第10話「僕は——壊れてもいい」
僕の中で、何かが軋んだ。ずっと完璧に組み上げてきた何かが。
翌朝。教室の空気はさらに悪化していた。
七瀬さんの机に、落書きがあった。小さな文字で「帰れ」と書かれている。誰がやったのかはわからない。朝一番に登校した七瀬さんは、無言でそれをティッシュで拭き取った。
その姿を見ていたのは、僕だけじゃなかった。数人が見ていた。でも誰も何も言わない。見て見ぬふり。それが最も効率的で、最も安全な選択だから。
一限目が始まる前、トイレに立った僕は廊下で聞いてしまった。
「七瀬さんって、前の学校で誰かのことイジメてたんでしょ?」
「えー、マジ?」
「だからトラブルメーカーって書かれてたんだよ。転校したのも追い出されたんじゃない?」
違う——と、思った。根拠はない。でも、僕はあの子猫に手を伸ばしかけた七瀬さんを知っている。資料を語る時の目の輝きを知っている。あの震える指先を知っている。
あの人は、そんな人間じゃない。
三限目のあと、事件が起きた。
体育の移動中、七瀬さんの上履きがなくなっていた。下駄箱を探す七瀬さんの周りを、クラスメイトが素通りしていく。見えていないかのように。
七瀬さんは黙ってスリッパを借りに行った。平静を装って。でも、その背中が小さく見えた。
——限界だった。
何の限界か。七瀬さんの、じゃない。僕の、だ。
六限目が終わった放課後。担任がホームルームを終えて出ていった直後。
僕は立ち上がった。
「みんな、ちょっといい?」
教室が静まる。浅羽律が「ちょっといい?」と全体に声をかけることは珍しくない。いつもは連絡事項とか、行事の調整だ。だからみんな、いつもの感じで僕を見た。
でも今日は違った。
「七瀬さんの上履きの件、知ってる人いるよね」
空気が凍った。
「SNSの書き込みも、みんな見たよね。僕も見た。でもあれ——全部匿名の、裏も取れない書き込みだ。それを根拠に人を避けるのって、おかしくないか」
声が震えていた。自分でわかる。完璧なトーンコントロールが効いていない。頭の中のスピーカーがハウリングしている。
「浅羽くん、でも……」
「でもじゃない」
強い声が出た。自分でも驚いた。教室が完全に静まった。
「僕は七瀬さんと同じグループで一緒に作業した。ちゃんと話した。あの人は——」
言葉が詰まった。何を言えばいい。「いい人だ」? 薄っぺらい。「トラブルメーカーじゃない」? 証拠がない。完璧な言葉が見つからない。見つからない。
でも、もういい。完璧じゃなくて、いい。
「僕はあの人のこと、まだ全然知らない。でも、知りもしないのに遠ざけるのは——嫌だ。僕は、嫌だ」
顔が熱い。声が裏返りかけた。みんなの目が僕に集中している。陸が口を半開きにしている。橋本さんが目を丸くしている。
格好悪い。最悪だ。今の僕は完璧からかけ離れている。論理的でもないし、説得力のある証拠を出せたわけでもない。ただ感情をぶちまけただけだ。
教室を出た。廊下の壁に背をつけて、ずるずると座り込んだ。
手が震えている。心臓がうるさい。
何やってるんだ、僕は。十七年間守ってきた完璧が、たった数分で——
「……ばか」
顔を上げた。
七瀬さんが、廊下に立っていた。教室の外で、全部聞いていたらしい。
「なんで、あんな——」
その声が、微かに震えていた。怒りじゃない。違う感情だ。
七瀬さんの目が潤んでいる——ように見えた。でも次の瞬間、彼女はくるりと踵を返して歩き去った。
残された僕は、壁にもたれたまま天井を見上げた。
格好悪い。最悪だ。完璧な浅羽律はもうどこにもいない。
……でも、おかしいな。
こんなに動揺しているのに。手は震えているし、顔は熱いし、心臓は壊れそうだし。
——胸の奥が、初めて、熱い。
廊下の向こうから、足音が近づいてきた。陸だった。壁にもたれる僕を見下ろして、数秒黙った後。
「……へえ。お前、そんな顔できたんだ」
僕は何も言えなかった。ただ、震える手を握りしめた。
この熱が何なのか、まだわからない。でも——悪くない気がした。




