ビューティフル・ワールド
独り身の中年男が、奇妙な精神病にかかった。或る日を境に、誰の顔を見ても、幼い頃に好きだった、あの娘の顔に見える様になってしまった。何度席替えしても遠い席にしかなれなかった、可愛らしく、いつも優しい表情を浮かべたあの娘。
困った事には、鏡の中の自分さえもその娘の顔に見える。鏡にいつも映るその顔が、俺はこの世で一番嫌いで、憎んでいた顔の筈なのに。あの、過酷なこの世の内で最も嫌いになれる事から離れた優し気な顔で、鏡像は見返してくる。
「俺はとうとう頭がいかれたらしい」。数週間ぶりに顔を合わせた、同居の老いた両親の顔も、あの娘の微笑を浮かべている。「…病院連れて行こうか?」この引き籠もり息子が自分の方から親に声を掛けるのは何十年ぶりか分からないのだから、常識から考えて、驚いた表情である筈なのだ。それなのに…一番優しくて胸を打つ、思い出の中のあの子の微笑だった。俺は、俺の見たい顔しか見ていない。見たい顔しか見れなくなった。直視できないものが多過ぎて。
そうだ、俺はあんまりにも自分の人生を駄目にした自責に耐え兼ねて、世界の実像をシャットアウトしてしまったのだ。この世で唯一見るに堪えるあの美しい顔で、世界の棘を覆ってしまったのだ。…これからかかる精神科医は、そいつになんという病名を付けるのだろうな?きっとその医者もまた、あの娘の顔でその病名を告げる事だろう。この世で一番優しい顔で。それが今の俺に見える世界の全てだ。
冒頭は三人称視点で始められているのに、後半は一人称型に変わっているという、初歩的なミスを犯している事に後から気付く。自分の文筆の上での欠陥が強く出ていると思われるので現状そのまま残しておくが、題材に多少の思い入れもあり、喜ばしい好意的な感想もある為、いずれ修正・清書版も別途追加したい気持ちではある。(最後に「と、中年男は思った。」と書き加える即席の修正もあり得るのかも知れない。が、それではこの場合申し訳程度の体裁を整えるというつまらない効果しか期待できないだろう。)