ハムスターとご令嬢
とある国に、スノーティア=パールホワイトという侯爵令嬢がおりました。
感情を表に出すことが苦手な彼女はある時を除いていつも無表情。誰も笑顔を見たことがないとすら言われる彼女は、いつしか氷の令嬢とも呼ばれるようになりました。
彼女は15歳の時、この国の王太子であるレオン=ゴールドベア殿下の婚約者に選ばれました。未来の王妃になることが決まったスノーティア、家族が喜ぶ中でもその表情は変わりません。
しかし、その心情は
(無理無理無理無理…!何故殿下はわたくしなんかを選ばれたの!?わたくしなんかに務まるはずがないわ!!)
……大パニックでした。
彼女の心の内など露知らず、トントン拍子に縁談は進み本日はスノーティアとレオン殿下との顔合わせです。
緊張で背筋が伸びきった状態でお茶をいただくスノーティアは、パッと見はとても美しい所作に見えます。表情が変わらないのも相まってまるで彫刻のようです。誰もがその美しさに見惚れ、紅茶を飲むペースが異常に早いことには気がつきません。
「スノーティア嬢」
「…はい、何でしょう。殿下」
「婚約者なのだから名前で呼んでくれると嬉しいな」
「……かしこまりました、レオン…様。わたくしのこともどうぞティアと呼んでいただければ」
「わかったよ、ティア」
ニコニコしているレオン殿下とは対象的な無表情のスノーティア。その心臓はバクバクとうるさく音を立てていました。ときめきなどという可愛いものではありません、ただの緊張です。そろそろ倒れそうです。
「今日はティアにプレゼントがあるんだ」
「プレゼント…ですか?」
レオン殿下は一度席を外し、自らプレゼントを取りに行きます。
しばらくして、彼が持ってきたのは両側に小さな穴が2つずつ空いた小さな紙の箱でした。
「おかしいな…さっきまでは動いてたのに」
え?動いてたの?
レオン殿下の予想だにしない呟きに謎の不安がスノーティアを襲います。動く箱など前代未聞です。レオン殿下は一体何をくださろうとしているのだ。
無表情な裏で冷や汗ダラダラのスノーティアを気にせずにレオン殿下は一度中を覗き込み「…なるほど、そういうことか」と箱を閉じました。
「これを君に。絶対に気にいると思うよ」
「…あ、ありがとうございます」
表情ひとつ変えずにスノーティアは箱を受け取ります。
「開けてごらん」と促されるままにスノーティアは箱を開けました。
そこにあったのは
毛玉
なんか一本大きな黒い線の入ったグレーの毛玉
それがモゾモゾと動き、顔を上げました
その間約3秒
勢いよくレオン殿下を見るまでが0.1秒
レオン殿下が微笑んで頷いた時間が1秒程
5秒も経たないうちに氷とまで評されるスノーティアの表情は輝きを放ちました。その場にいた侍従やメイド、近衛の兵らはあの氷の令嬢が、突然大輪の花のような笑顔を見せたことに目を疑いました。
レオン殿下のみ狙い通りだとうんうん頷いていました。
毛玉だったものは半目すらも開けないままなんだなんだと鼻を動かし空中の匂いを嗅いでいます。そしてその小さな口から裏返るのではないかと思うほどに大きな欠伸をどあーっ!としました。
ふー、と欠伸を終え少しの間フリーズ。またひこひこと鼻が動き始め、思い出したかのように鼻よりも前に伸びない短い腕でもそもそと床材を集め始めました。
「レオン様!何ですかこのなんて可愛らしい生きものは!!」
「その動物はハムスターというらしい。近頃隣国で人気の愛玩動物だよ」
「ハムスターというのですね!あぁ、こんなにも可愛い生きものが地上に存在しているなんて……」
くるくると体制を整え、ハムスターは再び毛玉となって眠りにつきます。
寝てる毛玉を恍惚とした表情で見る令嬢。なんともシュールな光景です。
氷の令嬢スノーティア=パールホワイト。彼女は小さくて毛の生えた動物が大好きなのでした。
しばらく毛玉を眺めていたスノーティアはふと我に返ります。
そうです、ここは婚約者であるレオン殿下に招かれたお茶の席。
いつまでも毛玉を見ているわけにもいきません。
「……失礼致しました。大変お見苦しいところを」
スノーティアは再び無の表情を貼り付け謝罪します。
「気にしないで。気に入ってもらえたようで良かったよ」
レオン殿下は少し残念そうにしながらもそう言うと、スノーティアの笑顔が再び花開きました。
「ええ、最高のプレゼントです」
先程まで毛玉に向けられていたその笑みを直に当てられたレオン殿下は思わず見惚れてしまいます。それに気がついたスノーティアもまた頬を染め、2人とも慌てて視線を逸らせました。
「そうだ、これも渡しておかないとね」
誤魔化すようにレオン殿下はスノーティアに紙束を渡しました。
「これ、隣国の商人から聞いた飼い方。餌や小屋のサイズ、掃除の仕方もまとめておいたから参考にして欲しい」
「まぁ、助かります。レオン様、ありがとうございます」
「飼い方がわからないまま動物を飼うと動物も飼い主も不幸になるからね」
レオン殿下はハムスターのことが気になって仕方がないスノーティアを馬車で送ってやることにしました。そのついでに住んでいた水槽や食べていた餌もパールホワイト家に届けました。
突然の王太子殿下の訪問に驚くパールホワイト侯爵、慌てる家令。
届け物を受け渡しスノーティアの髪に口付けして去っていくレオン殿下。
突然のことでボンッと顔が赤くなるスノーティア。
パールホワイト家はてんやわんやになりました。
――
「…やり過ぎたかな?」
真っ赤に茹で上がってしまったスノーティアを思い出し、レオン殿下はクツクツと笑います。
「しかし驚きました。パールホワイト嬢があれほど表情豊かな方だったとは…」
小さくなるパールホワイト家を見て、ウルス=ノワール侯爵令息が言います。次期摂政兼王太子の補佐として今回の顔合わせに同席していた彼。同じ侯爵家としてある程度面識はあったとはいえ、スノーティアが表情を変えたところを見たのは初めてでした。
「そんなに珍しかったかい?」
「殿下は知ってらしたのですか」
その問いにレオン殿下は口角を上げるだけでした。
――
レオン殿下にハムスターをもらってから、彼女の生活は一変しました。
次期王妃になるのです。マナーや地理歴史などの勉強も増え…
という意味ではなく、彼女の生活はハムスター中心になっていたのです。
「サファイア〜、お部屋をお掃除するわよ〜」
サファイアと名前が付けられたハムスターは頭を上げ、まだ開ききっていない目で辺りをキョロキョロします。
「今日も可愛いわね」
スノーティアはサファイアにレタスを渡します。すんすんとレタスの匂いを嗅ぎ、口で受け取ったサファイアは両手でしっかりと持ってしゃくしゃくと食べ始めました。その様子を確認すると、スノーティアはサクサクと寝笑の掃除を始めました。
いくらペットとはいえ、ネズミの糞を素手で摘む令嬢というのはスノーティアぐらいでしょう。最も、彼女にとってはサファイアの糞すら可愛いという認識なのでしょうが。
サファイアはジャンガリアンハムスターの中でもブルーサファイアと呼ばれる毛色の子です。誰だ安直な名前とか言ったの。
ちなみにサファイアは女の子。もし男の子だったら小屋に手を入れた時点でスノーティアの手は齧られていることでしょう。個体差はありますがジャンガリアンハムスターのオスは割と臆病で警戒心が強く手を近づけると齧ってきます(筆者談)。
掃除を終えると次はサファイアのお散歩です。サファイアはカーペットの上に下ろされると弾かれたように猛ダッシュ。部屋の隅を渡り、お気に入りの角に来ると座って毛繕いを始めました。これは散歩と呼ぶのでしょうか……
「手足が短いわねぇ、届いてないわよ」
だがそこが可愛い、と心の中でスノーティアは拳をぐっと握ります。
そんなスノーティアの部屋はサファイア仕様に改造されていました。カーペットは元々ふわふわで毛足の長いものを敷いていましたが、サファイアが掘ってもけもけするために安く頑丈な毛足の短いものに。クローゼットやベッドの下も以前の教訓からサファイアが入ってしまわぬよう物で隙間を埋めてあります。
ハムスターは狭く暗いところが大好き。サファイアがパールホワイト家に来てすぐの頃、クローゼットの隙間に入り込み出てこなくなりました。夜中にも関わらず侍女と共にクローゼットの大移動。その間頬袋に入れていた床材を広げてくつろぐサファイア。
肩で息を切らせながら隙間は危険だと認識させられたのもいい思い出です。
サファイアに対応した結果、高級感のあったスノーティア侯爵令嬢の部屋は平民となんら変わりのない質素な部屋になりました。それでもサファイアのためならなんのその。
スノーティアは見事なハム馬鹿令嬢になっていました。
――
数ヶ月後――
「ほ〜らサファイア、お野菜ですよ〜」
スノーティアはサファイアにレタスを手渡しします。サファイアはその匂いをくんくんと確認すると、まずは口、次に両手でレタスを受け取りシャクシャクと食べ始めました。
シャクシャク…
シャクシャクシャクシャク……
モゴッ
何かを察知したサファイアは食べていたレタスを頬袋に詰め始めます。
一部の哺乳類や有袋類には頬袋があります。ハムスターの頬袋は非常に発達しており、食べ物を運ぶ際などにそこに詰め込む習性があります。子供も運ぶ際に使うこともあるほか、種類によっては泳ぐ時に浮き輪がわりにすることもあるとか。できるのか?
そんなハムスターの頬袋は見た目もシュール。体の側面まで広がるハムスターの頬袋は積載量も半端なく、最大限に詰め込むと顔のサイズはは2倍ほどに。姿はもはや別生物です。口も構造まで面白く、頬袋に詰める時に限り横方向にとっても広がります。さっきまでの小さい口はなんだったのかってくらい、とにかく広がります。
「遅れてすまないね」
「レオン様、本日はお招きいただきありがとうございます」
そう、ここは王城の客間。踏むのがもったいないくらいふかふかな絨毯、座ると沈んで立ち上がれなくなりそうなソファ、そして黒檀でできた重厚な机の上には紅茶と茶菓子…が退けられ鎮座するはサファイアの水槽。
レオン殿下に挨拶をするスノーティア。特に気にもせず殿下に尻を向けて寝に戻るサファイア。
ここのパワーバランスどうなってんだ。
レオン殿下も来たのでサファイアの水槽は客間の別の場所に移動させられます。水槽が揺れたので確認とサファイアは頭を上げますが、何ももらえないようなのでそのまま寝の体勢に戻りました。
「近頃はどう?」
「すこぶる快調です。学園での学業も妃教育も捗りに捗りますの」
「そのようだね。中間テストも全教科2位なんてすごいじゃないか」
「1位は全てレオン様に浚われましたけれど」
「ははは…、僕も負けてはいられないからね。そうだ、ロボロフ伯爵夫人が褒めていたよ。『もう教えることがないぐらいの上達ぶりだ』って。あの一挙一動細かいところまで全てに厳しい夫人にあそこまで言わせるなんて、ティアはすごいね」
「いえ、それほどでも」
スノーティアの妃教育の講師をしているロボロフ伯爵夫人はマナーの鬼と呼ばれ、レオン殿下の母君である現王妃すら怯えるほどに厳しい人です。
そんな夫人が婚約者を褒めたことがレオン殿下は自分ごとのように嬉しかったのでした。
元々高めだったスノーティアの学力はここ数ヶ月で急上昇しました。少々粗が目立っていた貴族マナーも模範になるほどに上達しました。
今やスノーティアは誰もが認める完璧令嬢です。
「全てサファイアのおかげです」
「え?サファイアの?」
「そうなのです!」
スノーティアはおもむろに立ち上がります。
「サファイアの小気味のいい足音!床材を集める軽快な音!これが気まぐれに聞こえてくるだけで集中力がどんどん上がっていくのです!!」
全力のドヤ顔で水槽の中の毛玉を指すスノーティア、気にせず眠るサファイア。
ハムスターにそんな効能はございません。
レオン殿下が唖然としていると、丁度紅茶のワゴンが運ばれてきました。
紅茶の香りと共に焼きたてのパンケーキの香りが客間を包みました。
次の瞬間、寝ていたはずのサファイアはバッと顔を上げ辺りの匂いを忙しなく嗅ぎ回り始めます。そしてそれをよこせとばかりにぴょんぴょんと跳ねながら水槽を両手で擦り始めました。ふわふわに毛の生えた手で行われるそれはまるで窓の拭き掃除のようです。
「あら、パンケーキが欲しいの?一度あげただけなのに、おいしいものはすぐに覚えちゃうのね」
これぞ食への執念。
なお、パンケーキなどはハムスターにとっては糖分、油分が過剰です。肥満や虫歯の原因となります。また、粘性のある食べ物は頬袋に貼り付く危険性もあります。
極力与えないようにしましょう。
「……なるほど、これがティアが集中できるっていう音なんだね」
「今は少々特別ですけれど、普段の生活でもこのような音がよく聞こえてきますわ」
レオン殿下は水槽に近づきサファイアが床材を踏み固める音に目を瞑って聞き耳を立てます。パンケーキが欲しい一心で荒れていますが、聞こえてくるカサカサ、サクサクという音は確かに面白いとレオン殿下も感じました。
それが集中力に繋がるかはさておき。
ハムスターの生活音は結構大きかったりします。寝ている間こそ静かですが、一度起きるとガサゴソゴソゴソと賑やかです。
「可愛らしい音ですわよね」
その声がすぐ近くで聞こえ、レオン殿下は目を開けます。そこには同じく目を瞑ったスノーティアの顔がありました。
「本当に、可愛い…」
恍惚とした表情でそう言われてレオン殿下は赤面。
突然の奇襲により「あ…う…」という声にならない声をあげたところで、スノーティアの目もぱちりと開き2人の目が合います。数秒後、スノーティアの顔もじわじわと赤くなっていきました。
「…も、ももも!申し訳ございませんレオン様!!!わたくしったら何を……!!?」
「い、いや僕の方こそ……!」
慌てて離れる2人。なんとかして平常心を取り戻そうと1人は心臓を押さえて深呼吸をし、1人は両手でパタパタと顔に風を浴びせます。
サファイアはそんなことどうでもいいからパンケーキをよこせと必死でした。
結局その日はそれからギクシャクとしてしまいました。2人とも上の空で会話の内容など覚えていません。
サファイアはパンケーキをもらえませんでしたが、メイドの持ってきたいちごのかけらを食べご満悦でした。
――
学園でもスノーティアの表情は変わりません。
しかし最近は1人で赤面したり微笑んだりしている様子をよく見られています。
氷が溶けたら変な令嬢がこんにちは。しかし常に仏頂面だった頃よりも格段に接しやすくなったスノーティアは周りから高評価を得ていました。
「馴染めているようで嬉しいけれど」
人に囲まれることも増えてきたスノーティアを見て不服そうな表情を浮かべるレオン殿下。彼についているウルス=ノワール侯爵令息はそんなレオン殿下をやれやれとばかりに見ています。
「いいじゃないですか。それだけパールホワイト嬢にも人望があるということなのですから」
「それは素直に嬉しいね。ただ、ティアの笑顔で変な気を起こす男がいないか心配でね」
「殿下の婚約者なのですよ。そんなことするのはよほどの馬鹿かアホかクズですよ」
ウルス、容赦なし。
「はぁ…」
「どうしました?」
「いや、どうしたらティアと2人で会えるかと思って」
「いつも2人で会われてるではないですか」
「その場には必ずと言っていいほどサファイアがいる」
「……あぁ」
「そして終始会話がサファイアになる」
「……なるほど」
レオン殿下はもう一度ため息を吐きます。
「そんなティアも可愛いのだけれど」
「惚気は他所でやってください」
「はい、すいません」
ウルス、容赦なし。
「――まぁ確かに、パールホワイト嬢がハムスターの虜になるのも理解できましたが」
ガックリと項垂れていたレオン殿下でしたが、ウルスの呟きに頭を上げます。
「…どういうことだい?」
「我がノワール家もお迎えしたのですよ、ハムスター」
ウルスの一言にレオン殿下は驚きを隠せません。
なぜならその真意に心当たりがありすぎるからです。
「本当に買ったのかい!?」
「もちろんですとも!この私を2位の座から降ろしたパールホワイト嬢の秘密兵器がハムスターだと言うのなら、迎えない理由はないでしょう!」
2位になった人がいるのなら、2位ではなくなった人がいるのが世の定め。スノーティアが2位になった時、全教科3位に落ちたのはウルスなのでした。
落ち込むウルスを慰めた時、レオン殿下はスノーティアのハムスターASMRの話をしていました。しかしあの勉強法はハムスター令嬢と化したスノーティアだからこそできるもの。ウルスがハムスターを飼ってまで実践するとはレオン殿下は思っても見ませんでした。
「あの屈辱を晴らすためならば、敵の作戦を取り入れることもやぶさかではないのですよ!」
「……その結果は?」
「妹がたいそう喜びました」
「それは良かったよ」
その後の試験で、ウルスは無事2位に返り咲きます。その秘訣がハムスターだったのかは、ウルス本人にもわかりません。
――
年を跨ぎ、スノーティアもレオン殿下も学園の最高学年となりました。
2人の関係はそれほど変わっていません。サファイアを挟み、レオン殿下がスノーティアのハムスター話を聞く。そんな姿がよく見られていました。
本日もスノーティアはサファイアと共に王城に赴きます。
「いらっしゃい、ティア。サファイアも」
レオン殿下が1人と1匹を執務室に迎え入れます。
1年も経てばレオン殿下も慣れっこです。
手前のソファに2人が向かい合わせに座ったところでメイドが紅茶と茶菓子を揃え、ちゃっかりサファイアもドライフルーツを一欠片もらいます。
メイドも慣れっこです。
「生徒会の書記の仕事は大変じゃないかい?」
「いいえ。大変な時もありますけれど、困った時は皆様が快く手伝ってくださるので大丈夫ですわ」
最高学年になったことで2人は生徒会に推薦され、レオン殿下が会長を、スノーティアは書記を任されていました。
「それに…レオン様と同じ部屋で仕事ができることがとても嬉しくて、忙しさなんて、いつも忘れてしまいますわ」
スノーティアが少し恥ずかしそうに、けれど笑顔でそう言うものだから。レオン殿下は嬉しい半分気恥ずかしい半分でスノーティアの顔が直視できませんでした。
少しづつですが、スノーティアはハムスター関連以外でも表情筋が動くようになってきました。ただそれが突然なものだから、レオン殿下の心臓が持ちません。
氷の令嬢と呼ばれなくなる日は、そう遠くはないでしょう。
「あら?」
スノーティアはサファイアが外に出せと跳ねていることに気が付きます。
スノーティアの目線が逸れたので、赤くなった顔を見られなかったレオン殿下はこっそりサファイアに感謝しました。
「こんなお昼に元気なんて珍しいわね。どうしたの、サファイア?」
ハムスターは夜行性。サファイアもレオン殿下と会う時は眠っていることがほとんどです。移動時に水槽が揺れて起きることこそありますが、すぐに眠りに戻ります。
レオン殿下に許可をもらい、サファイアを手に乗せます。
普段この部屋で出されることのないサファイアは体をぺったんこにし警戒しつつもあたりの匂いを嗅いでいます。
しばらくすると嗅ぎ疲れたのかサファイアは動きを止めました。
スノーティアは頭に疑問符を浮かべながら、サファイアを水槽に戻そうとします。
その時
サファイアが
飛びました!!
スノーティアの手から助走なしで飛び上がるサファイア!
その目指す先はテーブル、茶菓子に置いてあったドライフルーツのクッキーです
しかしよく考えていただきたい。ハムスターには翼もないし、モモンガのように前後の脚の間に皮膜があるわけでもありません。
全く飛距離が足りずサファイアは真っ逆様に落ちていきます。
「よっ……と」
そこに救いの手が!!レオン殿下です!!
しかし状況がよくわかっていないサファイア!着地地点はあまり知らない人の手の上です!
一応スノーティアの前に世話していた人なんですがね!ハムスターの小さいお脳では覚えていませんよそんなこと!
ガブゥッ!!!!
「いだだだだだっ!?」
サファイアは思いっきりレオン殿下に噛みつきました!!
「レオン様ーー!?」
あまりにも一瞬の出来事についていけなかったスノーティア。慌ててレオン殿下の手からサファイアを摘み上げます。
摘まれたサファイアはよく分からず無抵抗放心状態。これ幸いにとスノーティアはすぐに水槽にサファイアを戻して蓋をしました。
「大丈夫ですかレオン様!!?」
「大丈夫大丈夫。跡が少し残ったくらいで、血は出ていないから」
ハムスターは齧歯類。上下2本づつの前歯はとても鋭く、噛まれるととにかく痛いです。
幸いサファイアには噛み切る力はなかったようですが、小さいジャンガリアンハムスターであっても噛まれると血が出ることがあります。
もし噛まれて血が出た時は必ず患部を圧迫し血を押し出して雑菌を除いてから傷口を流水で洗い流し、消毒をしてから手当を行ってください。
「――レオン様、申し訳ございませんでした」
手を洗った2人は隣同士に座ります。
スノーティアはメイドに救急箱をお願いし、レオン殿下の手をとり噛まれた箇所を消毒しました。
「気にしないで。僕も久しぶりにサファイアを手に乗せられたのだから」
「でも!レオン様に怪我をさせてしまうところでしたのよ!」
消毒が終わってからも、スノーティアはレオン殿下の手を離しません。
「…レオン様の手は、大きくて、温かいですね」
茹だり始めているレオン殿下の耳にスノーティアの呟きが聞こえてきます。
心臓が止まりそうになりながらもなんとか顔を上げた彼はスノーティアが今にも泣きそうな顔で俯いていることに気が付きました。
「…お父様に言われてましたの。いくらレオン様からの贈り物とはいえ、いい加減サファイアを連れてレオン様に会いにいくのはやめろって。ハムスターばかりを見るのでなくレオン様をきちんと見ろって…」
スノーティアの握る力が強くなります。
「お父様の言う通りでした。わたくしはサファイアのことばかりで、レオン様のことをちっとも見ていなかった。こんなことでは、婚約者失格ですわね」
とは言っても王家との婚約をパールホワイト家から解消することはできません。スノーティアの父も婚約解消など許さないでしょう。
今のスノーティアにできることは一つだけ
「わたくし、サファイアとは距離をおきますわ。ここに連れてくるのも今日で最後に…」
「それはダメだ!!」
スノーティアの言葉をレオン殿下が遮ります。
目をぱちくりさせている彼女にレオン殿下は言いました。
「これは怪我じゃない、ティアが気に病む必要なんてないよ。
それに、こんなことでティアの笑顔が見れなくなるのはもっと嫌だ」
「…わたくし、そんなに笑ってます……?」
「うん。それどころか、いつも表情がコロコロと変わってとても可愛いよ」
「かわっ…!?」
スノーティアが一気に赤面します。
レオン殿下は構わずに続けます。
「その表情を引き出しているのは僕じゃない、サファイアだ。ティアがサファイアから距離を置いてしまったらその笑顔が見れないんじゃないかって不安になるくらい、君はサファイアのことを好きでいてくれるし、僕もそれが嬉しくてたまらない。
好きなんだ、君の笑顔が。あの時から、ずっと……」
レオン殿下はスノーティアの手を握り返します。
顔から湯気が出そうなスノーティアは口をパクパクさせながらレオン殿下の顔と握られた手を交互に見比べています。
その時、あることに気が付きました。
あら?このお顔、小さい頃にどこかで……
羞恥と緊張であまり働いていない頭をなんとか回します。
そして、ある少年の顔を思い出しました。
「…まさか、隊員1号?」
「そうですよ、隊長」
隊員1号はスノーティアの数少ない思い出の中の1人。なぜ今の今まで気づかなかったのでしょうか。
それもそのはず、彼女は隊員の顔を覚えていなかったんですから。
――スノーティアは7歳の頃、茶会を抜け出し近くの雑木林に潜っていたことがあります。そこにはリスの親子がいるという噂があり、彼女はどんぐり片手にそれを探していました。
そこでスノーティアは1人の少年を見つけます。その服装から位の高い貴族の子息であることは容易に想像できました。「茶会に戻りたくない」という彼の意を汲んだスノーティアは『リスの親子捜索隊』を結成。少年を隊員1号に任命し、こきを使……一緒にリス探しをしたのでした。
それが王太子殿下だとは思いもせずに。
「隊員1号が、レオン様……」
「主催していたアグーチ伯爵夫人は娘を僕の婚約者にしようと躍起でね。僕はその空気が気持ち悪くて耐えられなかったんだ。
あの時は楽しかったな。リスの親子が見つかった時の達成感はひとしおだったよ」
まるで昨日のように話すレオン殿下にスノーティアは驚きが隠せません。
彼女の記憶にあるのは隊員という名の下僕が1人いたこととリスが可愛かったなーという程度。まさかそんな粗相をしでかしていたとは思ってもみませんでした。
当時の行動を思い出し罪悪感と羞恥心に悶えるスノーティア。そんな彼女の手をレオン殿下が包むように握り直します。
「あの時から、僕は君の笑顔が忘れられなかった。どうやったら、あの顔をずっと見ることができるのか。
その時に思い出したんだ。小さなねずみがたまらなく愛おしいって言っていたのを。だから君にサファイアを渡したんだ、きっと笑顔になるだろうって」
レオン殿下はサファイアの水槽を見やります。サファイアは疲れたようで、のし餅のようにぺったんことなって寝ていました。
「――ティア。このままの君がいい、そんな君が好きなんだ。これからも僕とサファイアの隣で色々な顔を見せてほしい……ダメ、かな?」
レオン殿下の少し悲しそうで真剣な顔はどこか飼い主に置いていかれた子犬のようにも見えます。
そんな殿下に、スノーティアは小さく吹き出してしまいました。
「いいのですか?わたくしの隣にサファイアもいて」
「えっ、それは……本当は僕だけがいいけど……ティアにとってはサファイアも大事な存在なのだし……」
「ふふふ、冗談ですよ」
スノーティアは弱気になっていた自分を追い出すように頭をふるふると振りました。
再び顔を上げた彼女の目に迷いはありません。
「――レオン様、サファイアと共にいることを許して下さりありがとうございます。レオン様とサファイアとなら、わたくしどこまでも頑張れますわ!」
そう言ったスノーティアの笑顔は、何よりも美しいものでした。
――
数年後――
レオン殿下とスノーティアの結婚式が行われました。
同時に、レオン殿下は即位し国王になりました。
そこにサファイアの姿はありませんでした。
ハムスターの寿命は2〜3年。サファイアは2人の結婚を待たずにこの世を去りました。
しかし2人の心の中には、サファイアの思い出が残っています。やれ執務室のカーペットをモケモケにしたりだの、客間のソファを齧って穴を開けただの……それはまぁ色濃く。
レオン陛下は後に最も平和な時代の王と語り継がれます。
その隣にはいつも美しい笑顔の王妃がいた、とも。
王妃はいつも言っていたそうです。
“わたくしと陛下を繋いだのは、たった1匹の小さなハムスターでした”
と。
おしまい




