第18話:才昭媛
「これを肌身離さず、持っていればいいのですね」
桜貝が可愛らしい指先が藍色の巾着を包み込む。翠嵐は手のひらに視線を落とすと表情を緩めた。
「とても可愛らしい。ありがとうございます」
玉鈴は柳貴妃として翠嵐の元をたった一人で訪れた。親友の喪に臥す名目で常日頃、愛用していた喪衣ではなく薄花色の襦裙に白藍の大袖衫を羽織っている。艶やかな黒髪は香油を馴染ませ高髻に。そこには青玉が揺れる金釵と青い花弁が瑞々しい生花が飾られていた。衣装も飾りも全て青色なのは豹嘉の好みだ。
対面する翠嵐は若草色の襦裙に白緑の領布を身に纏っている。髪は左右二つで輪のように結われ、その一つを飾るのは白色のおおぶりの花と翡翠の髪飾りだ。先日の着飾りようから見ればとても質素に見える。
「……今日は、亜王様はお見えではないのですね」
巾着を指先で弄ぶのをやめると翠嵐は目を伏せた。
豪華絢爛に飾られた房室は玉鈴と翠嵐、秋雪しかいない。そのためかとても和やかな空気が満ちている。亜王と大長秋がいない事で翠嵐も和気藹々《わきあいあい》までとはいかないが、人懐っこく接してきた。まだ本調子ではなさそうだが、先日と比べれば体調も良くなったように思える。
「職務があるらしいので来れないようです」
「そう、ですか」
翠嵐はどこかほっとしたように息を吐き出した。
「苦手ですか?」
「いえ、その、緊張してしまって」
といいつつ視線は左右泳ぐ。
それを見て、玉鈴はくすりと笑った。
「自我が強いですからね」
失礼な物言いに翠嵐は口元を袖で覆う。
「亜王様を見ているとお父様を思い出します」
花顔が曇る。思い出したくないのか柳眉は極限までひそめられた。
「亜王様と才卿はそっくりですか?」
玉鈴は素直に疑問を口にした。確かにどちらも我が強く、私利私欲な性格の持ち主だ。翠嵐の父である林矜は狡猾だと有名だが、明鳳は子供の無邪気さに通ったものがあった。あれが欲しいから欲しがる。嫌だから断る。どんな状況でも自分の気持ちを最優先させていた。遠目から見れば確かに似ているが本質を見れば大いに違うと感じた。
「……父は、私の事を嫌っております。私が息をするのさえ嫌がります。亜王様の目は、父と重なります」
「亜王様は才昭媛様を嫌ってはいませんよ」
かける言葉が見つからず、玉鈴は慰めるように言葉を連ねた。
「彼はただ無知なだけです。大人になりきれていない子供なのです」
とても失礼な物言いに翠嵐は驚き固まった。ここに明鳳がいれば——玉鈴が恐ろしくて大口を叩かないだろうが——怒る事は容易に想像つく内容だ。
「貴方には怖いものはないのですね。羨ましい」
「僕の立場が特殊だからですよ。それに彼は赤子の時から会っていますから、赤ん坊のように思ってしまうのです」
玉鈴は昔を思い懐かしむ。次期亜王となる皇子が生まれた時、高舜は王后になった鬼淑妃を同伴して蒼鳴宮を訪れた。
真紅の薔薇が似合う肉感的な美女である鬼木蘭は苛烈な性格の持ち主で、思った事や感じた事をすぐ言動で表していたが明鳳を産み随分、落ち着いたように思う。高舜から寵愛を受ける柳貴妃に嫉妬し、佩刀を手に蒼鳴宮に乗り込んできた時とは想像ができないぐらい温和な眼差しを腕に抱いた息子に向けていた。
二人は玉鈴の元を訪ねると関わりたくないと拒絶する玉鈴の意見を無視して明鳳の世話を命じた。
赤子だった明鳳は今と変わらないぐらい活発で好奇心旺盛だった。手にした物は全て一度は口に入れる食い意地の悪さに、少しでも気に入らない事があれば大声量で泣き喚き、腹這いができるようになれば自由気ままに好きな場所へ行こうとする行動力……。当時を思い出すと目が遠くなる。
——本当に悪い意味で成長しましたね……。
二人があそこまで明鳳と玉鈴を触れ合わせたかったのは、明鳳が高舜の跡を継ぐのを想定してだという事は理解していた。
玉鈴は翠嵐に気づかれないように嘆息する。出来る事ならば関わりたくはなかったのが本心だ。蒼鳴宮で自由気ままに過ごし、時折、後宮の怪異を解決する。そんな生活を望んでいたのに、
——結局の所、面倒ごとを押し付けられただけですね。
とんだ外れくじを引かされた気分だ。
「亜王様が赤ちゃん、ですか」
「今より可愛げはありましたね」
小憎たらしい言動をしない分、可愛げはあった。小石程度には。
「失礼かと存じますが、柳貴妃様は御歳をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
翠嵐が恐る恐る聞いてきた。
「……僕は今年で二十六になります」
その問いにたっぷりと悩んだ末、玉鈴は答えた。十一歳で後宮入りし、翌年に明鳳が産まれた。そこから十四年が経っているので、現在二十六歳で合っている。……はずだ。
自身の歳に興味がないため、即答える事ができない。歳が知りたければ豹嘉に聞いていたので覚えている必要がなかった。




