伊藤多助【弐】
「はぁい、じゃあ逃げれないこともわかってもらえたと思うので、鉄屑、ご開帳〜」
カステラの敷紙を剥がすかのように、狸は車の扉を容易く剥がしとる。
バカげた怪力と、獣のくせにやたら歯並びのいい笑顔を見せつけられ、伊藤の中で「抵抗」の二文字は膝を抱えて座り込んだ。
「では行きましょう。伊藤多助さん」
当然のように名前も知られている。だがこれは今さら驚く要素でもない。
力なく車から出てきた伊藤の足はふらりと頼りない。
「はいはい、はい、ははい! 急いでくださいねぇ! あなた運転が遅くて遅くてもう間に合わないかと思いましたよ」
見かねた狸が煽り散らかし手を叩きながら、上体をぐいっと降ろして伊藤の顔を覗き込む。いざ立ち並ぶと、まるで子供と大人の体格差である。
急ぐも何も、何処へ? と青ざめた顔の奥、まだなんとか働いている脳がそんな疑問を出したと同時に、伊藤の視界は真っ白になった。
「ぅ――あぁ――」
正体は凄まじい光量のフラッシュ。けたたましい汽笛もまた伊藤の声掻き消すほどに場を蹂躙していた。続いて突風も巻きおこると、狸は伊藤の腕を掴んで静かに佇んでいた。伊藤のネクタイが宙を舞う。
やがて風はやみ、光にも目が慣れた伊藤は、薄目にその全貌を知る。
「これは……船……?」
雲煙を喰らう巨大な船が、眩さを、喧しさを、怪しげな煙霧を漏らして、浮遊している。
その光景に伊藤は、とりあえず頬をつねってから、缶コーヒー飲むのはまだ先になりそうだな。と、そんなことしか考えられなかった。
山の中腹から覗かせる木造の船はその先端しか見えていない。全貌を拝みたければ百舌鳥にでもなって空から見下ろすしかないだろう。
和で彩られた赤い船からは、小さく笛の音が溢れている。
「こちらは神照の屋形船。一般的に人の目にはとまらない代物でございます」
狸が言った。が、伊藤の耳には入っていない。
ただ、その神々しい見てくれに、屋形船の回廊に吊るされた提灯を灯す、不思議な焔に、魅せられていた。
「……ま、あまり時間もないので、とりあえず」
狸は伊藤の股下に太い手を通す。もう片方の手で背中を掴み持ち上げた。そして、眼前の巨大な屋形船に向かって駆け出した。
「ちょ、えぇっ!?」
我に返った伊藤は、慌てたままに狸の腕を数回タップしてみるが、言うまでもなく止まらない。
「ご安心を、マグロ釣りとかさせるわけじゃないので非力な伊藤さんでもなんとかなりますよ。えぇ、多分。……とにかく力は必要ないんですよ、ほほっ!」
恐怖の露を払いたかったのか、しかし、狸の言葉に伊藤の胸が撫で下ろされることはない。
ことごとく、これでもかと恐怖を上塗りしてくるこの異形は天然なのか、やはり化物に人間の気持ちなどわからないのか。
されるがままに、気づけば山から船に乗りこむための階段を駆け上がっていた。
到着してしまった。紅葉も枯れる季節の最中、冷や汗が滲む。
狸の太い手から逃れ、屋形船の回廊に伊藤は居た。
うっすらと聞こえていた笛の音の音が今ははっきりと聴こえる。笛の奏でる旋律が、太鼓の放つ振動が、仄かに踊る人影が、淡く導く松明が、欲のぬめりの染着が、破顔一笑の狸が、日常を、常識を、侵食してくる。
ざわめきどよめき、享楽漏れて、愉悦に溺れる人の性すら心音をこうも震わせるのか。
「あなたが最後なので、ささっと説明さしあげます。心して聞いてください」
真っ当じゃない。そんな一言に駆られている合間にも、狸は勝手な進行をやめない。
誰も触れていない襖が、勢いよく開く。畳の匂いが運ばれてきた。
「あ、あの……」
何から言えばいいかわからない伊藤は、とりあえず口を開くも、狸は聞かず。畳の部屋で何かを用意していた。
そして、すぐに振り返る。
「着物と背広どちらにします?」
「……はい?」
ですから、と狸は右手の背広と左手の着物を交互に上げ下げしてみせる。
「色、気に入りません?」
そうじゃなくてと言いよどむ。
「じゃあ、スーツで」
いよいよもって慣れてきてしまった。吹っ切れたとも言うが、こうも狸のマイペースが急ぎ足でやってくると、嫌でも適応してしまう。たくさんある「飲み込まなきゃいけないこと」を、一旦すべて吐き出さないと地団太ひとつ踏めやしない。
三十年以上、生きてきた。嫁もいない子供もいない、仕事終わりの缶コーヒーが楽しみな、つまらない人生を長く味わった。
狸とじゃれるもまた一興。夢ならそれで、現実ならそれで、とりあえず少しでも、色のない人生に絵の具を垂らそうと、伊藤は悟ったように笑った。
狸は死んだ。