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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

彼の笑顔は、私のせい

作者: 佐門せいく
掲載日:2025/09/13

思い立って形にしようとしたら勢いのままに書き終えられたので、投稿してみます。

かなり長くなってしまいましたが(約25000字)、短編のつもりで書いたので短編で。




『あぶないっ!!』


 魔獣を前に立ち尽くす私の後ろから、少年の声がした。

 そして次の瞬間、突き飛ばされる。


『きゃっ……』

『ぐああぁぁ!!』


 私の思わず漏れた小さな悲鳴は、少年の苦痛の叫びによって掻き消された。


『ローレンス様!!』


 遅れて駆けつけた騎士様が魔獣を斃し、少年へと駆け寄る。

 苦しむ彼の顔には……魔獣の爪による大きな傷ができてしまっていた。


『ひっ……』


 その傷は、彼の片方の目を抉っていた。血だらけになった彼の顔を見て、私はまた小さく悲鳴をあげてしまう。


『ここはあぶない、失礼する』

『あっ……!?』


 腰が抜けて立てそうにない私を、他の騎士様がひょいと抱き上げ、安全な場所へと避難させてくれる。



 しかしその間も……私は、苦しむ少年の姿だけを見続けていた。




 ……十年後。



「……ローレンス様。お部屋の清掃に伺いました」

「ああ、入っていいよ」

「……失礼します」


 部屋の扉をゆっくりと開けると、窓際に立った男性が、この屋敷の庭を見つめていた。

 その左目には細かな意匠の眼帯がつけられているが、隠しきれない程大きな傷跡が、顔全体にはっきりと残っている。


 クレイン伯爵家次男、ローレンス・クレイン。

 彼はその顔の傷によって、数々の縁談が破談になり、国の要職にもつけなくなっていた。

 見えている方の目は、庭ではなくどこか遠くを見つめているように感じられる。


(……そうなったのは、全て私のせいだ)


 掃除道具を手に部屋に入った私は、気配を消しつつ、端から丁寧に丁寧に、掃除をこなしていく。

 少しでも彼に、気分良く過ごしてもらえるように。




 私は、伯爵領にある小さな村の、ごく普通の村娘だった。

 母の家事の手伝いをこなし、農作業から帰ってきた父の疲れを癒すだけの、それ以外なんの取り柄もない小娘。


 ある日その小さな村に、近くの森に住む凶暴な魔獣たちが姿を現した。

 畑の野菜を奪うつもりだったのか、それとも人間を襲うつもりだったのか。

 理由は未だ分からないが、普段は起こらない出来事に、村人はパニックになった。


 そんな時。

 とてつもない幸運の元、偶々伯爵家の騎士隊がこの村を訪れたのだ。まだ少年だったローレンス様を連れて。

 彼は帯剣していなかった。つまりあくまで視察というか、見学というか。領内の村の見回りという公務がどのように行われているのかを見に同行していたのだろう。


 逃げ遅れ、魔獣に襲われそうになった一人の村娘を視界に入れて、少年は武器も持たず、護衛騎士の静止も聞かず駆け出す。


 そして領民を守るべく、自ら盾となったのだった。




 掃除を終え、ベッドのシーツを取り変え、やがて静かに退出しようとすると……ローレンス様は私に声をかけてきた。


「君はいつもここに掃除をしにきてくれるね。僕が怖くないのかい?」


 虚だった片目が、優しさを湛えて此方を見据えている。


 ローレンス様は、私が誰なのかを知らない。

 その醜い過去を、闇を作り出した張本人であることを……ローレンス様は知らない。


(……これは、私の償い。一生を懸けて、このお方に私の全てを尽くす)


 後に庇ってくれた少年が誰だったのか両親に聞いた時から、私はこう決意していた。

 自分なんかの償いで彼の人生を取り戻せるとは思わない。けれど、領民を守ることが貴族の務めだと言いきって、守られて当然だ、自分は何もしないでいい、とはいかなかった。

 だからこうして、両親を説得し、伯爵家のメイドに応募し、必死に働き、ローレンス様の部屋の掃除を任される程になったのだ。


 ……とはいえ。

 それを正直に話す、なんてことはしない。


「……メイドとしての務めですので」


 初めての問いかけに動揺しつつも、冷静を装ってそう答える。

 気に入られたくてやっている訳ではない。ただ償いの一環として、部屋の掃除を――


「答えになっていないけれど?」

「っ……」


 笑みながらそう返される。その貴族的で且つ悪戯めいた顔は……傷跡など気にならないくらい、美しかった。

 見惚れていると、ローレンス様は玩具を見つけたように歩み寄ってくる。


「新人さんが、僕のところにいくように命じられたのかな。嫌なら、僕からいい感じに伝えておいてあげるけれど。兄上の部屋とかどうかな」

「……いえ、そのようなことは」


 確かに、他のメイドたちは口に出しはしないものの、ローレンス様の部屋掃除を忌避しているところがある。先程の問いかけ通り、顔の傷が怖いからだろう。

 しかし、私がそう思うことは決してない。寧ろローレンス様の部屋にきているのは、私の方から願ったことである。


 だが、それを知られる訳にはいかない。

 どう説明しようか口篭っていると、ローレンス様は不意に眉を下げた。


「……ごめん、こんな顔で、揶揄いすぎたね。……本当に、嫌なら言っておくれよ。僕は、何も思わないから」

「……」


 ……何も思わないなら、どうしてそんな表情をするのか。

 美しく輝いて見えていたお顔は、逸らす直前、渇いた闇を孕んでいたのだ。


 しかしそれを咎める資格のない私は、窓際に戻っていく後ろ姿を見て、胸が締め付けられるように痛むのだった。




 それから数日。

 変わらず掃除にやってくる私を見て考えが変わったのか、ローレンス様は私に雑談を振ってくるようになった。

 基本的に、与えられた少ない公務は午前中で終わらせているらしく、午後は暇なのだと言う。

 この季節は庭が美しくて良いとか、植物の匂いが好きだとか、今年も豊作なら嬉しいとか。そんな清い心を映し出したような雑談に、私は静かに耳を傾ける。


 そして、最後に。


「君は、なんの花が好き?」


 優しい目が私を捉える。胸の鼓動が速くなるのを無視して、無表情で考えを巡らせる。


「……じゃがいもの、花です」

「じゃがいも?」

「はい……実家で栽培しておりましたので、見る機会が、あり……」


 ……しまった。そう思って、言葉の先が続かない。

 じゃがいもは、貴族からすれば庶民を腹を満たす為に作らせているようなものだった。それ故に、貴族の食卓に出るような、上品なものではない。


 ……思いついたままに口に出してしまった。何か観賞用の花を言うべきだった。これでは、庶民臭が丸出しではないか……


「へぇ、じゃがいもにもちゃんと花があるんだなぁ。どんな形なんだい?」


 しかし返ってきた言葉には蔑みの感情など含まれておらず、単純な好奇心のみで発せられたものだった。

 そう質問されたことが助け船となり、なんとか私は口を開くことができた。


「……星形の、白い花です」


「そうなんだ……かわいらしいね」

「っ……」


 笑みながら、そんな台詞を言わないでほしい。

 勿論かわいいのはじゃがいもの花だと分かっているが……流石に心臓に悪い。


「ああごめん、仕事の邪魔をしてしまったね。後は黙っているから、続きをどうぞ」


 邪魔だなんてとんでもない。

 即座にそう思ってしまうのは、既に私の中に、ある感情が芽生えてしまっているからだろう。


 ……こんなもの、この償いには必要ない。

 ローレンス様には、私を踏み台にでもして幸せになってもらえれば、それで良いのだから。


 いつものように窓の外に目をやったローレンス様を見届けてから、芽生えた気持ちから目を逸らすように、私も黙々と掃除を再開するのだった。




 数ヶ月後。


 私がやってくるのにすっかり慣れた様子のローレンス様は、偶にお茶と菓子を用意して待っていることがあった。


 一通り仕事を終えた後、私をソファに促してくる。

 はじめの頃は辞退していたが、その度に残念そうな顔をする彼を見て胸が痛み、ついに「少しだけなら」と受け入れてしまった。


 いただいたクッキーは、サクサクと重さを感じさせず、しかしほのかな甘味と共にはっきりとした香ばしさが鼻に抜ける、とても上質なものだ。

 これは、メイドの分際でいただいていいものではない。


 しかしローレンス様は、私が食べている様子を見て嬉しそうに笑み、雑談も交えてくる。

 本来、貴族であるローレンス様と、たかがメイドの身分である私が、同じテーブルを囲んで雑談に興じるなど、不敬もいいところだ。

 だが彼がそれを全く気にせず、寧ろ嬉々として同席させている状況で、此方から断り続けるのは、逆に命令が聞けないと無礼になってしまう。


 ……ただ。

 だからと言って、このままでいいのだろうか。

 このまま、彼の優しさに浸り、暖かくて居心地の良いこの空間に、居続けてもいいのだろうか。


 ……そんな、訳はない。

 その優しさは、償いと称して近づく卑しい女より、ローレンス様を心から慕ってくれる、格式のあるご令嬢に向けるべきだ。


 そう、頭は考えているのに。

 その暖かさに溺れ、既に根を張り始めてしまっているこの体は、最早自分の意思では離れられなくなっていたのだった。




 彼の部屋にいくようになってから、一年後。


 ある日、いつも窓際から優しい眼差しを向けてくる彼が、執務机に座り、暗い顔をしていた。

 その理由は、昨日の就寝前、噂好きのメイドが語っていたあることが関係しているだろう。


 ……縁談。


 本日の午前、遠方の子爵家令嬢との縁談があったらしい。


 ……また彼は、顔の傷のことで、内面を傷つけられたのだろうか。

 そう思うと、胸が張り裂けそうに痛み出す。過去の自分のせいで、彼がこんな表情を浮かべてしまっている。

 彼にこんな表情は似合わない。いつものように、優しい笑みを浮かべていてほしい。


 そう思った私は、不躾にも、声をかけてしまった。


「……いかが、なさいましたか。……体調が優れないようでしたら、お医者様をお呼びしますが」


 今更口を噤んだところで出た言葉を取り消せる訳もないので、状況的に自然な提案を付け加えておく。

 すると彼は顔を上げて、無理に作った笑みを浮かべた。


「いや、体調が悪い訳ではないよ。ありがとう」

「……そう、ですか」


 感謝される謂れはない。その痛みを作り出した張本人が、それを取り除こうと口を出そうとして、やめた。

 こんな醜い思考のどこに、感謝してもらう隙があるのか。


 ……ああ、自分の行動が、嫌になる。


 完全な自己嫌悪に陥る前に無理矢理意識を切り替え、掃除を再開する。

 しかしどうにもこの重い空気感に慣れず、仕事に集中することができなかった。


 一通り仕事を終えたところで退出しようとすると、今度は彼が声をかけてきた。


「今日は、いつもより早いね。……気を遣わせてしまったかな」

「……いえ、そんなことは」

「なら、何故早いのかな。心なしか、いつもの丁寧さも欠いているようだったけれど」

「っ……」


 ドキリとした。

 ……見抜かれている。彼は、いつも私の仕事を見ていたのか。

 集中を欠きながらも手を抜いたつもりはなかったのだが、いずれにせよ彼にそう見えたのなら、それはそうなのだろう。


「まあそんなことはいいんだ。毎日やってもらっているから、そもそも殆ど汚れていないし。……それより」


 作った笑みを消して、彼は続ける。


「……僕の話を、聞いてくれるかな」




 有無を言わせない言葉に、私が頷き促されるままにソファに座ると、彼はやがて重い話を繰り広げた。

 それはいちメイドに聞かせるような話ではなかったが、私は黙って聞いていた。


 

「……政略結婚というのは理解している。だけれども、それで無理に嫁いで来られるのは、嫌なんだ」


 向かいに座る彼は、真摯な目を此方に向けている。


「縁談が破談になるのは……全部僕からの申し入れだ。怯えや憂いの籠った目を向けられる時、可哀想だと思ってしまうんだ。……勿論、彼女たちの家には利があっただろう。だけどそれで彼女たち本人が病んでしまうのは、僕が耐えられないんだ。僕は、彼女たち個人の気持ちを尊重したかった」


 想像していなかった事実が聞かされる。

 だが私は、それを意外なことだとは思わなかった。


 この人なら、そのように行動してもおかしくなかったから。


「しかし……それで、貴方様が気を病んでしまわれては……」

「言っただろう、僕は厭われることには何も思わないと」

「っ……」


 だから、そう言いながら辛そうな顔をするのをやめてほしい……


 そう思った矢先、その苦しそうな表情は……何故か何処かへ霧散していた。


「でもね、気づいたことがあるんだ」

「……?」

「怯えられないというのは……とても、気分の良いことなんだと」


 いつもの眼差しを向けられて、心臓がどきりと跳ねる。

 呼吸が一瞬止まり、声を出すことができなかった。


「今まで来ていたメイドたちは、皆怯えた目で、此方の機嫌を損ねないよう手早く、といった様子が感じられた。だから声をかけることもしなかった。でも君は……真っ直ぐ此方を見つめ、心地の良い距離感で、丁寧な仕事をし続けてくれた。それは、一体何故なんだい?」

「……そ、れは」


 ……言いたくない。

 償いの心が、いつの間にか叶わぬ恋情と化してしまっている。

 時間を重ねる毎に、彼の眼差しを受ける度に……私の心は絆されてしまっている。


 そんな醜い、卑俗な心情を、この方に知られたくない。


 しかし彼の興味は、完全に私に向いている。

 彼は偶に、押しの強いところがある。故に今、何も答えずにここを抜け出すことは、私には不可能だろう。


「……お慕い、しているからです」

「……」


 顔が熱っている。その様子も、彼には伝わっているはずだ。

 だがメイドが、仕えるべき相手に敬意を抱くことは、なにも不思議なことではないだろう。


 そう考えての答えだったが、彼は納得していないように腕を組み、首を僅かに傾げる。


「……君は、この顔が怖くないのかい?」


 かつても問われた、その質問。


 私はそれを、恐怖の対象だと思ったことは……たったの一度もない。


「民を守った証を、怖がることはありません」



 私の言葉を聞いた彼は、残ったその右目を大きく見開く。


「……何故君が、それを……まさか」

「……あ」


 気づいた時には、もう遅かった。

 彼は私の素性に、あっさりと辿り着いてしまったのだ。


 テーブルを周り、私の前に膝をついた彼は、俯いた私をそっと覗き込む。


「……君は、10年程前に魔獣被害を受けた、あの村の出身だね?」


 私は口を噤む。だがそれは、肯定と受け取られたようだ。


 漸く納得したようにゆっくりと目を伏せる彼。

 次開かれる時、その目にはどんな色が浮かんでいるだろうか。

 怒りか、悲しみか、はたまた失望か。


 何れにしても、私は真正面からそれを受け入れるつもりだ。いっそ、激しく糾弾してくれればいい。


 お前のせいで、と。



 しかしやがて開かれた右目には……憐憫の感情が浮かんでいた。


「……君を助けたつもりが、この屋敷に縛りつけることになっていたとは」


 その言葉の意味を、じわりと理解した。

 彼は、自分がどうこうではなく……ただ私のことを考えていたのだ。


「……そっそんな、縛りつけるなどと……私は、自らの意思で」

「でも私が怪我を負わなければ、君はここにはいないだろう?」


 ……そう、なのだろうか。

 鈍臭い私を突き飛ばして、華麗に魔獣を斃して、手を差し伸べられていたら。

 それはそれで、今と同じ結果になっていたような気がする。今なら、そう思える。


 ……ああ、そうか。


 私は、多分、あの時から――



「僕の怪我など、気にしなくてよかったのに」

「……そんな訳には、まいりません!」


 その言葉は、聞き捨てならなかった。

 急に声を上げた私を見て、彼は驚きの表情を浮かべる。


「私のせいで……私が逃げ遅れたせいで、貴方様は傷を負った……その傷のせいで、今もずっと、苦しい思いをされている……貴方様を、そんな気持ちにさせるくらいなら……私はあの時、死んだ方がよかった……」


 涙ながらに懺悔する私を、彼は黙って見つめている。


 そうだ。

 やはりこの償いの気持ちも、本物だ。

 私なんかの存在が、このお方に一生涯の苦痛を植え付けてしまった。

 その苦痛を少しでも和らげるために、私の中の消えることのない罪悪感を少しでも抑える為に、ここまで来たのだ。

 気にしなくていいなんて、今更そんな言葉で流せるものではない。



「……それは、違う」


 暫く黙っていた彼が、首を横に振りながら呟くように言う。

 そしてゆっくりと、優しい手つきで、私の両肩に手を置いた。


「僕はこの傷を負ったことを、後悔していない。君が襲われているのを知っていて、駆けつけなかったら……それこそ一生後悔していただろう。領民一人守れない貴族に、存在価値などないからね。……あの時手を出した僕に、解決しきるだけの力がなかった。ただそれだけだ」


「……いいえ違います、それをいうなら、私があそこで襲われていなければ……あっ」



 その先は、言わせてもらえなかった。


 気づけば私は……彼の胸の中にいたから。



「僕たちは、出会うこともなかっただろうね」

「ひっ……」


 耳元で響く低い声は、私の体全体を震わせた。


「そんな未来は……今となっては、考えたくないな」

「うぅ……」


 追い討ちをかけるように紡がれた言葉は、私の中を駆け巡り、内側から溶かすような熱を持っていた。


「……嬉しかったんだ。顔だけで判断せず、この僕の側に居続けてくれるのが」


 力が入らず、まともな声も出せず、でも感覚は冴え渡っている。

 彼の身体は、あの日を繰り返すことのないよう、丹念に鍛え上げられていた。

 その努力の跡に、私はまた一つ、彼に淡い恋情を重ねてしまう。


「もう、いいんだ。あの日のことは、もう考えなくていい。君が僕のことを見てくれているなら……僕も、思い悩むことはないから」


 そう言って彼は私を優しく抱きしめる。そして密着し、耳を当てた彼の胸。

 ドクドクと速く鼓動しているのを感じて、何故か涙が更に溢れてしまう。


「……君は、僕の心の中に咲いた、一輪の花のようだった。たかが顔の傷だけで冷遇するような人間たちを見て荒んでいた僕の心を、少しずつ、確実に癒してくれていた」


 背に回された大きな手が頭に移動し、髪の流れに沿って優しく撫でられる。

 それが本当に心地良くて、されるがままになってしまう。

 ……元より、抵抗できる状態にないのだが。


「そんな君が、僕の内面まで憂いてくれていたんだ。……ただ眺めているだけでは、いられなくなってしまった」


 その言葉が、何を意味しているのか。

 思考がぐちゃぐちゃになった今の私にはよく分からなかったが、それはもうどうでもよかった。

 私は元より、この方の所有物でいいと思っているから。

 この方にどう扱われようが、私は受け入れる。


 彼はもう暫く私を抱きしめた後、そっと体を離した。

 名残惜しく思ってしまった私に、彼はいつもの優しいものに懇願の感情を混ぜた眼差しを向けてくる。


「……君は、これから何があっても、僕の側に居てくれるかい?」


 ……そんな許可を得る必要は、ない。ついてこいと言われれば、私はどこまでもついていくだろう。

 だが……貴族である貴方様が、こんな庶民の卑しい女を連れていて、いいのか。


「……貴方の心に咲いたという花が、庶民(じゃがいも)の花でもよろしいのですか……?」

「……もちろん。可愛らしくていいじゃないか」

「っ……ぅ……」


 向けられた笑みが、あまりに眩しくて直視できない。


 ……今度は、勘違いではなかった。

 恥ずかしすぎて顔を真っ赤に染め泣きながら俯く私を、彼はまた優しく抱きしめる。


 それは、私が落ち着いて泣き止むまで、離されることはなかった。




 数日後。


 私は午前の内に、彼の部屋に呼ばれていた。

 初めての呼び出しに、私と周りにいた他のメイドたちにざわめきが走る。


「あなた一体何をしたの?」

「叱られるんじゃない?」

「もう、言ったじゃない、あの方のお部屋は素早く済ませた方が良いって」


 私に彼の部屋の仕事を押し付けられて嬉しがっていたというのに、こういう時は口々に好き勝手思ったことを言う。


(彼がどう思っていたかも知らないくせに)


 内心で毒付いた私は、しかしどれにも返答せず、ただ静かに浅く礼をして部屋を出る。



 ……怒られる訳ではない。なんとなくそう分かってはいても、どうにも緊張してしまうのは仕方がないだろう。


 やがて彼の部屋へ辿り着くと、中から彼のものとは違う低い声が聞こえてきた。

 それが止んだところでノックをすると……いつもの優しい眼差しの彼が私を出迎える。


「待っていたよ。入ってくれ」

「……はい」



 彼の隣に促され、おずおずと座ると、向かいの男性から全身を舐めるような視線が飛んできた。


「……これが、お前の言う娘か?」

「うん。僕を理解してくれる人だ」


 なんともむず痒く感じる。だが未だ刺さる視線の中、身じろぎすることは許されなかった。


「私がお前を理解していないと言いたげだが?」

「……そうだよ。兄上も、父上も母上も、他の者だって……今の僕を見ようとはしなかったから」

「……ふん」


 彼の言葉を否定しなかった、この男性は。


 シグナス・クレイン。彼の、ローレンス様の兄君だ。

 お顔立ちは似ているが……目元に彼のような優しさが、露程も感じられなかった。


「……それで?本当に家を出るのか?」

「うん。それが皆にとって、一番都合がいいだろう?」


 ……いや、待っていただきたい。

 ほんの数日で、何故そんな大層な話になっているのか。


「僕はどうせ、この家の役には立たない。舞い込む縁談も、全部断ってしまうからね」

「そうだな。お前の偽善のせいで、幾つかの家との折り合いが悪くなっている。原因がいなくなれば、多少は緩和されるかもしれない」


(そんな言い方……!)


 思わず眉を寄せると、それにいち早く気づいた彼が、視線を向けてきている。


 ……君は、何も言わなくていい。


「……そうだね。他にも、兄上から回される仕事なんかは、小さなものばかりだ。兄上なら片手間でできる」

「ただ時間を取るだけの仕事だ、それを回せて楽には思っていたがな。お前を外周りに出せればなお良かったが、それで家の評判が悪くなっても困る。だからそれくらいしかさせてやることがなかった」


 シグナス様は、若くして既に伯爵の名を継いでいる。

 だから家の仕事や人材をどうするかは、シグナス様の自由自在なのだ。


 ……だが。


(家の主として、領主として……その言い分は、間違いではないのかもしれない……でもそれが、実の弟に向ける言葉……?)


「だろうね。……だから、僕は貴族の名を捨てる。名前だって変えよう。そうすれば、この家に迷惑はかからない」


 しかし私のそんな気持ちとは反対に、彼はシグナス様の言い分を肯定する。自分を下げに下げて……まるで追い出されたがっているかのように。

 そして……名前をも、変える。そんなことをしてでも、彼はこの家から出て行きたいのか。


「お前は貴族の身分を捨てて、やっていけると思っているのか?」

「やっていけるさ。何もさせてもらえなかったけれど、僕だって何もできない訳じゃない」


 ここで初めて彼がチクリと刺すと、ほんの少し眉を寄せるシグナス様。

 一つの瞬きの後、表情は元に戻っていた。


「……ふん、まあいいだろう。私の妻も、幾らか過ごしやすくなるだろうしな。お前からそう望むなら、こちらも引き留める理由はない」

「ありがとう。なら、そうだな……月の終わり頃には出て行こう。ああそう、この子も一緒に。……それでいいかな?」

「ああ、メイドの一人くらい好きにしろ。だが、戻ることは許さん」

「そんなことにはならないから、気にしないでいいよ」

「ふん、そうか」


 話は終わったとばかりに、シグナス様は立ち上がり……ちらりと此方に視線を向けてから、退出した。




 訪れた静寂の後、隣の彼と目が合った。そこには、少しの疲れが滲んでいる。


「……まあ、そういうことだ。驚いたかな」

「……はい」


 正直に頷くと、彼は力無く笑った。


「まともに公務もせず、役割すら果たさない貴族に、存在意味などない。だから家を出ることにしたんだ。幸か不幸か、僕はみんなに疎まれていた。許可を得るのは簡単だったね」

「……しかし……」


 彼は家を失うことになる。放逐されて、この先どう生きるつもりなのか。

 そして……彼自身、そんな除名のされ方で、本当にいいのか。


「無責任だと言われれば、その通りだろう。でも僕は、誰かを不幸にするような行動は取りたくなかった。それは領民にも、どこかの貴族令嬢にも、この家に対してもね。……僕は貴族である前に、ただの人間だったんだよ」


 そんなことはない。貴方様は、立派な貴族だ。

 ……そう、口に出すことは簡単だった。だが彼が私にそれを望んでいるとは、微塵も思わない。


 彼の中ではもう決まったことで、その先の未来を見据えている。シグナス様の許可を得た後で、それを覆すことなどしない。


「だけれど……君のことは、不幸にしてしまうかもしれないな。市井に降りれば、僕も君も、今のような生活はできないから」

「……そのようなことは、ありません」


 彼の自信無さげな言葉に、私はキッパリと否定した。

 そこまで他人の事を考えられるようなお方が、たった一人を不幸にできる筈がない。


 ……何より。

 彼に、この私を不幸にすることなど、到底出来はしないのだ。


「……私は庶民ですから、市井には慣れています。ご不明な点は、私にお申し付けいただければと思います」

「……はは、頼もしいね」


 そんな心中を隠すように現実的な発言をすれば、彼は笑っていつもの眼差しを向けてくれるのだった。




 彼が貴族籍を捨てるという話は、どこから漏れたのか、翌日には当然のようにメイドたちの間で噂されていた。

 そして彼女らは私を見つけた途端、こう言うのだ。


「あなたがした失敗のせいで、お貴族様の名に傷をつけたのよ。恥を知りなさい」


 私は、その言葉をしかと受け取った。今回のことではないが、私には深く刺さるものがあったから。


「……ええ。ですから私も、月末にはこのお屋敷を追い出されることになります。数年の間、お世話になりました」


 そう返すと、毎度私につらく当たるそのメイドは、目を丸くしていた。彼女の台詞を考えれば、そうなってもおかしくないというのに。

 結局のところ、この場の全員、誰も私のことなど深く考えていない。その証左だ。


 誰も知ろうともしないのに、私や彼のことを正しく説明したところで、無駄だと思えた。

 どうせ数日後には、私はここからいなくなる。ならば本人たちには都合の良いように解釈させておけば、余計な詮索もされず、やがて忘れられるだろう。


 私は……彼のいないこの屋敷に、もう用はない。

 ここへ来た目的は、はじめから彼だけだったから。



 

 そして迎えた、最終日。


 特別仲の良い同僚もいなかった私は、形式的な挨拶の後、誰の見送りもなく屋敷を出た。

 ここにやって来た時の衣装に身を包み、大した荷物も持たず、屋敷の門の外に立つ。


 ここで暫く、彼を待つ形だ。

 道を通る街民に好奇な視線を向けられてなんとも居心地が悪いが、ここを離れる訳にもいかない。


 どれにも目を合わさずに小一時間程待っていると、遠くの屋敷の扉が開いた。


 彼と、たった二人の騎士様が、並んで門まで歩いてきている。案外親しげな様子で話をしていて、私はなんとなく安心した。

 他にも、彼のことを知っている人がいるのだと。


「それでは、ローレンス様……いえ、ロール殿。役目を終え、これからは慎ましやかな道を歩まれることと思いますが、民を守るという心構えは、忘れぬように」

「もちろんだ。名を捨てても、心まで捨てることはない。安心してくれ」

「……はい。……私共は、貴方様の、ご壮健な未来をお祈りしております」


 そして彼に向けて騎士の礼を取った二人の騎士様は、次に私に視線を向け……眩しそうな表情を浮かべてから、屋敷へと戻っていく。


 それを、黙って見つめる彼……ロールは、扉が閉まったのを見届けて、こちらに視線を送った。


「……彼らは、あの時遠征に一緒に来ていた者たちだ。僕がどうやってこの傷を受けたのかを知っている」

「そうなのですね」


 それなら、親しいのも頷ける。単純に十数年来の付き合いでもあるのなら、彼がどんな思惑で今まで過ごしてきたのか、分かっていることもあるだろう。


「彼らには、君が、あの時僕が守った子だと明かしたけれど……良かったかな」

「……はい、特に問題はありません」


 それで、あんな眼差しを受けたのか。

 彼らの目には、私がただ淡い恋情を抱いて、ここまでやってきたのだと映ったことだろう。

 ……元々は償いの為だったとはいえ、今それを否定することはできない。

 少し気恥ずかしいが、よしとしてくれているならば、何も言うことはない。



「あらあなた、騎士様とご結婚されるのね?」 

「……えっ?」


 少し暖まった熱を外に出そうと息を吐いたその時、背後から年配女性の遠慮のない声が聞こえて、慌てて振り返る。


「惚けたって無駄よ、私には分かるんだから。お顔に大層な傷が残ってしまっているのは残念だけど……その心に、惹かれたのよね?」

「え、いや、あの」

「なんだ、そういうことか。嬢ちゃん寂しそうな顔してたから、どうしたんだと思ってたが……旦那を待ってたんだな!」


 女性の後ろからさらに壮年の男性が現れて、怒涛の憶測が飛び交う。

 寂しそうな顔とはなんだ……そう抗議したかったが、湧き上がる熱に邪魔されて、言葉にできない。


「……ち、ちが」

「謙遜しなくていい、めでたいことなんだから。ほらこれ持っていきな、ここに居合わせた者として、祝わせてくれよ」

「あら、じゃああたしも何かプレゼントしようかしら」


 そうして女性は私の話を聞くことなく、家と思わしき方向へすたすたと歩いていく。


「……は、はやく、いきましょう。今のうちに」

「え、あの方からも何か貰えそうだけれど……いいのかい?」

「……あ、うぅ……」


 逃げようとする私を引き留める、美しい笑み。そう言われては、純粋な善意で動くあの女性を蔑ろにするのは良くないと、足が止まってしまうではないか。


「なになに、結婚するだって!?なんとめでたいことだ!」

「騎士様と結婚!?私もご奉公にあがれば、かっこいい騎士様と結婚できるかしら……」


 先程の男性が触れ回ったのか、最早何かの催し物のように群がる人々に、私はついに逃げる気力を失った。

 ローレンス様も訂正してくれればいいのに、ただ笑ってありがとうと、全てを受け入れている。

 そして最後に戻ってきた年配女性から花束を渡されて、漸く私たちは解放されたのだった。


「……どうして、こんなことに……」

「いいじゃないか、僕は嬉しかったけれどね」


 耳まで真っ赤に染めた私を見て笑う彼。その腕の中には、沢山の頂き物が山のように積み上がった籠が収まっている。


(嬉しい……?この私と結婚するという扱いを受けて……?――いやいや)


 違う。勘違いしてはいけない。彼が言っているのは、そういうことではない。

 ただ他人から、純粋な善意を受けられたことが嬉しかったのだ。


「……しかし、どうしようか。これからどうするかも話し合っていないのに、こんな大荷物じゃ困ってしまうな……」

「……それなら」


 熱い息を吐いて身体を冷ましながら、私は悩む彼に一つ提案をした。

 ……あまり考えを巡らすことなく。


「私の家に寄るのは、どうでしょうか。今から馬車に乗れば日暮れまでには着きますし、荷物を持ち込んでも問題は……問題、は……」


 大有りだろう。いきなり元メイドが、元主を自分の生家に案内するのはいかがなものか。

 それにあんな小さな村に、このお方を置いておけるような、綺麗で清潔な場所はない――


「それはいいね。折角だから、ご両親に挨拶もしておこうか」


 しかし彼は気にすることなく、こんな卑しくて拙い提案に乗ってくる。

 ……どこまで広いのだ、この人の心は。


「……いや、あの……申し訳ありません、貴方様には、相応しくない所で……」

「忘れたかい?僕は今既に、貴族じゃない。……ロール。ただのロールだ」

「ですが……っ!」


 食い下がろうとすると、彼の顔が間近に迫った。


「なんなら、その言葉遣いもやめてくれていいけれど?」

「……そ、それ、は……」


 また身体の熱が、ぶり返す。排出しようにも、冷える度に内から熱されて、温度が全く下がらない。


「……案内、してくれるね?」

「…………、はぃ」




 よろよろと歩きながら、なんとか村行きの小さな馬車を見つけた私たちは、頂き物を一部譲渡する条件を出し、二人だけで出発してもらえるよう手配した。

 馬車に揺られながら、籠に積まれていたパンや果物をカットする。そして一欠片口に放り込んでから、彼に手渡した。


「……徹底しているね」

「はい……身分が変わられたとはいえ、対応を改める必要はないかと」

「そうではなくて……これらは、彼らの善意によって分け与えられたものだ。過度な警戒は礼を欠くと思うのだけれど」

「……それでも、これが私の役割だと存じます」


 きっぱりとそう返すと、彼は笑みを浮かべた。

 ……しかしそれは、いつもの優しいものではなかった。


「ふーん……そうか」

「……?」

「話は変わるけれど」

「はい」


「君のその装い、とても似合っているよ。僕はこっちの君の方が好きだな」

「!?」


 その台詞で、遅ればせながら気付いた。

 彼は、私を揶揄おうとしていたのだ。


 確かにこの服は、屋敷に入る私に両親が似合うと見込んで、奮発して選んでくれた一着だ。私も気に入っている。

 ただ、それを他人に、正面から似合っていると言われたことは初めてで……どう返せばいいのか分からなくなってしまった。


 思惑通り赤面する私を見て、彼は満足したようにまた笑う。今度はいつもの優しいものだ。

 ……そうだ、それを言うならあなただって――


「……お熱いところすまない、胸焼けを起こしていてな。何か良さそうなものはあるかね」

「おおそれはいけない。そうだな……ミルクなんかどうだろうか」

「それでいい、いただこう」


 馬を曳いていた御者が突然話しかけてきた。

 言い返す機会を失い俯いてしまった私を他所に、彼は御者と流れるように会話を熟す。

 何故この中にミルクまで入っているのかは、本当に謎だが……


 どうせいい勝つ事のできない会話をせずに済んでよかったと、思うことにした。


 御者とやり取りをする彼の横顔を見ながら食べる柑橘は、妙に甘酸っぱく感じたのだった。





 村についてから、私はまた一つ後悔していた。

 彼を、村人にどう説明すればいいのか分からなかったからだ。


 元伯爵家の、次男だった人だ。……これは当然却下である。あまりにも衝撃的過ぎて、大混乱に陥る可能性まである。


 ともすれば……街で盛大に間違われた一件を、利用するしかないのか。


「……あれ?リアじゃん、おかえり!ってあれ、お仕事はどうしたの?その人は?」

「ただいま、ミラ。……引退した騎士様が、静かな所で休養を取りたいと言っていたから……連れて、来てみた」


 変わらず明るく声をかけてくれた幼馴染のミラに、彼の顔色を窺いながら、我ながら頭を抱えたくなるような嘘を垂れ流す。

 彼は、そんな私を微笑みながら見守り、黙ってくれている。


「そうなんだ……え、もしかして、リア……」

「なに?」

「……この、お方と?」

「……ちっちがう!」

「えー、ほんとに?」


「おかえりリア!」


 訝しむミラの後ろから現れた女性に、会話を中断される。……助かった。


「お母さん……ただいま。お父さんも」

「おう」


 誰かが呼びに行ってくれたのだろう、両親が村の入り口まで出迎えに来てくれていた。

 だが当然、話は元に戻る。


「……リア、仕事はどうしたんだ?それと……そこのお方、は……」


 疑問を口にした父が、彼の顔を見て口を開けたまま固まった。

 ……彼の正体に、もう気付いたのだろうか。

 母も父の様子を見て察したのか、歩み寄って小声で話しかけてくる。


「……何か、訳ありなのね?」

「……うん。だからまずは、家に帰らせて……」


 両親のさらに後ろから歩いてきている追加の村人たちを見て、眩暈がしたのもあって。

 私たちは早々に、広場を後にした。




「……それで?どういう、ことなんだ」


 荷物を運んでそのままテーブルについた私たちは、早速父の追求を受ける。


「……うん、まず、このお方は……伯爵家の、ローレンス様」

「……だろうな。……何故そんなお方が、こんなところに……」

「僕のことを知っているのなら、話は早い。ここは僕から説明しようと思うけど、いいかな」

「……はい……」


 もう、どうにでもなれと思った。彼が話してくれるなら、私はただ隣で頷くだけにしよう……

 私は、流れに身を任せることにした。



「僕は家族や他貴族との折り合いが悪くてね。公務もまともに与えられていなくて身分が飾りと化していたから、必要ないと思って捨てたんだ。だから今は、ローレンス・クレインじゃなくて、ロール。ただのロールを名乗っている。だから畏まらなくてもいいよ」


 いきなりのとんでもない爆弾発言に、両親は目を白黒させている。そんな軽く言われて、飲み込める訳もない。


「なっ……身分を、捨てた……もしかして、その傷が原因で……?ああ、娘の愚行のせいで」

「その件については、この子と話し合って終わっている。そもそも僕は気にしていないから、この子を蔑めるようなことはもう言わないでほしいな」

「……そう、ですか……」


 父の早計かつ本質をついた言葉を、彼は割り込んで噤ませた。

 貴族にそう言われれば、頷くしかない。まあ今の彼は、もうそれとは違うのだが。


 私だって、未だ父と一緒になって謝りたい気持ちだ。だが本人がそれを求めていない以上、しつこく謝り続けるのも鬱陶しいと思わせるだけなのだ。

 ……このお方の心の広さに、甘えてしまっているだけとも言える。


「僕は、別に貴族に生まれたことに拘りなどない。寧ろ貴族だからと気を遣われることが、僕には合わなかったんだ」

「は、はぁ……」


 現領主の弟君がこう言ったところで、反応に困るのが普通だ。相槌を打てているだけ上等だと言えるだろう。



「まあ僕の話は、これくらいでいいかな。それよりこの子のことだけれど」


 彼の眼差しが此方に向く。思わず目を合わせてしまって、幾らか体温が上がった気がした。


「……そうだ、娘は貴方にご迷惑をおかけしてはいなかったでしょうか」

「迷惑なんて、微塵も。寧ろこの子は、煙たがられる僕に寄り添ってくれたからね。荒んでいた僕の心を癒してくれた。感謝したいくらいだ」

「かか、感謝だなんて、そんな……私の話は、今必要ありません」


 彼と父の視線が交わった時、とても嫌な予感がして、咄嗟に割り込む。

 両親の前で、私がどんな風に彼と関わってきたかの説明など、悶絶する程恥ずかしい。

 それを語れば、私がただ彼に好意を持って近づいているだけの、卑しい女にしか見えなくなってしまう。

 ……今やそれ自体、何も間違いではない。ではないが……こうやって自分で自分を嘲るのと、それを他人に看破されるのとでは、訳が違う。


「……そうかい?ならまた今度にしようかな」

「……まあご迷惑にならなかったのなら、よいのですが」


(今度もなにも、言わなくてよいのです……!!)


 とりあえず難を逃れたと思ってそんな言葉を飲み込み、安堵の息を吐いていると。

 話にも入らず、ずっと静かに、爛々とした目を此方に向けている人物がいることに気がつき……私の背に、ぞわりと寒気が走る。



「……とりあえず貴方の事情は、ある程度は把握しました……ですが、これからは……どうするおつもりで?」


 母の熱い視線に気づいて凍りつく私を他所に、父は話を続ける。

 確かにそこは、特に重要な部分だ。だが今蛇に睨まれていて、話に集中できない。


「それなんだけれど……以前この子に、じゃがいもがかわいい花をつけると聞いてね。もしよかったら、まずはそれを見たいんだけれど……季節が外れていて難しいかな」

「じゃがいもの、花……?まあおっしゃる通りもう収穫時期で、花も枯れてしまっていますね」

「そうか……どうしようかな」


 彼は考えるように顎に手をやる。…… 覚えていてもらえたのは嬉しいが、それこそまた今度、都合のいい時に見に来ればいい話だ。

 今はもっと、建設的なことを……

 

 そう考えた時、ずっと此方に向いていた母の視線が……ぬるりと、彼へ移った。

 次は、全身の肌が粟立つ。


「それなら、次の開花時までいてもらうのはどうかしら。なんならお手伝いもしてもらって」

「なっ、ちょっと、お母さん……!」

「いや流石にお前、それは……」


 震える声で止めると、父も便乗してくれた。

 そんな簡単に提案できることではないだろう。


「そう?あなたも男手が足りないと嘆いていたじゃない」

「そ、そうだが……(相手が相手じゃないか)」

「(このお方はもう貴族ではないのよ?気を遣い過ぎるのも良くないわ)」

「(いやしかしだな……)」

「……聞こえてるんだけど……」


 もう、勘弁してほしい。本人の前で、コソコソと丸聞こえな内緒話なんて……本当に居た堪れなくなるから。


 それで謝ろうとして、彼に目線だけ向けて……私はもう、何も言わなかった。いや、言えなかった。


 ……全ては、その美しい笑顔が、物語っていたから。


「それは良い。農業はいつかやってみたいと思っていたんだ。助けになるなら尚更、やらない訳にはいかないね」

「あら、ローレンス……ロールさんもそう言っている事だし、お願いしたらどう?」

「うーん……まあ貴方が良いのなら、反対する理由もないな。……お願いしても?」

「うんうん。身体を鍛えたはいいけれど、振るうところがなくて残念に思っていてね。しっかりと働くから、任せておくれ」


 そうして、彼は暫く、この家に留まることとなった。


 ……どうして、こうなってしまったのだろうか。




 次の日から、彼は精力的に働き出した。

 土に塗れ、汗を流しながら、畑に埋まったじゃがいもを黙々と掘り出している。

 それを呆然と見る私の隣に、母が並んで立った。


「彼のこと、どう思ってるの?」

「……」


 答えはとうに見抜いているくせに、敢えてそうやって聞いてくる。

 私の口から、直接聞きたいと思っているのだろうが。

 自らに対してもはぐらかし続けているそれを認め、他人に表明するまでの勇気は……今の私にはなかった。


 だけれど。

 視線の先、黙して作業しながらも楽しそうに笑っている彼を見て、体の芯がじわりと暖かくなってしまう。

 最早そういうことなのは、疑いの余地もないだろう。


「身分なんてもう、考えなくていいのだからね」

「……」


 そんな考えすら母には透けて見えているのか、一つくすりと笑ってこう言い残していく。

 思わず頷きそうになったのを、なんとか堪えた。


 ……そう。

 今の彼は、ただの平民だ。

 身分が見上げる程高く、畏れ多いと思っていた彼は、今や手を伸ばせば簡単に触れられるところに居るのだ。


 ただ、私のせいでその末路を辿らせてしまったことを、忘れる訳にはいかない。

 この私に、彼を愛し、愛される資格など……ありはしないのだから。



 いつの間にか伏せていた目を開けると、遠くに笑みを浮かべながら此方に手を振る彼の姿が目に入った。

 ……この内側からじわじわと溶かされるような感覚を、いつまで味わえばいいのか。


 私は彼に、腰のあたりで小さく掌を向けることで返答をした。


 今の私には、これが精一杯だった。




 二ヶ月後。


 じゃがいもの花を見たいと言って、父の農作業の手伝いをしていたロール。

 その姿を見ていた村人は皆好意を持ち、彼はあっさりと村に溶け込んでいった。

 普通なら言葉遣いで違和感を抱くだろうに、皆彼を、傷を理由に引退した騎士様だと疑わず、彼が村を歩けばいつも囲まれていた。


 そんな彼は、村に来てから一月くらいは私の家に居候のような形で居たが……今は別の場所に移っている。

 家の隣にある、長年誰も住んでいなかった空き家。そこを父やロール、そして付近の村人が一緒になって改修し、移り住んでいた。


 ……私と、二人で。



 いやこれは、決してそういうことではない。

 彼がこんな村で一人で住むには不便なこともあるだろうからと、両親に推され、彼にも歓迎され、断る理由がなかったのだ。


 私の中では、これはお屋敷時代の延長。当時毎日のように繰り返した部屋の掃除に、侍女としての仕事も追加されたような状態なのだと思っている。


 ……だが。


 同じ屋根の下、二人きりで。

 食事の準備をすれば彼がテーブルにつき、毎食を共にする。

 手伝いに出かける彼に、いってらっしゃいませと声をかけ、帰ってきた彼を、おかえりなさいませと労い……就寝時に、おやすみなさいませと締めくくる。


 ……これの何処に、そういうつもりでないと言い訳できるだろうか。


 二人で住んでいるのは村人にも周知の事実で、いつ結婚するのかと、子どもはいつだと、すれ違う度に冷やかされる。

 いや、恐らく冷やかしではないのだろう。

 彼らは本気で、私たちがこのまま結婚し、子どもを拵えると思っている。



 ……そんな未来を想像できないのは、私だけなのだろうか。

 彼は……私とのそういった関係を囁かれていることに、どう思っているのだろうか。


 今も隣の部屋で眠っているであろう彼のことを考え、私はうまく寝付けない日々を送っていたのだった。



 

 そんなある日。

 二人で朝食をとっている時、彼の視線が此方に向いた。


「……君は」

「はい、なんでしょう」


 彼は思案顔を浮かべながら、さらりと疑問を口にした。


「結婚は、考えていないのかい?」

「っっっ!!」


 含んでいたものを吹き出しそうになって、慌てて口を押さえた。

 それを、珍しいものを見るような表情で見つめられている。


(驚きたいのは、こっちです!)


 何を今更聞いてきているのだ。此方は貴方とこの村に来てから、ずっとそのことばかり考えさせられていたというのに。


「……大丈夫かい?」

「……はい、お構いなく」


 平静を装いつつ、彼の質問の意図を考える。

 ……彼と私の間に囁かれている話を耳にして、私がどう思っているか聞き出そうとしているとか、そんなところだろうか。

 ……そうだとしても、やはり今更だが――


「……それで、どうなんだい?君はずっと僕の面倒を見てくれているけれど、そういうことを考える頃合いだろう?僕も大分ここに慣れてきたし、相手を探したいのなら、自由にしてもらって構わないのだけれど」

「……」


 ……ん?

 このお方は……何を言っているのだろうか。

 相手を探したいなら……自由にすればいい?


 真剣な表情を見るに、彼は冗談を言っている訳ではない。

 だからこそ……私の中に、もやもやとしたものが広がっていく。


「……失礼を承知で、お伺いしますが」

「うん?」

「貴方様は……私との間に囁かれている噂を、ご存知ではないのですか?」

「……噂とは?」


 表情も変えず、少しの間を置いて発せられたその言葉を聞いて、私は察した。


 ……この人。

 本当に、知らないのだ。


「……ご存知ないのですね」

「……うん、噂と言えるようなものは、聞いたことがないな。それはどういったものなのかな」


 知らないなら、聞く。彼のいつもの行動原理が、私の心を乱す。


(これを、私の口から説明しろと……?)


 しかしこうなっては譲らない彼のことだ、私が口篭っても、どうにか聞き出そうとするだろう。


 私は逃げ道を探すことを早々に諦めて、噂の内容について、ありのまま明かした。



「……ふーむ、そういうことか……まあ屋敷を出てすぐ、同じような誤解があったしね。ここでもそう思われても、特段不思議じゃない」

「……そう、ですね」


 噂の内容を聞き、腕を組んで考え始める彼。

 正直に言ってとても恥ずかしいので、早く手伝いに行ってほしいのだが……この話は彼が納得するまで続きそうだ。


「でも、ここは街じゃない。あの時はどうせ離れるから何もしなかったけれど……君はこの村の出身だ、誤解は解いておくべきではないのかい?君はそんなこと望まないだろう」

「……」


 彼は、心から私を案じてくれている。その優しさが……私の心にサクリと傷をつけ、ジクジクと痛み出す。


 この自分の感情が……本当に、嫌になる。


「……貴方様は」

「なんだい」

「……私が敢えて、誤解を解かなかったと言ったら……どう思われますか」

「え……」


 珍しく、彼は動揺した。考えてもみなかった、そんな驚きの表情をしている。


「……それは、一体、どういう……」

「……私にも、分かりません。ですが……」

「……?」



「私は、今……傷ついています」



「な……」

「……あ」


 動揺した彼を見て、気が狂ったのだろうか。

 心の内を堂々と宣言してしまって、私の醜い部分を……ついに、晒してしまった。


「あ、あの、申し訳、ござい、ません……」

「……何故、君が謝るんだい」

「いえ、これは……これは、違……」


 何故だか、涙が溢れてくる。傷ついて不安定になった心が、私の感情をかき乱してくる。


「ああ泣かないでおくれ、僕が悪いんだろう、何が悪かったか教えてくれないか」

「ちがう、ちがうんです……あなたさまは、なにも悪くない……これは、私の……問題だから」


 そう言っても、彼はまだ案じるような視線を向けてきた。


 それが、今の私には、毒でしかなくて。



 ……だから、私は。


 彼を置いて、この場から逃げ出した。





 逃げ込んだ先は、隣の実家。


 洗濯物を外へ運ぼうとしていた母を見つけ、泣きっ面のまま飛び込む。


「リア!?どうしたの?」

「……っ」


 強くしがみつく私を見て母はどうしたものかと周囲を見回すが、やがて宥めるように背中に手を回された。

 ただ涙を流す私の背を、黙ってあやすようにさすってくれる。

 ……それだけで大分落ち着けるのだから、母の力は偉大だ。


 やがて顔を上げた私を覗き込むようにして、母は尋ねる。


「……彼に、泣かされたの?」

「……ちがう」

「うーん……彼に、自分の気持ちを伝えるのが、怖くなっちゃった?」

「っ……ちが……」

「違うかぁ……じゃあ、そうね……」


 母が斜め上を見上げながら、あれこれ思考を巡らせている。恥ずかしくなって身じろぎしても、しっかりと包み込まれていて離れることができなかった。


 そして真っ直ぐな目が、再度私を捉えた。

 ……ああだめ、それ以上は、言わないで……



「……自分ばっかり彼のことが好きになっちゃって、でも彼が見てくれないのが辛かったの?」


「……あ、あ、ぁ……」



 ……言葉に、されてしまった。


 否定したかったのに、できなかった。


 何故なら……その言葉以上にしっくり来るものなどないと、思ってしまったからだ。



 感情が崩れたきっかけは、醜悪な自分に対する嫌悪だった。


 彼を愛する資格など無いのに、愚かにも芽生えてしまったこの恋情が、冷静さを失わせ、思うままに内を晒してしまった。

 それに気づいて取り乱し、さらに彼をも混乱させてしまった。それが本当にどうしようもなく、自分が醜く見えて仕方がなかった。



 ……ただ。

 私の根底にあるのは、そういうことだった。

 次々と積み重なっていく、彼への恋情。

 彼から向けられる眼差しが、自分への寵愛によるものだとしたら。

 それ以上に、幸せなことなどない。


 だが彼は、私の恋情には気づいていない。

 あくまで自分に敬意を持って側に居続ける、ただの世話係でしかないと思っている。

 私を責任感が強い人間だと思い込み、自分がいるせいで、私が縛られているなんて考えている。

 そうでなければ、あんな言葉は出ないはずだ。



 ……はじめは、それでもよかったのに。

 彼が笑っているだけで、よかったのに。


 今はそれに、理由を求めてしまっている。



 ……何故、貴方は笑っているの?


 ……どうして貴方は、私に笑いかけてくれるの?



 声にならない声を声をあげながら、母の服にシミが出来てしまうほどに泣き続けていると。


 不意に入り口に、人の気配がした。


 顔を上げ、恐る恐るそちらに目を向ければ。


 真っ直ぐな右目を此方に向ける、彼の姿があった。



 彼は一歩一歩と歩み寄ってくる。

 そしてすぐ側まで来ると、彼は片膝立ちになって、その手を差し出した。


「……君に話がある。ついてきてくれないか」


 優しく、且つ真剣に発せられたその言葉に、私の心臓が熱を上げる。

 先程は苦しくなって逃げ出したというのに……今度は、吸い込まれそうになった。


「……はぃ」


 今更赤く腫らした目を隠すこともできず、かろうじて出た声の後、母の懐を離れて、彼の手に自分の手を重ねる。

 そして大きく硬い、そして温かい手に柔らかく握られ……また心臓が跳ねた。


 ……彼に手を握られたのは、初めてだったから。


 此方を気遣うように、しかし急かすように緩く腕を引かれて、私の体は当たり前のように動き出した。



 入り口の外に立っていた父にも見送られ、彼が向かうのは……私が逃げ出した隣の家。


 入れば、冷めてしまったそのままの食事。

 ぼんやりとそれを見ていると、彼は私が座っていた椅子の向きを変え、私を座らせた。


 そして彼は、私の前に跪く。


「……まずは、謝りたい。申し訳なかった」


 頭を下げる彼を見て、少し思考を動かした末に、焦る。


「……あっ頭を、おあげください」

「……」

「ぁ……」


 ゆっくりと顔を上げた彼は、本当に、心からの謝罪を顔に表していた。

 ……違う、あれは、私が――


 そう声を出そうとすると、彼の立てた人差し指が、私の唇にそっと触れた。

 

 ……君は、何も言わなくていい。



「……僕は、ずっとこう思っていた。君は僕が貴族だったから、僕を慕ってくれていて、これまで世話を焼いてくれていたのだと」


 彼はゆっくりと話し始める。唇からは離れたが人差し指は立ったままで、私の発言は許されていない。


「だけど、僕が君を連れて行きたいと言って、そのまま束縛してしまった。貴族でなくなったくせに、その人生を捧げろと、言っているようなものだった」


 彼は、自分の行いを恥じるようにそう言う。

 即座に否定したかったが、彼の目は真っすぐに私を見据えている。これは……聞き終えるまでは黙っていた方がいい。


「君は僕とこの家に住むようになってから、一層僕に尽くしてくれるようになった。そこでようやく気づいたんだ。庶民の娘が嫁ぐ為に必要な能力を君は十分以上に持っていて、それを僕なんかに使ってくれているのだと。……それは本来、相応しい相手に使って然るべきなのだと」


 彼は眉を下げながら、そう話し続ける。

 ……そんな、大層なことではない。

 償いをするのに、何でもできないと駄目だったから、必死になってモノにしたのだ。

 全ては、貴方一人の為に。他の人間のことなど、考えたことは――


「でも……言葉を選ばずに言うと、とても気分が良かった。あの時私欲で摘んだ花が、この小さな鉢の中でも変わらず美しく咲き誇っていたんだ。それを、すぐ近くで眺めていられることに……幸せのようなものを感じていた」


 はにかみながら目を逸らす彼。

 そんな人間らしい所作が……私の思考を狂わせた。

 そして彼の言葉を、少しずつ飲み込んで……体の中心が、熱を持ちだす。


「けれどまあ、僕はここまでで充分だと。後は、然るべき者にその幸せを譲ろうなんて思って、あんな、発言、を……?」



 私は彼の手を、震える両手で包み込んでいた。


 ……限界だった。


 そんな言葉……これ以上は、聞きたくない。


 枯れていた涙が、また湧き出してくる。



「……いまさら」

「ん……?」


「いまさら、手放そうなんて……いわないでください」

「……!」

「あなたがつみとった花は……もう、あなたのそばでしか……咲けません」

「……っ」


 驚きに見開かれていた彼の目が……次第に熱を帯びていく。


「わたしは……あなたに、見てほしい。あなたが見てくれるなら、わたしはここで……咲きつづけられる、から……あっ」



 気づけば私は、彼に抱き締められていた。

 私が掴んでいた彼の右手は、決して離さないというように握り込まれ、左腕だけで私を抱き寄せ、包み込んでいる。


「……はっ、はっ……」


 同じ状況であるあの時を思い出して、呼吸が乱れ、身体全体に熱が広がっていく。

 耳を擽る彼の吐息も熱を帯びていて、そのことだけに意識を向けてしまう。


「……僕は本当に、馬鹿だな」


 そして耳元で響いた低い声が、私の頭の中を蕩けさせた。


「あの時覚えた感情が、なんだったのか……今、ようやく分かったよ」


 口角の上がったような声が、耳元で響き続ける。


「僕はね……あの時から君を、独り占めしたかったんだ。君のことを……愛おしいと、そう思っていたんだ」

「〜〜〜!!」


 心臓が、爆発しそうな程、脈動している。

 身動きの取れぬまま、この脈動が、密着した彼に伝わっている。


 そして、彼からも……同じような鼓動が、伝わってきている。


「……僕だって、同じだ。君に、ずっと見ていてほしい。その眼差しを他人に譲るなんて、今更絶対にしたくない。……だからもう、あんなことは、二度と言わない」


 そう言って彼はゆっくりと私を解放し……私の背を支えたまま、至近距離で、熱く真剣な眼差しを此方に向ける。

 熱に浮かされそうになるが、今はグッと堪える。その眼差しに応えるように、私も真っ直ぐに見つめ返した。



「……僕と、これからも一緒に、居てくれるね……リア?」


「……はい、ロールさま」



 私の消え入るような声を聞いて、柔らかく、愛おしいものを見る目で微笑んだ彼は。


 もう一度、きつく私を抱きしめた。




 それから、数ヶ月。


 私たちの村での扱いは、何も変わらなかった。


 それもそのはず。

 村人は皆はじめから、私たちが結婚すると思い込んでいた。それが、その通りになっただけだからだ。


 私だって愚かにもそれを密かに期待して、そんな思い込みを訂正しなかった。

 だがやはり……実際にそうなってみれば、彼ら村人たちの反応には、少し気恥ずかしいものを感じた。



「リア」

「はい」

「おいで」

「……はい」


 ただ、この家での暮らしは、かなり変わったように思う。

 彼……ロールは、時間が空けばすぐに私に構ってきた。

 日に焼けた腕を広げて待っているロールに、私は毎度拒めずに吸い込まれていってしまう。

 そして包まれると、優しく、愛でるように頭を撫でて……時折額に口付けを落としてくれる。

 これが心地良くて、拒む気になどなれないのだ。


 勿論、いつもいつでもこうしている訳ではない。

 ロールは父に習いながら、自分で畑を管理するようになっていた。

 花が見たい。それだけだったはずなのに、ロールは真摯にじゃがいも栽培に打ち込んでいる。


 そして、やがて私を畑に呼び出すのだ。


「見て、リア。花がついてたんだ」

「やっと、見られましたね」

「うん」


 花を眺めながら無邪気に笑うその横顔が、愛おしい。


 ……自分がそういうふうに思うことに、最近はあまり気にならなくなってきた。

 ロールが私を見て、私がロールを見る。それが当たり前で、一々自己嫌悪の感情など挟んでいられなかったのだ。


 そうして笑んだ彼は此方を見て、こう言う。


「可愛らしいね。リアみたいだ」

「っ……もう」


 冗談だったとしても、感じる幸福感は偽りではない。

 彼がそうやって笑いかけてくれるだけで、私は充分、幸せだった。




 そんなある日、村に知らせが届いた。


 領主……シグナス・クレインに、子ができたというものだ。

 その子はこれ以上ないくらい健康体の男の子で、生まれて間もないのにも関わらず、早くも次期領主として辣腕を振るわれることを期待されている、らしい。


 そんな知らせを受けたロールはその夜、自室に私を呼び出した。

 今までこんなことがなく少し戸惑ったが、一応は元実家のことだ、何か思うところがあったのだろう。


 就寝前の支度を終え、扉をノックすると、彼が開けてくれる。


 促されるままに部屋へ踏み入ると……



 後ろから、抱きしめられた。



「あっ……ろ、ロール、さま?」

「……」


 ロールは何も答えない。ただ黙って、私の頭に顔を擦り付けてくる。

 普段余裕を感じさせる彼が、こうも甘えるように……それが珍しくて、なんだか……妙な気分になる。


「……あ、あの」

「……すまない、困らせてしまったね」


 我に返ったのか、ロールは私を解放し、横を抜けてベッドへギシリと腰掛けた。


 そして此方を見て微笑み……隣を、ポンポンと叩く。


「おいで」

「っ……失礼、します」


 ……今までの触れ合いとは、違う。それを肌で感じ、緊張に身体を強張らせながらちょこんと座ると……ロールは私の腰に手を回して、そっと抱き寄せた。



「……機会を、見計らっていたんだ」

「……機会?」


 少しずつ大きくなっていく鼓動。それは変わらず緊張によるものなのか、それとも……


「兄上に、子ができただろう?ならもう、あの家は安泰だよね」

「……そう、ですね」


 やはり、この話だった。

 元実家の話を聞けば、ロールも思うことがあったのだ。


「……もう、なにも、気にすることはないよね」

「……?何を……っ!?」


 言葉の意味を問いきる前に、ロールの顔が迫り。



 ……唇が、重なった。



 強く求めるように、噛み付くような彼の口付けは……私の脳を焼き、一瞬で身体を脱力させた。


「ん……っ」


 突然口を塞がれ、呼吸がうまくできず、妙な声を漏らしてしまう。


 やがて瑞々しい音を立てて離れていく、ロールの顔は……艶やかで、とても美しかった。


「ふ……はぁ、はぁ……」

「……本当に、愛おしいな」

「んぅっ……」


 余裕のない表情の彼がまた迫り、口を塞がれる。

 唇をこじ開けるように舌を入れられ、身体の中を弄ばれているような錯覚に陥った。

 強引にも思えるのに、それが……言い表しようもなく、気持ち良くて。


「はぁ、はぁ……」


 力が抜けきってしまって、しかし彼に凭れながらもなんとか呼吸を整えようと息を吐く。


 身体が、沸騰するように熱い。そしてそれは……触れている彼も。

 その事実が、さらに私の体温を上げ続ける。


「はぁ、……あっ」


 両肩を支えられて、座り直させられる……と思ったら、そのままロールは体重をかけ、私を押し倒した。


 なす術なくぽすんと倒れ込んだ私を、熱い眼差しで見下ろすロール。


 そんな彼の表情を眺めて……私は彼の頭に、徐に手を伸ばす。


 そして引き寄せ……耳元で、こう囁いた。



「……お慕いしています、ロールさま」

「っ!!」


 

 ……それから、私たちは。



 一晩中、愛し合うのだった。





 数年後。

 

 ロールが管理するじゃがいも畑は年々拡大していき、やがて面積あたりの収穫量をも増大させていた。

 彼の勤勉で真摯な取り組みが、明確な数値として現れたのだろう。

 大きく沢山ついたじゃがいもを手に、村人と笑い合う彼は、とても輝いて見えた。



 ……そして。

 私にはもう一つ、玉のように輝いて見えるものがあった。


 彼との間に産まれた、一人娘だ。


 産んですぐの頃に理解したことだが、彼が元実家のことを気にしている様子だったのは、私たちの間に生まれる子どもが、領主に取られる可能性を見ていたからだった。

 放逐したとはいえ、ロールにその血は流れている。万が一兄君に子が恵まれなかった場合、無理矢理にでも彼を頼ってくる可能性が僅かながらあったのだ。


 だから、兄君に子が産まれ、その子が健康であることを知った時……ようやく彼は自分を解放したのだろう。

 ……絶対に、自分の子を取られたくなかったから。


 それに気づいた時、私は言いようもない喜びを感じた。私を、いずれ産まれる子を、大事にしようと考えてくれていたことに。

 思わず涙ながらに幼い娘を抱きしめていたのを、ロールに見つかりおろおろとさせてしまったが。

 私からはじめて腕を広げれば、目を丸くしながら寄ってくる彼。そして感謝と共にハグと口付けを送ると……彼は恥ずかしそうに、幸せそうに笑っていた。



 ……ああ。

 思えば私は、いつも彼の笑顔に崩されていた。


 初めて声を掛けられた時も。

 私の正体を知られた時も。

 二人で屋敷の外に出た時も。


 ……この村で、共に暮らすようになってからも。


 私の彼に対する恋情は、その度に深まるばかりだったな。



 この数年間、私はずっと彼の側に居た。


 大事なお顔に傷をつけた、その償いの為に、奉仕に徹しようと近づいたつもりが。

 気づけば彼に身分まで捨てさせ、隣に並び立つ夫婦となっていた。


 間には子も産まれ、これからも何不自由ない、幸せな日々が続いていくのだろう。



 そう想像して、うっかり笑みを浮かべていると。


「おかあさん、わらってる?」

「……うん、笑ってる」

「おかあさんのえがお、すき!」

「……そう?」

「うん、僕も好きだよ」


 娘に聞いたのに、割り込んできたロールが愛おしそうに笑みを向けてくる。


「っ……はい」

「照れてるのも可愛いな。ね、フーリ?」

「うん!だいすき!」

「……もう、あなたたちは」



 彼の、私に向けていた貴族的な微笑みは、いつしか。

 娘と同じ、くしゃりと皺を寄せる愛らしい笑顔へと変わっていた。


 それには疑いようもないくらい、幸せの感情が滲んでいる。




 彼をはじめに不幸にしたのは、私だ。


 ……けれど。


 そこから彼を幸せにしたのも、私。




 ……今はそう、思えるようになった。





壮大なマッチポンプのような話になってしまいましたが、こういうのもいいかなと思ってます。

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