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ファンタジー

井戸の底の声

作者: くるみ
掲載日:2026/05/11

 山の端に、夕陽が沈みきる前だった。

 村は、すでに影の中にあった。杉の木立は黒々と重なり、家々の屋根は黙した獣の背のように低く伏せていた。冬の入口の風が田の跡を渡り、刈り残された稲株を鳴らす。その音だけが、妙にはっきりと聞こえた。


 真琴がその村へ戻ったのは、祖母の葬儀のためである。

 十七年前、母に手を引かれて出ていった村だった。駅もなく、店もなく、夜になると灯りよりも闇のほうが濃くなる土地。子どもの頃の真琴には、そこが世界の端に思えた。

 だが、大人になって戻ってみれば、村は世界の端どころか、世界から取り残された澱みのようだった。


 祖母の家は、昔とほとんど変わっていなかった。土間、煤けた梁、仏間の畳、古い箪笥の匂い。ただひとつ違っていたのは、庭の奥にある井戸に、太い注連縄が掛けられていたことだった。


 真琴は玄関先で足を止めた。

 井戸は石組みの古いものだった。幼い頃、祖母から決して近づくなと言われていた。落ちるから、ではない。

 呼ばれるから、と言われていた。

 その夜、通夜の客が引いたあと、家は深い静けさに沈んだ。


 母は疲れ果てて仏間の隣で眠っていた。親戚たちも、誰もが声を潜め、早々に布団へ入った。真琴だけが眠れず、台所で冷えた茶を飲んでいた。


 柱時計が十一時を打った。

 そのとき、外から声がした。

 真琴。

 茶碗を持つ手が止まった。

 女の声だった。若くもなく、老いてもいない。耳元ではない。庭の奥からだった。

 真琴。

 今度は、はっきり聞こえた。

 真琴は立ち上がった。障子を開けると、庭は月明かりに白く沈んでいた。井戸に掛けられた注連縄が、風もないのにゆっくり揺れている。


 胸の奥で、忘れていた記憶が身じろぎした。

 幼い頃にも、聞いたことがある。

 あれは七つの夏だった。真琴は庭で遊んでいて、井戸のそばに立った。底から、誰かが名前を呼んだ。覗き込むと、暗い水面に自分の顔ではないものが映っていた。

 白い顔。濡れた髪。

 そして、祖母が背後から真琴を抱きすくめた。

 見るな。返事をするな。あれはおまえを欲しがっている。

 翌月、真琴と母は村を出た。


 真琴は庭へ降りた。

 冷たい土が足袋の裏から染みた。井戸へ近づくたび、空気が湿り、重くなる。注連縄は古びて黒ずみ、紙垂は朽ちかけていた。

 真琴。

「誰」

 言った瞬間、井戸の底で水が鳴った。

 返事をした、と思った。

 背筋に冷たいものが走った。引き返そうとしたが、足が動かなかった。井戸の中から、湿った息のようなものが上がってくる。


 真琴は覗き込んだ。

 底には水があった。月が映っていた。その月の下に、女がいた。

 白い顔。濡れた髪。

 女は笑っていた。

 おかえり。

 真琴は声を失った。

 その顔を、知らないはずだった。だが、似ていた。自分に似ていた。母にも、祖母にも似ていた。血の奥に沈んだ顔だった。


「真琴!」

 鋭い声とともに、腕を強く引かれた。母だった。顔面蒼白で、真琴を井戸から引き剥がした。

「何をしてるの!」

「今、誰かが」

「聞いちゃだめ!」

 母は震えていた。

「あれは、うちの女を呼ぶの。昔からずっと」

「どういうこと」

 母は答えなかった。ただ、井戸を睨んでいた。その目には恐怖だけでなく、怒りと、深い憎しみがあった。

「この家の女は、代々、井戸を守る役だった。守るなんて言えば聞こえはいいけど、ほんとうは違う。井戸にいるものを、慰めて、縛って、次の女へ渡すだけ」

「井戸にいるものって」

「最初に沈められた女よ」


 風が止んだ。


「飢饉の年、村はひとりの女を井戸に落とした。水を枯らさないために。それから井戸は涸れなくなった。でも、女はひとりでは淋しいと言った。だから村は、この家の女を差し出した。生きたままではない。人生を、少しずつ」

 母の声は乾いていた。

「嫁いでも、子を産んでも、最後は井戸に戻る。そういう家だったの」

 井戸の中から低い音が響いた。石の底を爪で掻くような音だった。

 母が真琴の腕を強く握った。

「でも、おばあさんが死んだ。次を呼んでいるの」


 真琴。

 声はもう、甘くなかった。濡れた手で喉を撫でるような声だった。

 真琴は母を見た。

「どうすればいいの」

「明日の朝、ここを出る。二度と戻らない」

「それで終わるの?」

 母は答えなかった。

 井戸の水が、大きく跳ねた。注連縄がぶつりと切れた。

 母が真琴を突き飛ばした。次の瞬間、井戸の縁から白い腕が伸び、母の髪を掴んだ。

「お母さん!」

 母は叫ばなかった。ただ、真琴を見た。

 その目が言っていた。

 逃げろ。

 真琴は母の腕を掴んだ。だが、井戸の底から伸びる力は人のものではなかった。母の身体が石組みに引き寄せられる。爪が剥がれ、血が石に滲んだ。

 真琴は叫びながら引いた。

 そのとき、仏間の方から鈴の音がした。


 ちりん。


 祖母の棺の前に置かれた鈴だった。

 井戸の腕が止まった。

 真琴は振り返った。縁側に、祖母が立っていた。白い経帷子ではなく、いつもの紺の割烹着姿だった。背を丸め、眉間に皺を寄せ、生前と同じように不機嫌な顔をしていた。

「まだ足りんのか」

 祖母は井戸に向かって言った。

「娘を取り、孫まで取るつもりか」

 井戸の底から、女の声がした。

 おまえも来い。

「行くとも」

 祖母は静かに言った。

「そのために、ここに残った」

 母が叫んだ。

「お母さん!」

 祖母は真琴を見た。

「返事をするなと言ったろうが」

 その声は昔のままだった。厳しく、冷たく、しかし奥に消しきれない愛情を隠していた。

「生きている者は、生きている者のほうへ行け」


 祖母は井戸へ歩いた。影のように軽い足取りだった。井戸の縁に立つと、底を覗き込んだ。

「もう、しまいにしよう」

 白い腕が祖母へ伸びた。

 祖母は自らその手を取った。


 次の瞬間、井戸の底から凄まじい水音が上がった。庭の空気が裂け、土が震えた。真琴は母を抱えたまま地面に倒れた。耳の奥で、無数の女の声が重なった。泣く声、笑う声、呪う声、子守唄を歌う声。

 そして、すべてが途切れた。

 夜が戻った。

 井戸は静かだった。切れた注連縄が、石の上に横たわっていた。



 翌朝、村人たちは井戸が涸れたのを見つけた。底には水一滴なく、古い骨も、沈んだはずのものも、何ひとつなかった。ただ、乾いた泥の上に、小さな鈴がひとつ落ちていた。

 祖母の棺は空になっていた。

 村の者は誰もそのことを口にしなかった。母も語らなかった。葬儀は形だけ行われ、真琴と母は昼前に村を出た。

 車窓から見える山は、眠る獣のように動かなかった。

 真琴は膝の上で、祖母の鈴を握っていた。冷たい金属の感触が、いつまでも掌に残った。

 母が言った。

「もう戻らなくていい」

 真琴は頷いた。

 けれど、知っていた。

 血の中に沈んだものは、土地を離れても消えない。井戸が涸れても、声はなくならない。ただ、今は遠いだけだ。


 その夜から、真琴はときおり夢を見るようになった。

 深い井戸の底に、祖母が座っている。膝の上に鈴を置き、暗闇を睨んでいる。その背後には、数えきれない女たちが立っている。誰もが濡れた髪を垂らし、真琴を見上げている。

 だが、祖母だけは振り返らない。

 真琴が目を覚ます直前、祖母はいつも同じことを言う。

 来るな。

 それは呪いではなかった。

 祈りだった。

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