第1話:「代わりのいる消耗品はクビだ」と笑う無能上司。僕が繋ぎ止めていた【防壁】をすべて引き揚げて退職します
「――よし、これで通る! いやマジで、今回も俺のグランドデザインが冴え渡りすぎちゃいましたね。帝国物産のキーパーソンも、このロジックなら一発でコミットするしかないっしょ!」
深夜二時。 湿った埃と、使い古されたコピー機の熱がこもるフロアに、城ヶ崎の軽薄な声が跳ね返る。 仕立ての良いスーツの袖を気安く捲り上げ、覚えたてのカタカナビジネス用語を並べる男。その背後では、鬼頭部長が「うむ、さすがは我が営業部のエースだ」と、ふやけた顎を満足げに揺らしていた。
二人の視線の先にあるモニターには、数千万円規模の大型プロジェクトの最終データが、冷たい光を放ちながら鎮座している。
(……ようやく、外せるか)
水瀬拓海はデスクのパーテーションの影で、濁った息を吐き出した。 視界の端がチカチカと爆ぜるように明滅している。丸三日、まともな睡眠をとっていない。自販機の激甘缶コーヒーと、化学調味料の匂いがきついエナジードリンクだけで、錆びついた心臓を無理やり動かしている状態だった。
拓海がキーボードのEnterキーを叩く。指先から伝わる硬いプラスチックの感触と同時に、彼の網膜の裏側で、世界が音を立てて組み替わった。
――固有スキル『構造把握』、起動。
無数のプログラミングコードが、青白い血管のように部屋の四隅へ這い回る。複雑に絡み合うデータの辻褄、サーバーの負荷、そしてこのプロジェクトを成立させるために拓海が文字通り泥を這って繋ぎ止めてきた、現場の職人たちとの泥臭い「約束」。それらが、細く毛羽立ったオレンジ色の【因果の糸】となって、オフィス中に張り巡らされていた。
(よし、問題なし。大河原さんへの根回しも、これで全部噛み合った)
城ヶ崎が居酒屋のノリでぶち上げた、実現不可能な絵空事。その底に開いた巨大な落とし穴を、拓海はこの忌々しい『視界』を使って、夜な夜な埋め続けてきたのだ。 数値の矛盾、納期の破綻、現場への無茶振り――すべてを事前に『視て』、先回りして自分の骨を削りながら潰す。それが、この青空エージェンシーにおける拓海の、名前のない仕事(奴隷労働)だった。
「じゃ、水瀬ぇ。この企画書、明日の朝までに最終チェックしてデスクに置いといて。俺、これから部長と『戦略的サウナミーティング』だから。あ、鍵閉めよろしくね~!」
城ヶ崎が拓海の肩をポンと叩く。その手の平の軽薄な熱が、ひどく不快だった。 城ヶ崎は自分の手柄となった書類を鞄に押し込むと、鬼頭の太い背中を追うようにして、ぬるいインクのような夜の街へと消えていった。
残されたのは、蛍光灯の不快なハミングだけが響く静まり返ったオフィス。 拓海は椅子の背もたれに深く身体を沈め、染みの浮いた天井を見上げた。
脳裏をよぎるのは、入社二年目の、やはりこんな風に雨の匂いがする夜のことだ。 鬼頭の理不尽な命令と、城ヶ崎がやらかした致命的なデータ紛失。その尻拭いで五日連続の徹夜を強いられ、心臓が嫌な跳ね方をした瞬間、脳の奥の薄い膜が破れた。世界が数式と構造に分解され、物事の「急所」がすべて視えるようになった、あの悪夢のような感覚。
(こいつらに壊されたおかげで得た力で、今までこいつらの泥を拭き続けていたわけだ……)
喉の奥から、乾いた自嘲がこぼれた。 拓海は再び、脂の浮いたキーボードに、感覚の麻痺した指を置いた。
翌日の午後。 帝国物産との案件が正式に可決されたという社内通知が流れた直後、拓海は重苦しい茶色のドアの向こう側――部長室に呼び出されていた。
「水瀬。お前、今月に入ってからのデータ入力、ずいぶん足が遅いな?」
重厚なマホガニーのデスクの向こうから、鬼頭が油ぎった顔を歪めてねめつけてくる。その隣には、腕を組み、いかにも「勝者」の顔をした城ヶ崎が、冷ややかにこちらを見下ろしていた。
「申し訳ありません。ここ数日、大型案件のシステム構築と、城ヶ崎のデータのバックアップに付きっきりだったもので――」
「言い訳をきいてるんじゃない!」
ドスン、と肉厚な手の平がデスクを叩き、部屋の空気が震えた。
「城ヶ崎から報告を受けている。お前はいつも、裏でキーボードをパチパチ叩いているだけで、主体性が全くないと。今回のコンペだって、城ヶ崎が足にマメを作って持ってきた案件だ。お前はその横で、言われた文字を打ち込んでいただけだろう?」
「……私が、文字を、打ち込んでいただけ、ですか」
拓海がその言葉を呟くと、城ヶ崎が鼻から短く息を抜いた。
「そうだよ、水瀬くん。君のやってる仕事なんてさ、ぶっちゃけマニュアル通りに動けば誰だってできる『代わりのいる消耗品』の作業なんだよね。君がブースに籠もってウジウジしている間、僕はクライアントとサステナブルな関係性を構築するために駆け回っていたんだ。ちょっと冷たい言い方だけど、君のスキルじゃ、これ以上のキャリアアップは『アンプロファタブル(不利益)』かな」
「城ヶ崎の言う通りだ」
鬼頭の唇が、醜く歪む。一枚の白い紙が、滑るようにデスクを渡ってきた。
「我が社もな、いつまでもボランティアじゃない。お前のような『言われたことしかできない無能』を養っておく余裕はないんだよ。……わかるな? 自発的に身を引くなら、退職金に少しは色をつけてやってもいい」
事実上の、クビ宣告。 理不尽という言葉すら生ぬるい、使い捨ての通告だった。
だが、拓海の胸を占めたのは、驚くほどの「静寂」だった。耳の奥で、すべての雑音が遠ざかっていく。 彼が静かに『構造把握』の視界を開くと、目の前の二人の頭上には、嘘と傲慢が腐ったヘドロのようにドロドロと絡み合ったバグコードがのたうっていた。そして彼らから伸びる、会社を支える現場の職人たちへの糸は、今にも擦り切れそうなほど細く、泥に汚れている。
(ああ、そうか。もう、いいんだ)
張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。この場所に残していた最後の未練が、煙のように消えていく。
「――わかりました」
拓海はジャケットの内ポケットから、近い内に必ず必要になると用意していた白い封筒を取り出した。 鬼頭の眉がピクリと跳ね、城ヶ崎の目がわずかに泳ぐ。反論も、泣き言も、縋り付くような言葉すらなく、あまりにもあっさりと差し出されたそれの重さに、二人の思考が追いついていない。
「退職願です。有給の消化も結構です。本日付で、辞めさせていただきます」
「フ、フン……物分かりが良いのは結構なことだ。荷物をまとめて、さっさと出ていくがいい」
鬼頭が虚勢を張るように鼻を鳴らす。城ヶ崎は「賢明な判断だよ、お疲れ様」と、引きつった笑みを浮かべた。 拓海は二人に深く一礼し、ただ静かに微笑んだ。それは諦めでも、絶望でもない。これからこの部屋の足元から始まる「崩壊」の足音を、確かに聴いた者の笑みだった。
部屋を出る間際、拓海は脳内で『構造把握』のシステムにアクセスした。
(今まで僕が繋ぎ止めていたもの――すべて、引き揚げさせてもらう)
パチ、と脳内で乾いたスイッチが切り替わる。 拓海が裏で泥を被り、頭を下げ、調整し続けてきた「職人たちとの信頼の糸」。マニュアルには絶対に載らない、水瀬拓海という個人にしか結びついていなかった見えないネットワークの糸を、彼は綺麗さっぱり、その手の中に巻き取った。
防壁(水瀬拓海)を失った青空エージェンシーのシステムと人間関係が、急速に色を失い、乾いた砂の城のように脆くなっていくのが、拓海にははっきりと視えていた。
私物を詰めた小さな段ボールを抱え、拓海は夕暮れ時のオフィスビルを出た。 見上げる空は、吸い込まれそうなほど高く、三日ぶりに吸い込んだ外の空気は、胸の奥が痛くなるほど冷たくて美味しかった。身体を縛り付けていた重みは消え失せ、指先まで新鮮な血液が巡るのを感じる。
その時、ズボンのポケットの中でスマートフォンが、まるで生き物のように激しく震えた。 画面に表示されたのは【非通知】の三文字。だが、拓海の目はその発信元の「構造」を、電子の海を遡って瞬時に解析していた。
(この暗号化のパターン……まさか)
通話ボタンを押し、耳に当てる。
「――ようやく、あの泥船を見限ったか。待っていたよ、水瀬くん」
スピーカーから響いたのは、地響きのような威厳を湛えた、低い声だった。 日本屈指の巨大コンツェルン『帝国物産』の常務取締役――御剣。その人だった。
「御剣常務……なぜ、私が会社を辞めたことを?」
「君ほどの人間が、あの張り子の虎と無能な上司に、いつまでも付き合うはずがない。そろそろ限界だろうと踏んで、網を張らせてもらっていたのさ」
御剣の声には、確かな熱と、他者を圧倒するほどの歓迎の響きがあった。 過去、帝国物産の若手が城ヶ崎のミスを発端にやらかしかけた、億単位の損失に繋がりかねない致命的な書類の数値ミス。それを、提出される前に異能(構造把握)でいち早く見抜き、先方のプライドを傷つけないよう完璧に表に出ないように修正してみせたのが、他ならぬ拓海だった。御剣はそれ以来、拓海の突出したプロ意識と「異常なまでの大局把握能力」に深く感銘を受け、彼の動向を追っていたのだ。
「我が社に、君のための席を用意してある。待遇は今の三倍、いや、君の望むままだ。どうかな、水瀬くん。濁った泥水から抜け出し、我々と共により大きな世界の構造を動かしてみないか?」
拓海は立ち止まり、振り返った。 夕日に照らされた元の職場のビルは、今やただの灰色をした、中身のない張りぼてのように見えた。そこにはもう、何の感情も湧かない。
「――喜んで、お受けいたします。御剣常務」
拓海の口元に、今度は本当に晴れやかな、未来を見据えた不敵な笑みが浮かんだ。




