伊藤多助【肆】
二年前。ちょうど息も白くなった頃。高熱を出して仕事を休んだ。そんなことを未だに覚えているくらいには勤務態度の良い伊藤は、胸中に靄がかかる。ブラックコーヒーのように黒く渦巻いたものだ。
「どこまでもつまらない日常を重んじる伊藤様のために知恵をお貸ししましょうか」
「……はぁ」
小刻みに煽ってくる狸に苛立ちもせず、無気力に耳を傾ける。
「勝てばいいんですよ。願いが叶うのですから、勝利後にいくらでも空白の一週間を埋める手段はあります故」
「まあ……確かに」
それこそ安易に大金を望めば仕事などもはや行く必要がないだろう。
「まあ、個人プレイで誰かが勝手に標的を殺せばチームで勝利ですし、逆に護衛がなにもしなくても一週間標的が死ななければ、それもまたチームでの勝利です」
話を聞いていると、自分は護衛サイドで良かったと伊藤は思う。
そもそもまともな神経をしていたら人なんか殺せないわけで、護衛は有利な立場にある役職だと確信していた。
そんな心情を見透かしたように、狸は歯をみせ唇の両端を静かに吊りあげる。
「さて、ゲーム開始前にこれをどうぞ」
狸の太い腕が伸び、伊藤の眼前で開かれた手には何も見えなかった。
「……なにも、ないですよ?」
「よく見てください」
あ……。と思わず声を漏らして、それを受け取った。他人の手から受けとりたくない物だったが、今さらそんな道理も情理も欠如していた。
「これは……コンタクトですか?」
「左様でございますが、勿論ただのコンタクトではありませんよ。とりあえず入れてみてください」
「はぁ……」
そんな、お気に入りの紅茶を勧める程度のノリで言わないでほしい。そうは思いながらも逆らって良いことなど一つもないと理解しているので、黙ってコンタクトを入れ込む。
「ほほっ、お似合いですよ」
狸は固定された表情で、甘言を吐いた。だが「コンタクトに似合うも何もないでしょう」と伊藤は苦い毒を返した。
「これには何か意味が?」
「はい、テンプレートな質問ありがとうございます。悪く言えばありきたり、良く言えば期待通りでございます。そして驚きの返答ですが、なんとですね……それをつけている間は、あなたにとある能力が芽生えるのです」
畳を指さして、狸は訊ねる。
「どう見えますか?」
「どうって……畳ですよね?」
はい。と狸は短く頷いた。伊藤は、もう一度、目を凝らす。
「少し……光ってる?」
「ザッツグレイトにございます」
畳全体が、淡い光を帯びていた。
優しく拍手をはじめた狸を制して、その先の説明を欲する。「これは失礼しました」と狸はひとつ咳払い。
「貴方の能力は緑色を偽物に変えることができる。という代物でございます」
「よく意味がわからないですね……」
率直に返す。そんなことができる実感も特にないため、伊藤は無意味にもしかめっ面で畳を眺めることしかできなかった。
「猿にもわかるように言えば、畳など緑の性質をもったものに能力を行使できるのでございます。貴方の場合は、それが偽物なのです」
「まだピンとこないですね……正直。すみません猿以下で……」
「ほほ、最初から猿以下だと思ってるので大丈夫でございますよ。では、畳を凝視しながら私の姿を強く念じてみてください」
伊藤は言われた通りに狸の姿を思い描く。畳にイメージした狸の姿を重ねていくと、畳から溢れる緑色の光がより一層の輝きを放つ。
秋色枯れた空のもと、陽光は焦げ、月影さしこむ屋形船の一室に、中年と狸と。
「もひとつ狸、でございます」
畳の一部分が狸となって現れそう言った。それは偽物の狸。しかし、見た目での区別はまずつかない。それほど精巧な出来。
「ちゃんと喋りましたし、声色もズレがほぼないですね。素晴らしい想像力でございます」
「あなたが本物でしたっけ?」
「ご冗談を」
畳の上に立っている偽物は「ほほっ」と小さく笑いながら、本物の狸に並ぶ。
「今私は自分の意思で動いていますが、偽物であれば伊藤様の好きに操作が可能です。まあ、元々動く機能を持ち合わせたものに限定されますが」
偽物は操作が可能かどうかで判別するしかない。そう思えるほどに本物に対して機微すら伺えない。
「見分け方は一応他にもありますよ」
見透かしたように狸は言ってから、ひとつ深呼吸をした後、偽物と同時にいつの間にやら手に持った縄跳びで二重跳びをはじめた。
足音がやかましい上に見苦しい。この異質な空気感に耐えること数十秒。
本物と偽物の狸は同時に縄に引っ掛かり、空中で前転を三回ほどして背中から畳に、勢いよく叩きつけられた。
(いや、ほんとに何してるんだこの狸は)