He is 1
悪魔の館に住まいを移して早2週間。
肝心要の事務員イットが出て来ない。あの人が捕まれば万事解決、あたしはお家に帰れるのに。
水島家は住めば住む程居心地が悪くって、あたしってば家族に恵まれていたんだなぁ、って改めて感じちゃった。まあ、一人暮らしの下宿だ、って思えば割り切れるのだろうけど、家主の水島智哉はいちいち突っかかる様な嫌味を言う奴だし、アテにしていたよっちゃんは顔を合わせる事なんて殆んど無くて一体どんな生活を送っているんだって感じだし、出される食事は毎回豪華で量が多くて食べるのも残すのも辛いし、そもそも朝は誰も起こしてくれないから最初の一週間は毎日遅刻したし、家を追い出されて以来家族からは何の連絡も無いしで、
ちっくしょうっ、ムカつくっ!!
「いてぇ!」
鞄を塀の向こうに投げたら、そこから既に馴染みとなった声が聞こえた。だから、無視。
跳んで片手をついてフェンスの上に飛び乗る。座り込んでいる奴が頭を押さえて俯いている間に、スカートを手で押さえて飛び下りた。
ここは、いつもの学校裏。
あたしはもう、香取の目の前では遠慮なく跳ねまくっている。
あたしが着地すると同時に、香取は勢いよく顔をあげて言った。
「お前ワザとだろ、かすったぞ!」
「ワザとなんて人聞きの悪い」
香取を見下ろして冷たく言う。
すると香取が眉根を寄せてあたしを睨んだ。
「・・・・ワザとなら確実に当ててる、とか思ってねぇか?」
「えっ! 何で? 香取、やっぱサイっ??」
「てめぇこのやろう。立派な凶器だろ、これは」
「それよりスカートの中、見てないでしょうね?」
「毎朝毎朝同じ質問すんなよ。見てねーよ、つかそんな心配なら見せんなよ。被害届出すぞ」
そう。あの日以来、あたし達は毎朝ここで会う。約束した訳でも、申し合わせた訳でもない。
ただ遅刻初日(つまり水島家から登校した初日)、正門が閉まっていたのでいつもの場所から跳び入ったら、香取がそこに座っていたのだ。あたし達が初めて会った時と同じように。授業をサボって。ただ煙草を吸ってはおらず、本を読みながら、だけど。
ビックリするあたしを尻目に、香取は当然の様に立ちあがるとあたしと一緒に教室へ向かった。
そして先生にこってりと叱られた。二人して。
それはもう、教室中の注目を浴びた。
それ以来毎日、何故なのか、彼は遅刻するあたしをここで待ち続けていた。そして先生に叱られて、皆に注目される。すっかり周囲公認の仲にされてしまった。
そして流石に遅刻を避け始めたあたしは、なんとなく毎朝、正門ではなくこのフェンスにやってくる。
そして相変わらず、彼はここにいる。なんでもないような顔をして、ここに座って本を読んでいる。(彼は漫画が嫌いならしい。あたしなら漫画しか読まないのに)
「あの、さ。無理してあたしに付き合わなくっても・・・・」
あたしは立ったまま、口をもごもごさせて言った。
すると香取は、イヤに真顔で、あたしの事をジッと見上げている。
「な、何よ」
「俺さ。その台詞、聞き飽きた。もうちょっと他に言い方は無い訳?」
「て、じゃあ・・・・」
余計なお世話?
そう言おうとしたあたしは、座っている香取の隣あるビニール袋に目が釘付けになってしまった。
「・・・・・何だよ」
「いえ別に」
「・・・・何だよって」
「・・・・・・」
「食いたいのか?」
「くれるのっ?」
「お前、また飯食ってきてないの?」
「毎朝コンビニ食を学校で食べる人に、呆れられたくないわね」
「そいつにタカろうかってヤツが、デカイ口をきくなよ。あの屋敷で朝飯出るんだろ?」
「だって起きれないないんだもん・・・・」
「親にべったりの生活を送ってるからそうなるんだ、ほら」
「あっツナマヨっ」
あたしは香取のコンビニ袋の中からツナマヨおにぎりを取り出すと、彼の隣に座り込み、もどかしく包装を剥いてかぶりついた。うまいっ。
「おいしー。香取ー。飲み物はどこー?」
「・・・・つけあがんなよ?」
「あ、ミルクティー発見」
「あ、お前っそれ俺のっ」
「あー、おいしい。落ち着いたー。でも、顔に似合わず相変わらずの甘党ー」
「おにぎりにミルクティーなんてどんな食い合わせしてんだよっ。ほんとにあらゆる意味でセンス皆無の女だなっ」
「・・・・・」
あたしは思わず香取を見つめてしまった。
だってさ、おにぎりにミルクティーの組み合わせを買っていたのは香取だよ? それをかすめ取ったあたしにセンスの悪さを責めるとはどういう事よ?
コンビニの袋の中には、食べ終わったサンドイッチの包装が入っている。香取の朝ご飯。香取は毎朝ここでサンドイッチを食べている。一人暮らしで、炊事が面倒臭いのだろう。朝はご飯よりパン派。でもあたしはご飯派。
だからこのおにぎり、朝ご飯を食べ損ねているあたしの為に買ってくれたんだ、と考えるのは調子に乗りすぎているかしら?
でもお兄さん、だったらついでにお茶も買ってよ。
「・・・・今度は何だよ?」
結構うっかり屋さんの彼は、自分が何を言ってしまったのか気付かず、じっと見つめるあたしに再び眉根を寄せる。
あたしは黙ってミルクティーをグビッと飲んでから、言った。
「・・・・香取ってさ。言ってた割には何も訊かないのね」
「何を?」
「・・・・・・」
「・・訊いて欲しいのか?」
「・・・・・・・」
「じゃ、訊かね」
香取はつまんなさそうに答えると、あたしがここに来るまで読んでいたであろう本に目を落とした。英語の分厚い専門書に見えて、すっごいムカつく。
長い足をラフに投げ出してその本を読む彼を、あたしはおにぎりを食べながら隣で、見るともなく観察をしていた。何が書いてあるのかなぁ、あの本は。あそこにある図は化学式なのかな?
女の子みたいな長い睫毛に整った鼻筋の美少年振りが、彼の華奢さを強調している。だけど長身なので成長途中って感じで、メッシュの入ったウェーブが、粋がっている反抗期のコみたい。実際ヤンキーみたいな喋りと態度だし。
だけどあたしと二人の今、彼は英文の本を黙って読んでいる。このギャップって、何だろう?
しばらくして香取が、本から目を離さずに呟いた。
「そもそも俺にはカンケーねーし、大体事情はわかったし」
「え? わかったの?」
「ん。訳わかんなくってめんどくせーって事が。要は殴ればいいんだろ? あいつが来たら」
なんだそりゃ。まあ、確かにそうだけど。あたしは少し呆れてしまった。
香取がよっちゃん達から何を聞いたのか、あたしは知らない。どうせ聞いてもロクに教えてくれないだろうから、あたしは彼らに何も尋ねていない。
でも香取がある程度、今の状況を受け入れているのは分かる。
あたしは肩をすくめて、含み笑いをした。
「ふふ。それがですね、もうその必要は無くなったのかもしれないのです。あたし、あの人にもう見つからないかも」
「は?」
香取が本から目を離し、驚いたようにあたしを見る。
あたしは得意になって言った。
「しんた・・・コーチにね。練習の成果が出て、あたしはもう随分気を押さ・・・随分身を隠す、じゃない潜める事が上手になったって言われたの。だからこれからは、気をつければ一人で行動しても大丈夫って」
「・・・・ばかか、お前」
「何だと?」
「事情を知らない部外者の俺でもわかるぞ。お前、ばかだろ」
「ごめんなさい。蹴り入れていいですか?」
「お前がこの学校に生息しているのはバレてんだぞ? あいつがここに舞い戻ったら一発だろうが。どうやって学校で身を潜めて隠すんだよばーか」
「・・・・おおう」
あたしは思わず感嘆の声をあげてしまった。
気付かなかったわ、新谷さんに褒められた事と実質卒業宣言をされた事が嬉しすぎて、大事な事を忘れていた。あたしは素性が割れているんだった。だから家でも学校でもガードが付いているんだった。
そう、学校までは、水島さん家の運転手さんが車で送ってくれている・・・・水島智哉付きで・・・・。ヤツは後部座席で、あたしの隣で、腕を組んで寝ているだけ。ウザいし気まずい。早く掴まれ村本イット。
「信じらんね。よくそれで世の中渡ってこれたな、つか生きてこれたな、文字通り。俺のいない時にあいつに見つかったらどうすんだよ?」
呆れた様にあたしに言う香取に、あたしは再び口をもごもごさせながら言った。
「・・・・それなんだけど・・・・」
今更何だけど、それも香取相手に頼むのはすごく悔しいのだけれどそれも今更で・・・。
あたしは上目遣いで香取を見た。
「香取の所に、逃げてもいい?」
香取は無表情であたしを眺めると、再び本に視線を落としながら言った。
「殴ればいいんだろ?」
言葉まで無表情。あたしは肩身が狭くなった。
「・・・・やっぱ巻き込んでいる。ごめんね」
「勘違いすんなよ。巻き込まれてるんじゃない、足を突っ込んでるんだ、俺が」
そう言ってページをめくる。あたしは何か言おうとしたけど、諦めて、美味しくおにぎりを食べきる事に専念した。
しばらくすると、香取が顔をあげた。そしてあたしのミルクティーをあたしの手から奪った。
て、そか。元は香取のミルクティーか。
香取はその残りをぐびぐびと飲み干す。
「あっ。あたしの残りーっ」
「もうすぐ予鈴だ。行くぞ」
そう言って本を閉じると立ちあがった。渡されたのはカラのペットボトル。おいこらっ!
「ごみは自分で始末しなさいって親に教わらなかったのっ?」
「側を離れんなよ」
「え?」
驚いて固まると、その間に香取は自分の荷物を持ってさっさと行ってしまった。
いや、自分の荷物だけではない。あたしの鞄まで持って行ってる。つまりあたしの手にあるのは、コンビニのゴミ袋だけ。
「宮地真琴!」
遠くで彼が振り返って、あたしを呼ぶ。
あたしは飛び上がって、慌てて駆けて行った。
「やっぱりね、人生経験が豊富って感じがするの。まだ全然若いけど、色々物を知ってるし。相談しても頼りになるんだよ」
移動教室からの帰り、唯と一緒に廊下を歩いていた。
唯は日に日に元気になっていった。今楽しそうに話をしているのは、彼女の塾の先生。美人教師ならしい。
あの事件以来、これはあたし以外誰も気付いていない事だろうけど、学校での風邪の流行は急速に収まって行った。今となっては、そもそも風邪であったかどうかも疑わしい。あの事務員二人が、学校の生徒達の不調に関わっていた事は確かだと思う。
だけど、確かめようが、無い。
気を吸われた人間は、具合が悪くなる。だけどその間の記憶がないのだって。
そして多くの気を吸われた人は、その後の人生で慢性的な疾患を背負ってしまう場合が多いらしい。多くのケースが免疫系統に不具合が出る、って水島さんが言っていた。アレルギーの一種かしら、とあたしは考えているのだけれど、実際はもっと深刻であるらしい。吸われた気の代わりに、イットの気だかエネルギーだかをわずかに貰ってしまうのかも知れない、と教えられた。
だから唯も、今まで具合が悪かった原因が風邪かイットか、なんて分からない。
けれどもあたしは、唯が今後、そういう原因不明の体調不良を訴えないか、と心配している。彼女の具合が悪かった期間が、わりと長かったような気がするから。それがもし、知らない所でイットに気を吸われていたのだとすれば、どうしよう?
「相談って、例えばどんな事を相談するの?」
申し訳無い事に、唯の話をあたしは適当に受け流した。あたしの心配をよそに、唯はとても元気そうに見える。
そう言えば、学校にいる時にあたし達が行動を別にする事なんて、殆んど無かった。
じゃあやっぱり、唯の体調不良はただの風邪だったのかも知れない。だといいのだけれど。
「進路相談に決まっているじゃない」
そう答えた唯の顔が、何故か少し赤い。え? 何で?
「加藤と話して決着済みなんじゃないの?」
あたしがそう言うと、何故か益々赤くなる唯。えぇ? 何で何で?
軽く受け流せなくなった。この反応は、何?
「あ、わかったー。恋話とか相談しちゃってんじゃないのー?」
テキトーに言ったら、もっと赤くなった。ちょっと、マジで?
あたしは今や正面から向き直って、唯に食いついた。だって順序が違うでしょ?
「え? え? そういう事、あたしに相談しないで塾講にする? それはひどいでしょーっ。どうしてよっ」
「だって真琴って何だか激しそうだし、色々とズレていそうだし・・・・」
「えっ? 全っ然意味わかんないっ。何だか激しそうも色々ズレていそうも、さっぱり意味がわかんないっ」
「だからほら、色々と・・・・」
あたしと唯が廊下で騒いでいると(というか、あたしが廊下で騒いでいると)後ろに何かがぶつかった。
あたしは前につんのめる。唯が咄嗟に支えてくれた。
「あ、ごめんなさい」
その声に振り向くと、可愛い一年女子が立っていた。
そう、この子は・・・・
「はるなちゃん」
「大丈夫ですか? 汚れちゃいましたね」
困ったように眉根を寄せる。その表情、確かにどことなく香取に似ている様な気がする。
彼女が手に持っているのは塗料。ジャージを着ている。隣を見ると、美術室。きっと美術の授業が終わったのだろう、と思った。
何でぶつかられたのかは分からないけど、多分、美術室の前で騒いでいたあたしが悪いのだろう。邪魔になっちゃったんだ、わざとじゃないよね。
見るとあたしの制服のスカートの後ろ側には、赤い塗料がべったりとついてしまって血糊みたい。あたしは申し訳ない気分で苦笑した。
「・・あー、大丈夫だよ洗えば「でもこれ、洗っても落ちないんですよね」
台詞の途中で遮られる。気のせい?
目の前のはるなちゃんは相変わらず、すごく困った顔をしている。
「どうしよう、礼に怒られちゃう。弁償しないとダメですよね?」
「弁償なんて、そんな」
「とりあえず、あたしの制服を代わりに着て下さい。帰り、困りますものね? 後からお届けします。あ、礼に渡しておこうかな? それなら確実ですものね。宮地さんは礼にべったりですから」
「・・・・・・」
次から次へとまくしたてる。あたしと唯は目を丸くした。
・・・・前言撤回。気のせいじゃないかも。
「私の服じゃ、着づらい? 特に礼の前では」
「・・・・はるなちゃん・・・・」
あたしは言うべき言葉も無く、スカートから塗料を滴らせたまま、いつの間にか射る様にあたしを睨んでいる彼女を見つめた。
彼女は真っ直ぐにあたしを見ている。唯の存在はまったく眼中にないらしい。
長い睫毛の大きい瞳は、やっぱり香取と似ていると思った。
「礼は将来、私と結婚するんです。双方の親が合意しています。私のパパが会社を経営していて、礼は将来その後を継ぐんです。イギリスに留学していたのだって、そういう英才教育の一環だし。だから宮地さんはただの遊びです。イギリスでだって、礼はそういう女の子が山ほどいたんだから」
「・・・・・・・」
「だから私達の迷惑になる様な事はやめて下さい。例えば、今あなたがしている様に礼を変な事に引っ張り込むとか。彼の将来に傷がつきます」
「・・・・・・・」
「あの人から離れて。礼の事を分かっているのも釣り合うのも、・・・・将来の相手になるのも、私だけなのよ?」
キツイ眼差しで毅然と言い放つあたり、イチイチ香取とダブって腹立つなぁ、もう。
あたしは溜息をついた。
だけどなんだか同情しちゃう。海外での女遊び(?)を容認している様な台詞を吐きながら、香取に近づくなとあたしに言うし。宮地さんは遊びです、ってじゃあほっときゃいいじゃんかよ、イギリス女達の時みたいに。
それに香取の将来に傷がつく、って何がどうなるのかさっぱりわからないし。
それに香取の事を分かっているのも私だけ云々、って、あたしそんな事この子に主張した覚えもないし。
そもそもあたし、香取と付き合ってないし。
それに香取様がイギリスで女性達となさっていたようなお遊び? もあたし達してないし。
つまり、目に届く範囲にいる香取が、自分から離れて行くのが耐えられないのね。イギリスにいたら見えなかったから我慢できたのにね。そもそも香取が、彼女にくっついていたのかどうかも分からないけど。あ、別に今はあたしとくっついている訳じゃないけど。
なんてうだうだ言うのも・・・・
「・・・・・面倒臭い・・・・」
再び溜息をつきながらあたしはそう呟いた。
隣で唯が不安そうにあたしの手首を掴んだ。見ると、すごく心配している。香取の時の様に、殴るとでも思っているのかしら? 流石に女の子相手にそれはしないよ。
「何?」
はるちゃんが少しイラッとしたように聞き返してきた。
だからあたしは彼女に向かってハッキリと言った。
「そういう事、全部香取に言えば?」
「言う必要無いわよ。本人は全部知っているもの」
「じゃ、香取の好きなようにやるんじゃない? 18になる男を掴まえて、周りがどうこう出来ないでしょ?」
あたしはあの男と付き合ってはいません、とか、あなた嫉妬してますね? とか、そんな事は言いません。
それは彼と彼女の事情でしょ?
すると彼女は少し驚いたようにあたしを見て、次にせせら笑った。
「・・・・・何にも知らないのね」
何を言っているのだろう? とは正直思ったけど、知らないか知っているかすら、興味が無い。あたし、今自分の状況にいっぱいいっぱいなの。これ以上余計な事を背負い込みたくないの。
あたしは彼女に背を向けると、唯の手を引っ張った。
「行こう、唯」
「礼は今年16歳よ。私と同い年」
後ろからはるなちゃんの声が飛ぶ。
あたしはしばらく歩いて、それから立ち止まった。
正確には、固まった。
今、なんて言った?
「・・・・・・・・・・・はっ?」
振り返って、思いっきりためて、やっと出た言葉が、コレ。
その間、ずっと待っていてくれたはるなちゃん。やっぱ可愛いかも。
「だから先輩、おばさんなの」
けれども可愛くない台詞を勝ち誇ったように言われて、だけどあたしは全然堪えなかった。
だってあまりにビックリして!
あいつ、年下っ?
というより、なんで16歳が高校3年生のクラスにいるのよっ!!
そんな事、あり得ないでしょっ!!