第16話「完璧な演技」
月曜日の朝。
教室に入ると、空気が変わっていた。
「おはよう、浅羽くん」
橋本さんがいつものように声をかけてきた。でも、その目がどこか探るようだった。
「おはよう」
完璧な笑顔で返す。いつも通りの浅羽律。
「ねえ、浅羽くん。最近、放課後どこにいるの?」
「図書室だけど?」
「嘘。昨日、図書室にいなかったよ」
心臓が跳ねた。でも、表情には出さない。
「ああ、昨日は職員室に呼ばれてたんだ。数学の先生に質問があって」
嘘が、スラスラと出てくる。自分でも驚くほど滑らかに。
「そうなんだ。七瀬さんと一緒にいるって噂、聞いたから心配してたんだけど」
「七瀬さん? 別に一緒にいないよ。たまに話すくらいかな」
また嘘。でも、ここで本当のことを言うわけにはいかない。
「そっか。よかった」
橋本さんは安心したように笑った。その笑顔に、僕は罪悪感を覚えた。
午前中の授業中、僕は七瀬さんをちらりと見た。彼女はいつものように窓の外を見ていた。目が合うことはなかった。
昼休み。
「浅羽、今日も一緒に食べようぜ」
陸が声をかけてきた。いつものグループ。いつもの昼食。
「おう」
僕は笑って応じた。完璧な演技で。
「なあ、浅羽。お前、最近変わったか?」
「変わった? 何が?」
「んー、なんつーか。前より少し……柔らかくなった?」
「何それ。意味わかんない」
「だよな。気のせいか」
陸は笑った。でも、その言葉は僕の心に引っかかった。
柔らかくなった。
それは、七瀬さんと過ごす時間が増えたからだろうか。
五時間目の体育。バスケットボール。
僕はいつも通りに動いた。パスを出し、シュートを決め、チームメイトを盛り上げる。完璧なプレー。完璧なチームプレイヤー。
でも、コートの端で見学している七瀬さんの視線を感じた。
彼女は、僕の演技を見抜いている。この完璧な浅羽律が、作り物だということを。
それを知っていて、なお僕のそばにいてくれる。
その事実が、嬉しいのか怖いのか、まだわからない。
放課後。
いつものように空き教室に向かおうとしたとき、橋本さんに呼び止められた。
「浅羽くん、ちょっといい?」
「うん、何?」
「あのね、来月の学園祭の実行委員、一緒にやらない?」
「学園祭?」
「うん。浅羽くんなら、みんなをまとめられると思うんだ」
断る理由はなかった。完璧な浅羽律なら、引き受けるべきだ。
「いいよ。やろう」
「本当? ありがとう!」
橋本さんは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、僕は思った。
また一つ、仮面を重ねた。
空き教室に着いたのは、いつもより三十分遅かった。
「遅かったね」
七瀬さんが言った。責めるような口調ではなかった。ただ、事実を述べただけ。
「ごめん。ちょっと用事があって」
「……橋本さん?」
「え?」
「窓から見えた。橋本さんと話してたでしょ」
「……うん」
「別に怒ってないよ。浅羽くんにはそういう日常があるんだから」
そう言う七瀬さんの声は、少しだけ寂しそうだった。
「七瀬さん」
「うん?」
「僕は、ここにいるときが一番楽だよ」
「……知ってる」
「じゃあ、もう一つ」
「何?」
「橋本さんの前の僕は、演技だよ」
七瀬さんは少し驚いた顔をして、それから——
「知ってる。でも、言ってくれて嬉しい」
その言葉に、僕は少しだけ救われた。
完璧な演技は、いつか終わりが来る。
でも今は、この空き教室だけが、僕が仮面を外せる場所だった。




