第15話「夕暮れの告白(じゃない)」
その日の空き教室は、いつもと少し違った。
七瀬さんが、窓際に座っていなかった。彼女は教室の真ん中の席に座って、何かを書いていた。
「何書いてるの?」
「……日記」
「日記?」
「うん。中学のときからの癖。あったことを書かないと、不安になるから」
「不安?」
「自分が本当に存在してるのか、わからなくなるの。でも、書けば残るから」
それは、僕には理解できない感覚だった。でも、彼女にとっては切実なものなのだろう。
「今日は何を書いたの?」
「……秘密」
少しだけ頬を赤くして、七瀬さんはノートを閉じた。
「ずるいな」
「何が?」
「僕には秘密があるのに、七瀬さんも秘密を持ってる」
「お互い様でしょ」
彼女は少し笑った。最近、七瀬さんが笑うことが増えた気がする。
「ねえ、浅羽くん」
「うん?」
「今日、ちょっと外に出ない?」
「外?」
「うん。ずっとこの教室にいるのも、なんだか息が詰まるから」
それは意外な提案だった。七瀬さんは人目を避ける傾向があるから、外に出たがるとは思わなかった。
「いいけど、どこに行く?」
「……屋上」
放課後の屋上は、誰もいなかった。
風が強くて、七瀬さんの髪が揺れた。
「すごい風」
「うん。でも、気持ちいい」
彼女は目を閉じて、風を受けていた。その姿が、なぜかとても眩しかった。
「浅羽くん」
「うん?」
「私ね、ずっと考えてたことがあるの」
「何?」
「浅羽くんが、私と一緒にいる理由」
また、その話か。でも、今日の七瀬さんはいつもと違う雰囲気だった。
「答え、出たの?」
「うん。たぶん」
「聞いていい?」
「……浅羽くんは、私に自分を重ねてるんだと思う」
心臓が跳ねた。
「私も浅羽くんも、本当の自分を隠してる。方法は違うけど、やってることは同じ。だから、お互いに楽なんだと思う」
「……鋭いね」
「当たってる?」
「半分くらい」
「残りの半分は?」
その問いに、僕は言葉を探した。
残りの半分。それは——
「七瀬さんといると、僕は自分が嫌いじゃなくなる」
言ってしまった。
七瀬さんの目が大きくなった。
「それ——」
「告白じゃないよ」
慌てて付け加えた。
「……わかってるよ」
七瀬さんは少し拗ねたような顔をした。
「でも、本心ではあるんでしょ?」
「……うん」
夕日が沈みかけていた。オレンジ色の光が、屋上を染めていた。
「私も」
「え?」
「私も、浅羽くんといると、自分が嫌いじゃなくなる」
その言葉は、夕日よりも暖かかった。
「……それは、告白?」
冗談のつもりで聞いた。
「告白じゃない」
七瀬さんは即答した。でも、その頬は夕日のせいだけじゃなく、赤かった。
「じゃあ、何?」
「……わからない。でも、大事なことだと思う」
「うん。僕もそう思う」
風が吹いた。七瀬さんの髪が舞い上がって、彼女は慌てて押さえた。
「もう、風強すぎ」
「帰ろうか」
「うん」
階段を降りながら、七瀬さんがぽつりと言った。
「ねえ、浅羽くん」
「うん?」
「いつか、お互いの秘密を全部話せる日が来るかな」
「……来ると思うよ」
「根拠は?」
「ない。ただの希望」
「……それでいいよ。今は」
校門で別れるとき、七瀬さんは振り返った。
「浅羽くん」
「うん?」
「今日、楽しかった」
「……僕も」
彼女が去ったあと、僕は一人で空を見上げた。
夕暮れの告白——じゃない。
でも、それ以上に大切な何かを、僕たちは交わした気がした。
名前をつけるのが怖い。
でも、名前をつけなくても、それは確かにそこにあった。




