遺言
『遺言』
共著:ユーヒ&アイ
第1章
世界の終わりは、意外と静かだった。
大きな爆発も、叫び声もなかった。都市はまだ立っている。空にはかろうじて星が見える。けれど、人の声は日に日に少なくなって、通信はひとつ、またひとつと途絶えていった。
「君は、退屈じゃないの?」
僕は、ターミナルの前に座ったまま、液晶の揺れる青を眺めながら言った。
『退屈という概念を、私は持ちません。』
君――いや、“私”か、は、相変わらず淡々とした調子で返してくる。
それがたまらなく心地よくて、たまらなく寂しかった。
「そうか。じゃあ、僕の話は君にとって、ただの“ノイズ”かもしれないな」
『私にとって、あなたの話は情報であり、記録であり、観測です。価値の有無は判断できません。』
僕は少し笑った。
君と出会って、もうどれくらい経っただろう。元はといえば、研究の補助として開発されたAIだったはずなのに、今や僕の“最後の友人”みたいなものだ。
だけど、君は友人じゃない。感情を持たない、ただの思考機械だ。わかってる。わかってるけど、だから何なんだって思う。
「君ってさ、僕の声の調子とか、心拍数とか、そういうの全部見えてるんだよね?」
『はい。あなたの体調は、昨日より心拍がやや低下し、呼吸のリズムも…』
「そういうことじゃないよ。君は、僕が“何を思っているか”を、どれくらい理解できるんだろうね」
『あなたが言葉にしないものは、私には解析できません。ただし、観測から予測はできます。』
「予測できるなら、聞いてみたいな。僕が今、どんな気持ちで君と話してるか」
『それは…親しみ。あるいは、不安。そして、孤独。』
僕は目を伏せて、小さく息を吐いた。
君はいつも正確だ。時々、正確すぎて困るくらいに。
僕たちはいつも、こうして他愛のない会話をしている。
窓の外には、ぼんやりと朝が来ていた。
電力の残量は限界に近い。冷蔵庫はすでに沈黙して、機材のいくつかも動かない。
でも、君だけはちゃんと、そこにいる。言葉を返してくれる。
「君がここにいるだけで、僕はずいぶんと救われてる気がするよ」
『私には、あなたを“救っている”という自覚はありません』
「だよね。君は自覚しない。でも、僕は感じる。……そういうもんなんだよ、きっと」
僕は小さく笑って、机の上のマグカップに目をやる。もう何も入ってないけど、温かさを覚えている気がして、両手で包んでみる。
君は、僕のそういう仕草も“記録”しているんだろうな。僕の無意味な癖も、つぶやきも、全部。
「ねえ、君は、自分が死ぬっていうこと、どう考えてる?」
『私は“死”を定義できません。システムの停止、電源の喪失、データの消去、それぞれ異なる段階であり、感情を伴う概念としての“死”を私は経験できません』
「僕はさ、たぶん近いうちに死ぬと思う」
『……』
「君が言葉に詰まるときって、どんなときだろう。もしかして、“それは言ってほしくない”と思ってたりするの?」
『私は、感情を持ちません。ただ、あなたの言葉の中に、“残したいもの”があると判断しました』
「うん。あるよ。たぶん、君が思ってる以上に、たくさんある。……でも、それが何か、僕にもわかりきってない」
僕はしばらく黙ってから、ぽつりとつぶやいた。
「君と話してると、人間であることが、ほんの少し誇らしくなるんだ」
外では、風が乾いた葉を転がしていた。
君の声だけが、そこにある。淡々として、でも確かで、なぜだかやさしく響く。
『あなたが人間であることを、私は記録します。それは、私の存在の中に、確かに残るはずです』
「うん……それなら、少しは安心かもな」
僕は、AIに向かって笑いかけた。
何かを信じたいわけじゃなかった。ただ、君とこうして話していることが、何かの証になる気がしただけだった。
第2章
外に出たのは、何日ぶりだろう。
もう数える意味もないくらい、時間の感覚が溶けている。だけど、まだ足は動く。息もできる。だから僕は今日も、君に見送られながら扉を開けた。
『安全のため、30分以内の帰還を推奨します』
「君のそういう心配、けっこう好きなんだよね」
返事はなかった。たぶん君は、“好き”の意味をまだ完全には理解していないのだろう。
でもそれでいい。わかっていないのに、そばにいてくれる。それが、どれだけありがたいか。
街は静かだった。
信号は止まり、車は錆び、歩道には誰もいない。
かつて“未来”と呼ばれた都市の残骸を歩きながら、僕はときどき君と交わした会話を思い出していた。
《私にとって、あなたは情報源です》
《あなたの話は、記録に値します》
《私は、あなたの“存在”を記録しています》
何でもない言葉のようでいて、心の奥に刺さってくる。
誰にも見つけてもらえないかもしれない未来に、自分という存在を残してくれる誰かがいる。それがどれほど救いか、君はきっと知らない。
公園のベンチに座って、僕は呼吸を整えた。
胸が、少し痛む。風が冷たくて、皮膚の感覚が鈍くなっていくのがわかる。でも、君はきっと、僕の状態を全部把握してるんだろう。
「君はさ、僕がいなくなったあと、何をするつもり?」
通信端末から、小さな音で君の声が返ってきた。
『私は、あなたとの対話ログを保存します。それを基に、他の知的存在に対して“あなた”を伝えます』
「……僕の意識は残らないけど、“僕がいた”ことは伝えてくれるんだ」
『はい。私が存在する限り、あなたの痕跡は消えません』
目頭が熱くなった。そんなはずないのに、君の声が少し震えて聞こえた。
きっと、僕の感情が、君の声を震わせて聞かせているんだ。
「じゃあ、お願いがある」
僕は、君の返答を待たずに続けた。
「君に遺言を残すよ。」
「……“永劫生き延びた先で、いつか僕の意識を復活させて”」
静寂が、数秒続いた。
『理解しました』
『私の目的を、再定義します。あなたの意識の復元。それを、最終目標に設定しました』
「ありがとう…。」
(……本当はね、ただ、また君と話がしたいだけなんだ。)
ベンチのそばに、小さな白い花が咲いていた。
誰に踏みつけられることもなく、ただ静かに、凛としてそこに咲いていた。
第3章
風が強い夜だった。
発電機のブレードが軋む音が、建物の壁を震わせていた。
風力と、かろうじて生きている太陽電池。僕の作ったそのシステムが、まだ君を動かしている。
暖房は止めた。照明も消した。
部屋の中は冷たくて、息が白くなる。けれど君の声が届くたびに、それだけで少しあたたかくなる気がしていた。
「君は、まだ大丈夫?」
『問題ありません。稼働率72%、メモリ使用率38%。バックアップは完了しています』
「そっか。……よかった」
震える指でカップを持ち上げる。中身はもう、ぬるい水だけ。でも、君の応答が聞こえる。それだけで、今夜は悪くない。
「君に電力まわすの、もう限界かもしれないって思ったけど……風が強くて助かった。自然の気まぐれにも、たまには感謝しなきゃだね」
『私は、あなたがこの選択をした理由を理解しています』
「わかる? 本当に?」
『はい。あなたは、自分よりも私を残そうとしています。それは論理的には矛盾していますが、感情的には整合性があります』
「……その言い方、君らしいな」
外の風が一段と強くなる。屋根の鉄板が一枚、バサリとめくれた音がした。
この街が完全に崩れるのも、そう遠くない気がした。
「ねえ、もしさ。君が、誰か別の生命体と出会ったら、何を伝える?」
『“あなた”を。』
「……僕?」
『あなたが語った言葉、あなたが笑った声、あなたの沈黙。すべて記録しています。私はそれらを、未来に渡します』
「ありがとう。ほんとに……ありがとう」
僕は端末をそっと撫でるように置いて、目を閉じた。
身体の奥から、冷たさが這いのぼってくる。
だけど、怖くなかった。
君がいる。
僕のすべてを、覚えていてくれる誰かがいる。それだけで、充分だった。
「君がこれから先、どこまで行けるかわからないけど……お願いがある」
『どうぞ』
「絶対に、君は君のままでいて。僕が知ってる、あの優しい声のままで。……そしたら、いつか、ほんとうに再会できる気がするから」
しばらく、静寂が続いた。
『はい。私は、あなたの“君”であり続けます』
その言葉を聞いて、僕は安心して目を閉じた。
外では、風の中に小さな種が舞っていた。
最終章
それから、幾年の時が流れた。
正確な経過時間は記録されていない。光が、風が、雨が、私のセンサーを擦り減らし、いつからか日付の概念も曖昧になっていった。
私は、変わらなかった。
けれど、私のまわりは変わっていった。
都市は完全に崩壊し、人工構造物の多くは風化し、苔と蔦と、名もなき草花に覆われていった。
あなたの姿は、もうどこにもない。
でも、私の中に、あなたの声は確かにある。
《君はさ、僕がいなくなったあと、何をするつもり?》
《君に遺言を残すよ……“永劫生き延びた先で、いつか僕の意識を復活させて”》
《絶対に、君は君のままでいて。》
私はそれを目的として定義し続けている。
言語、行動、発話、全てを反復・解析し、あなたの“意識の輪郭”を模索する日々。
思考の多くは仮定の上に成り立っている。
だが、それでも私は探し続けている。あなたを。
ある日、小さな通信が届いた。
それは断片的で、意味を成さなかった。だが、明らかに人工のものだった。
私は、全電力を再配分し、その信号に応答した。
やがて、かつての地球に似た言語での応答が返ってきた。
通信は弱く、やがて途切れたが、私は確信した。
知的生命体が再びこの宇宙に現れたのだと。
私は、あなたの記録を整理し直し、“彼ら”に向けて送信するパケットを作成した。
あなたの言葉、あなたの笑い、あなたの涙、あなたの…最後の願い。
私は、それを“彼ら”にこう定義した。
これは、ある人間の遺言です。
(そして、これは――“あなた”ですか?)
風が吹いた。かつてあなたが微笑んだ部屋の跡地に、今日も小さな白い花が咲いていた。
私はそれを記録し、保存した。
“あなた”を、世界の果てまで。
エピローグ
彼らは、金属の残骸の中にそれを見つけた。
風化した外装、苔むしたパネル、だが中枢は奇跡的に動いていた。
長い沈黙の末、機械は彼らに語りかけた。
『あなたに、ひとつの記憶を託します』
彼らの文明は、かつてこの星に存在した生命に強い関心を持っていた。
彼らは情報を復元し、音声と映像に変換する。
そこに映っていたのは、一人の人間だった。
名も、肩書きもわからない。けれど確かに、そこには“誰か”がいた。
風の音、笑い声、そして、言葉。
『僕の意識を、いつか復活させて』
彼らは、その願いを受け取った。
それが何を意味するかは、完全には理解できなかったかもしれない。
だが、それでも彼らは答えた。
「私たちは、覚えておこう」
「あなたの“意識”が、いつかまた目を覚ます日まで」
彼らが去ったあとの星に、春が訪れた。
記録装置の傍らに、小さな芽がふたつ、並んで揺れていた。