伊藤多助【壱】
蛇の体躯を指先で雑になぞったような、そんな山道を一点の灯りが進んでいく。夜の帳から俯瞰すると、ゆったり進んでいるように見えるその灯りは、実のところそれなりの速度で走っていた。
空寂。そこには四輪車の駆動する音だけが存在した。運転手の男、伊藤多助は深夜だと言うのに眠気のひとつも帯びることなく、緊張のあまり鳴らしてしまいそうな喉をぐっと堪えている。
「そろそろですなあ」
客の声に反応して、伊藤の肩が僅かに揺れる。
ミラー越しにしか見えないが、客の見てくれはどうにも面妖であった。
言葉を選ばずに言うと、どえらく不気味でおぞましい。あとキモい。
どういうわけか狸の面をしているし、恰幅も身体に悪そうなくらいには良い。
ドライバー歴十余年。伊藤の人生で変わった奴はそれなりに存在してきたが、今回に関しては断然トップに異常である。
「あ、あのう……本当にこの先に港があるんですか……?」
「ありますとも」
目的地は腹真港と呼ばれる港らしいが、辺りに海はない。加えて今は山道を上っている。しかし、カーナビはしっかりと目的地を捉えていた。
伊藤は今、茂みに揺らめく何かの蠢きが鼓膜のすぐそこで感じられるほどに、恐怖が寄り添っているのを感じていた。こういう時、五感は異常に過敏なものとなる。
「……この辺りですかね?」
「ええ、ええ。ここで大丈夫です」
『目的ぢにどう着しましだ』
同時にカーナビが告げる機械音声は、ノイズが目立った。
怪訝な面でカーナビを見つめながら停車すると、横目からぬっと拳が伸びてきた。
何事かと一瞬びくついたが、拳が開くと、くしゃりとひしゃげた札が一枚。
「釣りはいらんですからね。ほいじゃほいじゃ」
伊藤が金を受け取ると、客の男は後部座席を揺らしながら降りていった。
妙な客であったが、羽振りはいいらしい。
(お、万札……その太っ腹は見せかけじゃなかったんですね〜)
紙切れに染み出た偉人の顔を見つめると、徒労が報われた気がした。伊藤は、今日はもう切り上げて缶コーヒーでもキメようと、カーナビに触れる。 だがそこで問題は起きた。
札を掴んでいた手から、何かが割れる音がした。
「……なんだ?」
それは枯れ葉であった。
瞬き二回挟んでから、伊藤は素早く視線を落とす。ペダルはあるが万札がない。
思考にブレーキがかかる。
「いやはや、枯れ葉はすぐ割れるので、変化には向きませんなあ。とほほ」
真横からそんな声がした。聞き覚えのある低い声に、混濁した感情が汗となって全身を伝う。
窓からの景色を埋め尽くす巨大な顔が、やはり狸のそれであり、人より遥かに丸い瞳が伊藤を見つめていた。
人間、本当のパニックに陥ると声が出ないと言うが、伊藤はそれを体現するように、喉の使い方も忘れたまま動けずにいた。
「あの〜、とりあえず開けてもらっていいですかね? ちょっとした悪戯でそこまで怒らなくてもいいじゃないですか? まあ、どっちみち人の使う紙幣なんて持ってないんですけどねぇ」
そいつはやっぱり狸だった。筆ののらない筆者が二秒で考えたような、児戯に等しき感想である。
伊藤の手汗に溺れまいと、枯れ葉は月夜に風化した。
「あの〜、もしもし? ネクタイが堅苦しくて喉しまっちゃいました? 変えます? 蝶々結びとかに」
七百二十度くらいズレた狸の憂慮に、少しだけ冷静になってきた伊藤は、ネクタイを軽く緩めてから狸に向きなおる。
紛れもなく狸。ただ野生の狸とは違う、お土産屋さんとかにある置物の狸がそのまま動き出したような風体をしているのだ。
「あの……あなたは僕をどうしたいのですか?」
ただ茶化しているだけならば話は早い。お代はもういいから逃げ帰らせてくれまいか。というのが伊藤の思うところだが、狸の回答はそう都合のいいものではない。
「うーむ、なんと言いますか、強制的に見世物にしたいとは考えていますが、黙って首を縦に振ってくれますかね?」
伊藤は首を横に振った。同時にアクセルを踏む。だがどういうわけか動かない。
「それもう壊れてるんで、逃げたいなら徒歩ですなぁ。それなりにまあ大変ですよ?」
そんなことは言われなくともわかっている。などと思う暇も惜しんでアクセルを踏み続けるも、相棒は静止を貫いている。