First Incident 3
立ちすくんだ香取の唇ギリギリに、イットの唇が近づいた。触れるか触れないかの距離。
ヤラレル。ナントカシナクチャ。
あたしは体中の毛が、逆立つかのような感覚を覚えた。
それが、イットの気からもたらされたものなのか、あたしの中から沸き起こったのかはわからない。
息が止まった。何かが、あたしの体の中で弾けた、気がした。
頭で考えるよりも、体が動く。あたしは飛び出そうとしていた。
その時、香取の拳が上がった。
「気色悪ぃ事すんじゃねぇよっ!!」
「え?」
目を疑った。
だって・・・・・香取が、イットを殴った。
・・・・・殴った??
滅茶苦茶綺麗に決まったストレートパンチは、線の細い華奢なイットを吹き飛ばすには十分な威力だった。
て、動けんの??
殴られた彼は、見事に飛ばされて、ひっくり返った。うっそでしょ??!!
あたしは大驚愕して、口がパクパクと動くだけだった。え? え? 殴るだけでいいの?? それだけでやっつけられちゃうの、イットって??
こう、派手なサイのアクションとか、秘密アイテムとか、そういうのは必要無いの??
香取を凝視していると、香取は怒りのあまり顔を真っ赤にして、肩で息をして言った。
「何っだっあいつっ!! あんな気色悪いホモ、見た事ねぇ!」
「・・・・・え?」
ホモ? ホモだって??
香取はあたしにズンズン近づくと、あたしの腕をむんずと引っ掴んだ。
そして有無を言わさずあたしを引きずって歩きだしたの。
「おい、行くぞっ」
「ちょっと」
「あーっ、鳥肌立つっ! このままここにいるとぶっ殺しそうだっ。あの目つき、いくらなんでもあいつは異常だっ、くっそっ。おっと、こいつ」
怒り狂って喚いていたのに、急に立ち止まった。だからあたしは、前につんのめりそうになる。さっきもやったわ、コレ。
香取は忌々しそうに、あたし達の足元に倒れている男子生徒に視線を落とした。
「自業自得とは言え、ここにほっとく訳にいかねぇよな。こんな所で二人でヨロシクやられたら、今後俺、ここに近づく気にもなれねぇ。おい、起きろ」
そう言って、靴で軽く、男子生徒を蹴っ飛ばす。あたしの腕を掴んだまま。下唇をわずかに突き出して。
あたしは本当に、心底、・・・・・・・・呆れてしまった。
「・・・・・あんた、本当に、・・・・・この状況の感想が、それ・・・・?」
「あ? 何言ってんだよ? お前だって見たろ? あの気持ち悪いホモがこいつを襲う所。しかしお前があんなにホモアレルギーだとは知らなかった。人間を差別するのはよくねーぞ」
あたしのあの恐怖の震えを、ホモアレルギーだと??
何よ、それ!! というよりあんた、あの凄まじい恐怖オーラを、何にも感じてない訳?
それより何より、何であんた動けるのよ??
あたしは呆然と驚愕が入り混じった気持ちで、香取の顔を見上げた。だけど次の瞬間、ムッとした。
だって癇に障るんだもんっ、眉根を寄せた香取が、いかにも常識人って顔つきで、あたしに人間差別の話をするからっ。
「・・・・な、ちょ、あんたがそれ言う??」
「こいつ、起きねーな。ちっ、保健室まで連れて行くか。このデカイやつを」
あたしの突っかかりを、香取は普通にスルーした。やっとあたしから手を離し、屈んで、倒れている男子生徒を覗き込む。
あたしは香取から手を離してもらったものの、あのイットがいつ目を覚ますかとビクビクしていた。振り返ったけれど、彼は地面にのびたままだった。
・・・・ねえ、確か、イットに目を付けられたら、それに対抗出来るのって、サイだけじゃなかったっけ? 新谷さんがそう言ってなかったっけ?
あたしはマジマジと香取を見下ろした。
・・・・・・じゃ、やっぱ、香取がサイ、と考えるのが妥当? お祖母ちゃんも、それを調べないと、って言っていたし。
だけど今までの状況じゃ、あたし達ってまるっきり立場が逆みたい。だって、サイのあたしは金縛りみたいに一歩も動けなかったのに、何だかよくわからない香取は、イットの金縛りなんてまるっきり無視して殴ったんだよ? しかも恐怖を感じた様子、無し。
呆然としながら脳内のパニックを処理していると、香取が下から声をかけてきた。
「おい、手を貸せ」
「え? えぇ?」
「ほら、さっさとしろ」
倒れている彼を抱き起こし、香取がその脇下に肩を入れた。
あたしは慌てて反対側に屈み、同じように脇下に首を入れたのだけど・・・・・うっ・・・・。
「よいしょ・・・っと。おい、しっかり支えろよっ」
「はぁ? 無理でしょ、重っ。何これっ」
「くっそ、お前、怪力は使えねーのかよっ」
「あたしを何だと思ってんのよっ」
身長が180センチ以上、体重は確実に三桁を超えているであろう意識の無い男を、華奢なあたし達ふたりで支えられる訳が無い。香取ってまだまだ成長期、って体つきをしてるもん。高三なのにさ、細すぎて体型が幼いの。顔もどっちかと言うと女顔だから、黙っていればますます幼く見えるんだと思う。
・・・・・・態度と腕力が大きい事は、認める。あのパンチは凄かったわ。
とにかく、あたし達二人がうんうん唸っても、この巨体は中々動かない。やっとの思いで立ち上がったのだけれど、これで保健室に連れて行こうなんて到底無理な様な気がして来た。
だからあたしはイライラしてきて、肩から彼の腕を外した。
その勢いでバランスが崩れ、香取が一人で彼を支える格好となる。というより、巨体に埋もれちゃってます。
「おいっ。ちゃんと担げよっ」
あたしは無視して、ポケットから携帯を取り出した。あれ? 着信がある? 後で見なくちゃ。
脇では香取が「何やってんだよ、手を出せ、サルっ」とか喚いているから、尚更シカト。
「・・・・・あ? もしもし? 私、3年E組の宮地真琴です。今、第二理科室の裏にいるんですけど、男子生徒が倒れているんです。・・・はい、具合が悪いみたいで。だけどあたし達じゃ、ちょっと重すぎまして」
ポカン、と口を開け始めた香取を尻目に、あたしは要件を済ました。これでよし。大人が後二人は来るでしょ。
携帯を畳むとポケットに滑らしながら、あたしは香取に冷ややかな視線を送った。
男子生徒を再び地面に寝かせた香取は、すっかり拗ねて、また下唇がちょっと出ている。目は全然違う空中をわざとらしく泳いでいて、・・・・・・何よ、無駄に可愛いじゃない。
意外な反応に、あたしは少し戸惑いながら言った。
「バカとなんとかは使い様」
「俺はハサミか」
「ねぇ、あの時、本当に何も感じなかったの?」
「あぁ?」
「事務員が彼を襲ってた時」
「だから何言ってんだよ。めっちゃ気色悪かったじゃねぇか。目もイっちゃてるし、あいつら、クスリでもやってんのか?」
「・・・・・・・いい」
あたしは溜息をついて、手をひらひらと振った。
なんだか凄く疲れがでてきた。香取のこのズレた感覚は、何だろう? 俺様で天然? どこまで人を疲れさす男なのよ。
・・・・・まあ、これが、普通の反応なのかもしれないな。あたしは無意識に髪をいじりながら、考えた。だって、気を吸うヴァンパイアなんて、誰が信じるの? あたしだって、自分がサイでこの目でイットを見ていなければ、絶対何にも、信じないものね。
その時、ポケットに入れた携帯が震えた。そうだ、着信があったんだった。
急いで取り出すと、ヒトミからだった。
「ヒトミ?」
あたしが電話に出ると、香取がこっちを見てわずかに顔を歪めた。
『真琴? 大丈夫?』
「え? 何で? 何回も電話くれた?」
『うん。だってとんでもないもの見たから。平気なの?』
見た? 少し間を置いてから、あたしは理解した。ああ、そういう事ね。凄いな、ヒトミって。
「平気。なんというか・・・・・とりあえず、平気」
『今からそっち行くから』
「え? いいよ。今は落ち着いているし」
『無理だよ。真琴が電話に出ないから、恵美子さんに連絡しちゃった』
「げ」
「おい」
香取が急に、あたしに声をかけてきた。少し強めの、鋭い声。
見ると、彼は険しい表情をして、あたしの後ろを指さした。
「あいつがいねぇ」
振り返ると、イットは消えていた。しまった、やられたっ。
あたしは息を飲んで絶句してしまった。電話の向こうで『どうしたの?』とヒトミが尋ねる。
「・・・・逃げられました」
イットが消えた場所を眺めながら、あたしは呆然と呟いた。
そしてふっと気付いて後ろを振り返ると、香取が凄く訝しそうに、眉根を寄せて、あたしを見つめていた。
「逃げられた」。なんでその台詞を、電話の相手に話すんだよ? お前、なんか知ってるのか? お前達、なんか繋がってんのか? ヒトミってあいつだろ?
表情から、香取の考えている事がモロに伝わってきて(サイじゃなくってもね)、あたしは気まずく視線を反らした。