方領主となったカーディスだった。チャイニェン大陸にある各国の動静が不安定な今、マティーラ国との同盟は願ってもないことだ。フォーサスは、ロスモールにマティーラ国の内部事情などの情報収集を命じて、至急にチェシャを呼び寄せると、様々な角度から情報を検討し始めた。
イマザシェン国が滅んだことで、チャイニェン大陸の覇権を巡る争いに変化がもたらされた。イマザシェン国を破り、神聖ルアニス帝国の皇女を手にしたアーリアン帝国の脅威に対抗するかのように、各国が同盟を組み始めたのだ。その結果、チャイニェン大陸には幾つかの小国家連合軍ができあがった。
チャイニェン大陸における勢力図を考えると、大陸内は大きく三つに分割できる。大陸の約三分の一を占めるアーリアン帝国と四分の一強を占めるエフラカーン王国とサナザール公国の二大連合国、そして、四つの小国家連合国とイマザシェン国という後ろ盾を失った幾つかの小国家である。
実を言うと、カーディスが旧イマザシェン国の地方領主になったのは、イマザシェン国が同盟を組んでいた小国家をアーリアン帝国に与するように画策してほしいと、チェシャに頼まれたからだ。胸に一物を持つカーディスとしても、帝国の基盤を揺るぎないものにするための協力は惜しまないつもりなので、快く了承したのだ。
マティーラ国は、神聖ルアニス帝国の一地方領主が母国が滅んだ後に興した新興国である。前国王が病床に伏したために、国王の嫡子に代替りしたばかりで、政情が不安定になっていた。そこへ頼りの綱としていたイマザシェン国が滅亡したので、内乱が生じたのだ。マティーラ国がアーリアン帝国に同盟を願い出てきたのは、そうした背景があるためである。現国王デイツはフォーサスとたいして年が変わらないらしい。
「妹君を殿下の愛妾に差し出したいと申し出ております」
内密にカーディスと共にマティーラ国に赴いたチェシャが、ロスモールの手引で極秘にデイツと直接に会ってきた報告をフォーサスにしたところだった。フォーサスの眉がピクンと動いた。チェシャが笑いをかみ殺しながら、預ってきた肖像画を差し出した。
「御年十八歳で、素直でなかなかかわいらしい方のようですよ」
フォーサスの手が邪険に肖像画を払い除けた。彼の翡翠の瞳が怒気を含んだ光を放ちながら、チェシャを険しくにらんでいる。澄ました顔で床に落ちた肖像画を拾い上げると、汚れを払うようにサササと布で表面を撫でた。
「妹君が嫌でしたら、姫君になさいますか?御年五歳です。幼いのに利発な姫君で、デイツ国王は目に入れても痛くないほどにかわいがっていらっしゃいますよ」
「愛妾などいらぬ」
フフフとチェシャが妖艶な笑みを洩らした。女装を止めても、チェシャは中性的な魅力を放ち、少年趣味のある重臣たちから、下心たっぷりの誘いを受けることも少なからずあった。やんわりと断る姿もまたそそられるらしい。自分の側近が下せた男たちの欲望の対象として見られることを、フォーサスはあからさまに忌み嫌っていた。この時代、男が男を愛する行為は身分ある者のたしなみとして、当然の行為として受け止められているが、フォーサス自身にはあいにくとその趣味はない。
その代わりとでもいうべきか、女遊びは盛んだった。若いトシェインやササナリをともなって、公然と皇都にある娼館へと足を運ぶのである。「若いのだから仕方ない」と、ヒラテなどフォーサスを擁護する重臣たちは黙認しているが、他の重臣たちは眉をひそませ、「威厳が保てない」とか、「威信に関わる」とか口うるさかったほどだ。フォーサスの女性に関する悪い噂は、全てここから発生している。
一時期はフォーサスのためにと、名家の姫君たちの肖像画がたくさん届けられたりもしたものだ。要するにこの中から愛妾を選び、娼館などといういかがわしい場所への出入りを止めろと言いたかったのだろうが、フォーサスは肖像画には目もくれず、娼館通いを止めようとしなかった。
「遊ぶ女には不自由していない。あいつだけでも持て余しているのに、これ以上女に縛られててたまるか」
「わかりました。では、殿下のいいように話を進めておきます」
顔に笑顔を張り付けたまま、チェシャは肖像画を手にして部屋から引き下がろうとした。
「おい、チェシャ、どういうつもりだ?」
「殿下には、かわいらしい愛妾が一人増えるだけですよ。マティーラ国との同盟は、国にとっても殿下にとっても必要なものです。元々は神聖ルアニス帝国の臣下の国ですからね。忠誠は期待できると思いますよ」
ドアの前で立ち止まり、真顔でそう告げると、フォーサスが何か言いだす前にとっとと執務室から逃げ出して行った。「チェシャ!」怒気をたっぷりとはらんだ呼び声が、聞こえたような気もしたが、チェシャは肩を軽く竦めて、「本当、困ったものだわね」と呟いた。
チェシャにとってはフォーサスは手のかかる弟のような存在だった。対等な友として扱ってくれるフォーサスの態度は好ましいが、それも他の臣下の手前では厄介な問題が生ずる。その上、彼がソフィアに対して拗らせている気持もわかっていた。今更と思うが、かわいい弟分であるフォーサスにとっては彼女は初めて恋した女性と言える。それを認めたくなくて足掻いている。それはたぶんソフィアにも言えることだと彼は考え、そして足を止める。そこにわずかな嫉妬心があったからだ。
「馬鹿な考えね」
自分に生じた想いがなんであるか吹っ切ろうとしてまた歩み始めた。生温い風が通り過ぎていく。外廊下は吹き抜けになっていて、どんよりとした空が見えた。嵐が来るのかもしれない。それはどんな結果をもたらすことになるのかと彼は歩きながら考えた。




