雨の季節
田舎者の僕は、大学に進学し、祖父や両親の指示に従い、東京での学生生活を調布と本郷の親戚で過ごした。調布は父の1番目の妹の嫁ぎ先で、本郷は父の2番目の妹の嫁ぎ先で、両家とも東京の大学で勉学する僕を、とても大切にしてくれた。僕が調布の叔母の家で過ごしたのは杉並にある大学の教養学部キャンパスに通った2年間で、大学3年生になって、僕は本郷の叔母の家に移った。お茶の水にある専門学部キャンパスで学習することになったからだった。本郷の叔母の家は、調布の叔母の家と違い、2階建てで、庭が狭く、僕は、その家の2階にある4畳半をあてがわれた。4月から僕は、その家から大学に通った。5月のゴールデンウイークを過ぎると、通学にも慣れた。そうなると、今まで気づかなかった街の風景にも気が回るようになった。学校の帰り道、本郷通りから叔母の家に向かう途中、玄関の所に紫陽花の花が咲いている屋敷があるのが気になった。その屋敷には小さな離れがあり、僕は、その家の前を通るたびに耳を澄ませた。何故なら、その蔦の這った離れの小窓から時々、美しいピアノ曲が流れて来ることがあったからだ。時にはそのピアノ曲と一緒に少女の澄んだ歌声が聞こえて来ることもあった。5月の連休前の事だった。僕は帰省する時、ピアノを演奏する彼女が庭の芝生で少女とバトミントンしている姿を目にして、びっくりした。何と彼女は同じ大学に通っている髪の長い娘だった。学部は違うが、大学の地下食堂で時々、目にしたりする大学生だったから、帰省している間も彼女の事が頭に浮かんだりした。僕は再び上京してからも、その家の前を通るたびに聞き耳を立てた。またその家にいる彼女や家の近くを歩く彼女の姿を時々、見かけた。離れの出窓を開けて、彼女が部屋掃除をしている時、花を飾ったりしている時、少女と庭に出て遊んでいる時、八百屋で買い物をしている時などなど。そして今日は、何と、僕が暮らしている叔母の家の前を着飾って、湯島の方へ向かう彼女を見かけた。水色のワンピースを着た彼女は、叔母の家の前を通って、御徒町の繁華街の方へ行くみたいだった。僕は、その彼女の姿を勝手口の窓で発見した。カルピスを飲んでいた僕は、カルピスのグラスを勝手口に置き、慌てて、2階に駆け上がり、部屋の窓を開け、湯島方面へ向かう彼女の後姿を見送った。その後、再び勝手口に戻り、カルピスを飲み干した。まさに初恋の味だ。僕は、その後、2階に上がり、部屋の窓の敷居に腰かけ、ギターを弾いた。まず、『禁じられた遊び』を弾き、その後、練習中の『夜霧のしのび逢い』を弾いた。菫色の夕空を仰ぎながら、ギターを弾く僕の部屋に六月の夕風が忍び込んで来た。僕の頭の中はギターを弾きながらも、彼女の事でいっぱいになった。如何にして自分が彼女の近くにいるかを知ってもらいたいという気持ちでいっぱいだった。夕暮れは次第に暗くなり始めた。僕は2階の窓の敷居に腰かけ、彼女が湯島方面から帰って来るのではないかと、湯島方面から帰って来る人の中に、彼女がいないか目をこらした。するとその人たちの中に叔父の姿を発見した。叔父は2階の僕に気が付くと、右手を上げ、帰宅の挨拶をした。今日も一日、御苦労さま。僕は部屋の灯りをつけた。彼女は御徒町に誰かとデートする為に出かけたのか。それとも買い物か。叔父が帰って来たのに、彼女は帰って来ない。帰って来たのを見逃したのだろうか。僕は諦め、ギターを柱に立てかけた。その時、彼女の水色のワンピース姿が前方の夕闇の中に、ポッと浮かび上がった。僕は、あっと思って、ギターを演奏しようと窓から身を乗り出した。彼女が買い物袋を手に今、丁度、窓の下を通過するところだった。その時、一階で叔母が僕を呼んだ。
「輝ちゃん。夕御飯よ」
「はあ~い」
叔母の呼び声に、僕は何時もの習慣で、大声を出してしまった。すると道を歩いていた彼女が驚いたように僕のいる2階の窓を見上げた。その見上げる彼女の視線と見下ろす僕の視線が合った。僕はモナリザのような彼女のその微笑を目にして、赤面し、クラクラしそうになった。彼女は、そんな僕を見て、ちょっと頬を染めて笑った。僕も恥ずかしくなって笑った。一瞬のことだった。彼女はその後、何も無かったように通り過ぎ、紫陽花の花が咲いている家に入って行った。僕は階段を降り、尾崎家の夕食の席についた。勤めから帰った叔父と従弟の文男と、叔母の作ってくれた夕食を4人で美味しくいただいた。僕は食事をしているのに、水色のワンピースの彼女の姿が頭にちらついて離れなかった。夜になっても、彼女の事が頭に浮かび、嬉しくて、中々、眠れなかった。
〇
6月は雨の季節。昨日も今日も雨。雨、雨、雨。僕はそんな雨の中を、彼女が暮らす釘宮家の前を通過し、本郷通りに出て、19番の都電に乗って大学に通った。雨の日の通学は辛かった。特に神田明神と駿河台校舎間のお茶の水橋を渡っての移動が大変だった。降り続く雨は琴糸のように銀色の帯になり、シトシト、音を立てて降った。そんな雨の続く日々の中で、不思議にも朝から晴れた日があった。その日の空は東京には珍しい青空だった。僕は従弟の文雄が飼っているカナリアの籠を庭先に出してから、通学カバンを手に尾崎家を出た。庭先の無花果の枝に懸けた鳥籠の中で、カナリアが僕をからかうように、行ってらっしゃいと鳴いた。僕は釘宮家の前を通りながら、あの髪の長い女学生がいるのではないかと、釘宮家の離れの窓を見た。だが、その出窓のガラス戸の向こうは花模様のカーテンで閉じられ、部屋の中を覗くことは出来なかった。彼女は一足先に大学へ向かったみたいだった。僕は本郷通りから19番の都電に乗って、神田明神前まで行き、そこからお茶の水橋を渡り、大学の校門を潜った。今日の科目の教室へ行くと、僕の友人たちは教科書を開いて、教授が現れるのを待っていた。経済学の教授、前田久吉はノソノソとやって来ると、黒板と学生を相手に、講義を開始した。前田教授が熱心に論じているというのに、僕は前田教授の話を熱心に聞くことが出来なかった。教室の窓から見える久しぶりに晴れた6月の空を見ていた。僕の隣席にいる学友たちは、ベトナム戦争について議論していた。石川光司がヒソヒソ声で仲間に言った。
「ベトナム南部問題を解決するのなら、何より先にアメリカが南部のベトナム共和国から撤退し、ベトナム南部の人民自身に自分たちの問題を決定させるべきだ。北部のベトナム民主共和国が、ソ連や中国の支援を受け、ベトコンを送り込み、南部で暴れ回っているが、ベトナム共和国は、その挑発と攻撃を自らの武力で阻止するか、北部の統一路線に従い、共産主義に呑み込まれるか、決断せねば駄目だよ。そうでないと悲惨な戦争が続く」
石川の言葉は共産主義者、ホーチミンの言葉、そのものであった。すると、北山勇雄が、顔色を変えて、石川の考えに反論した。
「アメリカの目的は資本主義を信奉する南ベトナムの明確な独立と、彼らを共産主義国からの攻撃から解放してやる事なんだ。ケネディ大統領は,その為の支援に踏み切ったのだ。アメリカは自国の為に、何物も望んではいない。独裁者が国民を奴隷扱いするのが当たり前の共産主義に、ベトナム人民が汚染されないように協力しているのだ。ベトナム国民が独自のやり方で、自国を導いて行けるようになるのを望んでいるのだ。ベトナム国民が自立して行くことを望んでいるのだ。だから南ベトナムに援助をしているのだ。アメリカは彼らが共産主義に染まらず、資本主義に則った彼らの利益が保証される状態を確認出来ればベトナムから撤退するだろう」
僕には彼らが、何故、他国の事に懸命になるのか理解出来なかった。僕たちは戦争を放棄した国民なのだから、戦争に無関心でいた方が良いのではないか。北朝鮮と韓国のような他国の南北戦争など勝手にさせておけば良いではないのか。そんな事より、自分の胸にある思いの方が、ずっと重要に思われた。そうこうして、ぼんやり、教室の外の青空を眺めていると午前の授業も終わり、昼になった。僕は仲間たちと、学生食堂に行った。僕は、そこで、釘宮家の彼女が、少し離れた席に座って、学友たちと、うなずきながら食事をしていているのを目にした。彼女も僕に気づき、チラッと僕と視線を交わした。彼女が僕の事を意識し始めたことは確かだった。昼食を終え、午後になると、空の色は灰色に変わった。午後の授業は『配給論』だった。利根教授は『配給組織論』を情熱をもって語るが、僕にとっては当たり前の事なので、余り真剣になって聞く気になれなかった。それで窓際の席に座って講義も聞かず、窓の外ばかりを眺めていた。その曇り始めた空から、雨が降り出した。午後、3限目の授業を終えた学生たちは、見下ろす窓の下の校庭を傘を広げたり、本で頭を隠したりして、急ぎ足で校門を出て行く。僕は、そんな学生たちの姿を見て、早く帰りたい気持ちになった。僕は庭に出して来たカナリアの鳥籠を尾崎の叔母さんが、家に取り込んでくれただろうかなどと思ったりしながら、静かに降る梅雨を見続けた。しばらくして僕は、帰って行く沢山の学生の中に、黄色いレインコート姿の釘宮家の彼女を発見した。彼女は友人と2人だった。じっと目を凝らして見たが、その顔は雨に煙ってはっきり見えなかった。勿論、彼女たちは僕が3階の教室から見下ろしているなんて気づいていなかった。僕は赤い傘と黄色いレインコートの彼女に目を奪われた。彼女の隣りの青い傘と紺色のレインコートの女性は雨傘をクルクル回しながら、はしゃいでいるみたいだった。僕は、そんな2人が正門を出て、御茶ノ水駅方面へ遠ざかって行くのを見送った。そして、彼女と一緒に帰った女性みたいに、彼女と一緒に雨の中を帰れたらなあと思った。
〇
4限目の授業が終わると、北山と津村と石川が、雀荘『幸楽』に行こうと僕を誘ったが、僕は家庭教師のアルバイトがあるからと言って断った。すると彼らは岩井を誘って、『幸楽』へ行った。僕は今朝、晴れていたので、傘を持参していなかったので、彼らと別れると、大学の正門から商店の軒伝いにお茶の水駅まで歩き、雨が小降りになるのを待った。そして雨が小降りになったのを見計らって、お茶の水橋を渡った。神田明神前に行くと、幸いなことに、都電が直ぐにやって来た。僕はその都電に乗り、本郷1丁目で下車した。雨は前より激しくなっていた。僕はびしょ濡れにならぬよう、八百屋、花屋、ラーメン屋の軒を通り、住宅街に入った。住宅街の紫陽花の花の咲く釘宮家の前を通過しようとすると、雨は一層、激しさを増し、ザアザア降りになった。僕は堪らなくなって釘宮家の相向かいの坂本家の軒下に跳び込んだ。雨は道路の上に流れを作る程、降りしきった。僕が困惑していると、突然、自動車が走って来て、何をぼやっとしているのだと言うように、僕に泥水を飛ばして走り去った。僕は大声を上げた。
「ああっ。ひでえことをしやがるな。ズボンが泥だらけだ」
僕は大声を上げてしまってから、辺りを気にして溜息をついた。ハンケチでズボンの泥水を拭き取りながら、向かいの紫陽花の咲く家を見た。そして離れの窓から僕の様子を見ている彼女がいるのに気が付いた。濡れ鼠状態の僕はどんな格好をしたら良いのか戸惑った。僕は恨めしい雨空を睨め付けた。意地悪な雨空は一層、雨を募らせた。僕を見ていた彼女はまるで幻影であったかのように窓ガラスの向こうに消えた。僕は呆然と雨が小降りになるのを待った。すると紫陽花の家の玄関のドアが開いて、彼女が外に出て来た。彼女は僕の方に視線を送らず、小さな黄色い傘を広げ、手に赤い傘を持ち、何処かへ出かけるみたいだった。少女を迎えに行くのか。僕は幻想の世界に没入した者のように、茫然と彼女を眺めた。彼女は紫陽花の脇を通り、苔で緑がかった石段を下り、鉄の門扉を開け、道路に出た。銀色の雨が糸のように激しく降った。道路に出た彼女は冷静な態度で左右を確認した。車も人も見えなかった。彼女は道路を横切り、僕の方へ駆けて来た。僕の前で赤い雨傘がパッと開き、彼女の姿がパッと消えた。僕は大きな花が突然、眼前に開いたような錯覚に陥った。その燃えるような花の大輪の中に、離れにいた女の顔がスーツと浮かび上った。彼女は黄色い傘をたたんで、坂本家の軒下で、僕と同じ赤い傘の中に入った。僕はポーッとなった。彼女は言った。
「あんなに朝、綺麗な空をしていたのに、この雨。憂鬱になるわね」
「はい」
「貴男。尾崎さんのお宅に下宿しているの?」
「はい。下宿しているというか、親戚に厄介になっている居候です」
「まあ、そうだったの。なら私と同じね」
「そうですか。尾崎の叔母さんが、父の妹なんです」
この時とばかり、僕が余分なことまで喋ると、彼女も同調して話してくれた。
「すると、貴男の苗字、尾崎さんでは無いのね」
「はい。星野輝行です」
「私は今泉香織よ」
「香織さんは何、学部ですか?」
僕は初めて、彼女の名を呼んだ。彼女は自分の名前を僕に呼ばれて、ちょっと赤くなった。その薄桃色の頬の色と僕を見つめる瞳は、とても美しかった。彼女が折りたたんだ小さな黄色い傘の先からは雨の雫が水銀球のようにコロコロと転がり落ちた。僕の問いに彼女は答えた。
「文学部よ」
「僕は・・」
「言わなくとも分かっているわ。襟章で、商学部だって・・」
小止みなく降る目の前の雨は青い霧となって降りかかって来た。僕は坂本家の軒下で、彼女と並び、彼女の澄んだ美しい声と嬌羞の笑みに遭遇し、甘美な夢の世界にいるようだった。そんな僕を目覚めさせるように彼女が言った。
「雨が激しくなるばかりだわ。この傘、持って帰りなさい。女性用ですけど・・」
「有難うございます」
「あらあら、泥水がこんなに・・」
彼女は僕のズボンの自動車の泥水の汚れが、まだ残っているのを見て、白いハンケチで、それを拭き取ってくれた。僕は恥ずかしくて仕方なかった。
「済みません。では、この傘、お借りします」
僕は、そう言って雨の中、赤い傘を差して駆け出した。僕の発した声は自分の声では無いかのように、6月の雨の中で元気に響いた。僕が振り返るのを見て、香織は黄色い小さな傘をクルクル回した。彼女は僕の姿が尾崎家の門に入るまで、釘宮家の門扉の前に立って見送ってくれた。僕はとても嬉しかった。この雨空に感謝の祈りをしたくなった。
〇
僕は尾崎家の玄関先で今泉香織から借りて来た赤い雨傘をたたんで、家に入った。
「只今」
「お帰りなさい」
光子叔母が奥の方で答えた。玄関にある下駄箱の上には、叔母が庭から取り込んでくれたカナリアの鳥籠が置かれていて、その中で遊ぶカナリアが僕を見て、冷やかすように鳴いた。
「ピエーイ、ピエーイ、ピエーイ」
僕は傘立てに彼女から借りて来た赤い傘を入れた。叔母や従弟や自分の黒色の傘と違って、香織から借りた雨傘の色は余りにも目立ち過ぎて、とても恥ずかしかったが、そこに並べるより仕方なかった。僕は玄関の上がり框で、濡れた上着とズボンを脱ぎ、2階の自分の部屋に駆け上がり、別のズボンとシャツに着替え、自分の部屋の鏡を見て、1人、微笑した。それから、玄関に戻り、濡れた上着とズボンを洗濯場に運んで、台所のテーブルに坐っている従弟の文男と2言、3言会話して、2階に駆け上がった。部屋に入り少し考え事をしていると、叔母が階段を上って来る音がしたので、僕は慌てて机に向かい、勉強をしている格好をした。叔母は僕の好きな夏みかんを、部屋に持って来てくれた。そして、部屋に入るなり、こう言った。
「文男が、今日の輝ちゃん、変だよと言うもんだから、心配しちゃつたわ」
「俺が変だって?」
「だって、何よ、玄関の赤い傘?」
「ああ、あれね」
「あれねじゃあ無いわよ。女の子を連れて来ているんじゃあないかと思って、びっくりしたわ。あの傘、誰に借りて来たの?」
「同じ大学の女の子です」
「それなら良いんだけどね。家に女の子を連れ込んだりしたら困りますよ。お父さんがびっくりするから」
「はい」
僕は畳の上に正座して、光子叔母に答えた。僕は子供の時から、祖父や父に抑え付けられ、厳しくされて来たから、光子叔母の忠告を真面目に聴くことが出来た。光子叔母は、この時とばかり僕に言った。
「そうそう。この向こうの大通りに近い赤羽さんというお医者さんの家があるでしょう。あの隣りの家、紫陽花の花が咲いている家」
「坂本さんの前の家ですか」
「そう。釘宮さんの家に下宿している女の子。大変なんですってよ。離れに時々、男の人を連れて来るのですって。まだ学生の分際でねえ」
「それは本当なんですか?」
「隣りの小池さんの話では、貴男と同じ大学に行っているって話よ。やあねえ」
「それは間違いではないですか。叔母さんたちが集まって、いい加減な出鱈目を言っているのじゃあないのですか。釘宮さんの家の誰かが言ったのだったら本当でしょうが、そうでなかったら、誰かの作り話です」
「そう言われてみれば、そうね」
僕は光子叔母から世間の噂話を聞いて、ちょっと不愉快になった。そこで話題を変えた。
「それにしても、今日の雨には困りましたよ。カナリアの籠、済みませんでした」
「あっ、そうそう。カナリア、今少しで雨に濡らしてしまいそうだったわ。6月の雨ってやあねえ」
「そうですね」
「この夏みかん、美味しいわよ。上等のを買って来たんだから、食べてね」
叔母は思っていることを、べらべら喋ってから、1階へ降りて行った。僕はガラス窓に流れる雨を眺めながら、傘を貸してくれた香織のことを思った。叔母が近所の奥さんたちから聞いた話は本当なのだろうか。今日、僕に傘を貸してくれた雨の日の香織。彼女は本当に噂通りの女なのだろうか。喜一郎叔父が勤めから帰って来てからの夕食時、僕が借りて来た赤い傘の事が再び話題になった。喜一郎叔父に質問され、普通だったら赤面するところだが、今回の僕は心臓がドキリとして真っ青になった。喜一郎叔父はそんな俯き加減の僕を見て、笑って言った。
「輝ちゃんにも、ガールフレンドが出来たか。良かったじゃあないか」
その言葉に、僕はホッとした。すると光子叔母が喜一郎叔父を叱った。
「貴男。駄目ですよ。田舎の御祖父さんに知られたら、管理不行き届きだと、私たちが叱られますよ」
「そうだな」
喜一郎叔父は、そう答えて苦笑した。僕は、そんな夫婦の会話を聞き、無理に笑って見せた。従弟の文男は、大人の話が分かっているのか、僕の顔を見て笑った。
〇
次の日は曇天だった。雨は降っていなかった。僕は学校へ行く時、今泉香織が下宿している釘宮家を眺めて通ったが、彼女の姿は見当たらなかった。大学に行くと、悪友たちが昨日の麻雀の結果報告をした。僕の代わりに誘われた岩井が大負けしたという。午前の授業が終わり、僕は学生食堂で彼女を見かけるのではないかと期待したが、ここでも彼女の姿は見当たらなかった。午後の『金融論』の授業が終わってから、麻雀の話になったが、昨日の勝ち組も負け組も、連日の麻雀に気乗りしなかった。だからといって図書室に行って勉強する気にもなれなかった。そこで、喫茶店に行こうという事に決まった。僕たちは5人で、喫茶店『田園』に入り、コーヒーを飲みながら、単位取得の話、ゼミの話、政治の話などをした。僕は、そこで文学部の今泉香織の事を喋ろうかと思ったが、思いとどまった。北山と岩井は『グリークラブ』の美人メンバーの小林さんと中村さんの話をしたが、デートしたりしたことが無く、片思いだった。『田園』での長話が終わってから、僕は急いで家に帰った。帰りがけ、彼女の部屋からピアノ曲が聞こえた。僕が尾崎家に帰ると、光子叔母が僕に言った。
「傘、乾きましたよ」
「叔母さん、ありがとう。じゃあ、俺、傘、返しに行って来るよ」
「返しに行って来るって、近くなの?」
「まあね」
「じゃあ。返していらっしゃい。お菓子でも持って行くのよ。お金あるの」
「あるから大丈夫」
僕は玄関に通学カバンを置くと、赤い傘を持って家を出た。釘宮家の前を通り越し、本郷通りの八百屋でイチゴを買った。それから釘宮家を訪ねた。彼女は大家さんの娘に音楽を教えているらしかった。離れの方からピアノの音と少女の澄んだ声が聞こえた。僕は昨日、彼女が開けた鉄の門扉を開け、石段を三段上がり、玄関ドアの前に立ち、勇気を出して声を掛けた。
「御免下さい。御免下さい」
「どなた様でしょうか?」
ドアの向こう側で女性が質問した。僕は慌てて答えた。
「星野と申します。香織さんにお返しする物がありまして」
「そうですか。少々、お待ち下さいね」
女性は、そう言って、その場から立ち去った。するとピアノの音が止み、彼女が玄関のドアを開け顔をのぞかせた。
「まあ、いらっしゃい」
「いらっしゃい」
緑色のワンピース姿の香織の隣りに、赤いスカートの少女が立っていた。香織は少女の肩に白い手を置き、軽く笑った。
「昨日は傘をお貸しいただき、有難う御座いました。お陰様で、風邪をひくことも無く、こうして元気です。傘が乾きましたので、御返しに来ました」
「急がなくてもよろしかったのに」
彼女は、そう言って、赤い傘を受け取って、玄関内の脇の傘立てに傘を入れた。それを見届けてから、僕は八百屋で買って来たイチゴのケースを彼女に差し出した。
「これ、つまらない物ですが、食べて下さい」
「まあっ、そんな気遣いしていただいては困ります。いただけません」
「でも」
そんな遣り取りをしていると、奥の部屋から、先程の女性の声がした。
「香織さん。そんな所で話していないで、上ってもらいなさい」
「はい」
香織は奥の部屋の声に従う返事をしてから、僕に言った。
「ここでは何ですから、こちらへどうぞ」
僕は彼女の勧めに従い、釘宮家の廊下を通り、彼女が下宿している離れの部屋に通された。その部屋はピアノを置いた洋間になっていて、書棚と大きなテーブルが中央に置かれていた。僕は彼女の案内に従い、そのテーブルの椅子に腰を下ろし、再度、イチゴのケースを彼女に渡した。彼女が戸惑っていると、彼女の傍にいた少女が、代わりにイチゴのケースを受け取った。
「お兄ちゃん、有難う」
「どういたしまして」
僕と少女が明るく笑って会話すると、香織は顔を少し染めて少女に言った。
「由紀ちゃん、良かったわね。良い物をもらって。お兄ちゃんやお姉ちゃんと一緒にいただきましょうか」
「うん。そうして。早く開けて」
少女は、僕の顔をジロジロ見ながら、香織がケースを台所に持って行って、食べる準備をするのを待った。僕は、その間、彼女の部屋の中を眺めた。窓際の花瓶にはピンク色のチューリップの花が飾られ、部屋を明るくしていた。ピアノの置いてある奥の壁には、ドガの『踊り子』の絵が掛かっていた。部屋の中から見るカーテンの花模様は、窓の外から見るのと少し趣が異なり美しかった。少女は香織が現れるのを待っている僕に、自分の写真集を持って来て僕に見せた。今年、中学生になったばかりだという。少女の説明を聞きながら写真集を見ていると、軽い足音がして、部屋に光子叔母さんと同年配の婦人が顔を覗かせた。
「いらっしゃいませ。よく来て下さいました。そんなに固くならず、楽にして下さい。お茶をどうぞ」
「ありがとう御座います」
「ゆっくりして行って下さいね。では失礼します」
釘宮の叔母さんはテーブルの上に湯呑道具を載せたお盆を置くと、両膝の上に両手を置いて深く頭を下げ、笑顔で部屋から出て行った。僕の事を確かめに来たらしい。しばらくすると、イチゴを小皿に載せた香織が部屋に入って来た。僕はホッとした。
「お待たせ」
彼女は、そう言って笑うと少女と一緒に僕の向かいの椅子に並んで座った。由紀ちゃんと呼ばれる少女は、イチゴの載った小皿を直ぐに手にすると、香織に訊いた。
「香織姉ちゃん。訊いて良い」
「何を?」
「このイチゴ持って来てくれたこの人、誰?」
「誰って。見たことあるでしょう」
「知らないわ。今日が初めて」
「僕も、今日が初めてです。僕の名は星野輝行です。お嬢さんの名は?」
僕は立ち上がって少女に挨拶した。すると少女も立ち上がって挨拶した。
「私の名は釘宮由紀子です。桜蔭中学の1年生です」
「この人はね。お姉ちゃんと同じ大学に通っている勉強の出来るお兄ちゃんよ。だから御行儀よくしてね」
「分かったわ」
少女は、そう答えて、しばらく僕らの大学に関する話を聞いていたが、イチゴを食べ終わると、お盆の上にあったバナナを1本手にして、またねと言って、離れの部屋から母屋の方へ出て行った。離れでの勉強が何時も終わる時間になったからだという。香織も僕と同様、従妹の由紀子の家庭教師をしているのだという。僕はゆっくり彼女の淹れてくれたお茶を飲みながら、まるで夢の中にいるようだった。これは夢ではないだろうか。もし夢であるなら覚めないで欲しい。そんなことを考えていると、香織が恥ずかしそうに言った。
「御免なさいね。お菓子、きらしちゃったの。良かったら、バナナを食べて」
「は、はい」
僕はバナナを手に取って、ふと大学の悪友たちが喋っていた、バナナを使った女の自慰行為を連想し、思いもよらぬ興奮に襲われた。香織は、こんなバナナを使って女性器の中に突っ込んだりするのだろうか。馬鹿な事を考えるな。彼女がそんなことする筈が無い。そんな連想をした為か、口にしたバナナは、美味しい味がしなかった。僕はちょっと赤面して、彼女を見詰めた。彼女の澄んだ瞳と首元から胸にかけての肌の白さが僕をドキドキさせ、誘惑しようとした。もしかしたら、この美しく清らかで初々しさの残る香織を、今、この部屋で抱くことが出来るのではないかと思った。僕の下腹部で、灼熱の興奮が勃起した。彼女との接吻。彼女との接合。彼女との歓び。彼女との満足。僕は良からぬ官能の燃焼と生存の極致を想起した。それが炎の渦となって僕の肉体中を駆け回った。総てが用意されている。ああ、しかし、犯してはならぬ。僕は心に向かって言い聞かせた。この抑止は僕の肉体の抑止では無かった。上京する時の祖父からの十戒の精神が、僕がその行為に踏み切ることを許さず、慄かせ、阻止させたのだ。つまり僕には十戒を破る勇気が無かったのだ。僕には耐えがたかった。彼女の長い黒髪、美しい笑顔、白いうなじ、胸の膨らみ、みぞおち部分の細いくびれ、腰の豊熟、細くて長い脚。それらを目にすると、居ても立ってもいられなかった。僕は自分の不道徳な考えが増すのを恐れて、彼女に言った。
「傘を届けに来たのに長居をしてしまい申し訳ありませんでした。暗くなるので、僕、帰ります」
「そうですか。では今度は大学で」
「そうですね」
僕たちは立ち上がり、離れから玄関に移動した。すると釘宮の叔母さんと由紀子が玄関に出て来た。
「もう、お帰りになるの」
「はい。叔母が夕御飯の準備をして僕の帰りを待っていると思いますから。お邪魔しました」
僕は、ズボンの中の勃起を悟られないように、挨拶して、釘宮家の玄関から外に出た。香織は、下駄を履いて、紫陽花の花の匂う玄関先まで出て、僕を見送った。僕は急いで尾崎家に帰り、尾崎家の3人と夕御飯を食べた。その後、文男の宿題を見てやってから、2階の部屋に布団を敷き、その上で大の字になって寝そべり、天井を見詰め、今泉香織の事を思った。釘宮家の離れで、今日、会った香織の姿が僕の脳裏をいっぱいにした。僕は部屋の明かりを消して、個人的淫猥に耽った。勿論、香織の裸身を想像しながらの事である。
〇
何はともあれ、僕は今泉香織と親しくなることが出来た。考えてみると、彼女の存在を知り、2階の部屋に駆け上がり、ギターを抱いていた頃が、滑稽に思われてならない。僕と香織は通学途中に出会ったりすると、恋人同士のように並んで歩き、いろんな話をした。時には大学の近くにある喫茶店『田園』や『丘』あるいは『ジロー』に入って会話することもあった。彼女は文学部には授業料値上げに反発する過激な女子大生がいるなどと話した。僕はゼミの教授が、台湾共和国樹立に情熱を注ぎ、中国共産党政府を大陸の合法政府と認め、台湾と大陸を分離した国にすることが、将来の極東アジアの平和に繋がると主張しているなどと話した。雨は僕たちの為に、よく降った。日曜日の休日、時たま晴れたりすると、由紀ちゃんを連れて、『春木町公園』などに散歩に出かけた。由紀ちゃんがブランコに乗っている間、僕たちは公園のベンチに座って、文学、政治、経済などの話をした。しかし、そんな楽しい日は少なく、紫陽花の花や露草の花を濡らして雨の降る日が多かった。或る雨の日曜日、僕は図書館に行こうと思い、尾崎家の玄関ポーチに出て、雨の降り具合を確認した。門扉を飾る薔薇のアーチは雨に濡れている。今日は図書館に行けそうも無いなと思い、家に入ろうとすると、家の前を、見覚えのある赤い傘をさした女性が通りががった。その女性が香織であると気づくや、僕は彼女に声をかけた。
「香織さん」
「まあっ、輝行さん」
「雨の中、何処へ出かけるのですか?」
「広小路の『松坂屋』まで、御買物に・・」
彼女は、そう言うと、尾崎家の玄関ポーチに入つて来た。美しい髪が少し濡れている。何故か嬉しくて、2人とも、ついニコニコしてしまう。僕が近所の人に見られてはいないかと、赤くなって、彼女と喋ると、彼女も調子に乗って話し込んで来た。後になって考えてみると何を喋ったのか覚えていない。兎に角、僕の下宿先の玄関で、初めての彼女との会話だった。ポーチには雨に濡れている薔薇の花の香りと、女らしい彼女の可憐な香りが、混ざり合い、僕を陶酔させた。僕は夢の中にいるようだった。彼女は僕との立ち話の間、雨が止まないかと白い手を時々、屋外に出して確認した。彼女の白い手のひらが雨に濡れて光った。6月の雨は音もなく煙るように降った。僕はふと、玄関脇の八つ手の木陰の小窓から、誰か僕たちを覗いているのを目にした。それは喜一郎叔父だった。僕は目をそらし、気づかぬ振りをした。しばらくすると、今度は勝手口の窓が開く音がした。僕は顔をしかめて、そこを見た。香織も同じく、その窓に視線を送った。そこには、光子叔母の顔があった。香織はその光子叔母の顔を見て、心配そうに僕に訊いた。
「玄関先で立ち話していて、叱られない?」
「なあに平気さ。僕らは悪い事を相談しているんじゃあないんだから」
「でも、何か悪い事しているみたい」
僕は彼女が、そう言っても気にせず、会話を続けた。だが心の中では、この後、叔父や叔母に何を言われるか心配していた。銀の糸のような雨を目の前にしての会話はロマンチックだった。僕は玄関ドアに寄りかかり、胸を張って彼女と話した。すると再び勝手口の窓を叔母が開けて、僕に声を掛けた。
「輝行。そんな所で、何をしているの。雨が降っているんです。中に入りなさい」
光子叔母の口調は、いささか乱暴気味だった。叔母の言葉を聞いて、香織は血相を変え、慌てて傘を広げ、玄関ポーチから出て行った。僕は何か言おうとして、彼女の方へ手を差し伸べたが、それは空しい所作だった。屋外に差し出した僕の手は6月の雨に冷たく濡れた。勝手口の窓を睨みつけると、そこの窓は既に閉まっていた。僕の立つポーチには香織が残して行った甘い香りが漂っていたが、彼女の姿は消えていた。6月の雨は門扉の脇の薔薇の花を尚も濡らしていた。僕はしばらく、そこに立ち尽くした。風が出て来た。雨は霧となって僕を襲った。僕は、その風が香織を運び去って行ったような気がした。最早、ロマンチックだった玄関ポーチからは彼女の香りは消えて、薔薇の花が雨にいじめられて泣き濡れているみたいだった。僕は美しい夢がポッと消えたような虚しさ、寂しさ、遣る瀬無さに震えた。それは甘美な夢を失ったような、神の加護を失ったような失望と不安によるものだった。
〇
僕は意気消沈して玄関から家の中に入った。尾崎家の居間に入るや否や、光子叔母に怒鳴られた。
「輝行。お前は何時から、あの娘と知り合いになったの。あの娘は前にも言ったように、評判の悪い女です。『赤羽医院』に診察に行った時、来ていた近所の人、皆が言っていました。釘宮さんの家は、どうして彼女を追い出さないのかって、皆、不思議がっていたわよ」
「彼女は、悪い人じゃあ無いよ。彼女は釘宮さんの親戚で、僕と同じ居候さ。中学生の由紀子さんの
家庭教師もしているんだ」
僕が、彼女の事を庇うと、光子叔母は目を吊り上げた。
「何を言っているの。あんな娘に可愛い由紀ちゃんが感化されたら、どうなってしまうのか、分かっているの。お前も最近、学校からの帰りが遅くなり始めたけど、まさか、あんな娘と一緒にいたんじゃあないだろうね。お前は大学で勉強する為に田舎から上京したのですよ。お前の頭の中に、あんな娘がいつくなんて、あってはならぬ事です。彼女とは、きっぱり縁を切りなさい」
無茶苦茶だ。僕は心中、カッとなったが、必死になって堪えた。居候の身で何と答えたら良いのか分からなかった。涙が出そうになった。そんな僕を見て、喜一郎叔父が光子叔母に言った。
「お前。輝ちゃんにそこまで、言わなくても良いんじゃあないか。輝ちゃんも大学生なんだから、男女交際には注意をするんだね。家の玄関先でイチャイチャ笑ったりしていてはいけないよ。話があるなら、家の中で話しなさい。叔父さんは女性を家に連れて来ても、怒ったりしませんよ」
叔父の優しい言葉に叔母は不服だった。叔母は膨れっ面をして叔父と僕に文句を言った。
「貴男。そんな甘い言葉でどうするのです。輝行をもっと叱って下さい。私は、あんな娘は大嫌いです。輝行、話を良く聞きなさい。あんな娘と、もう一言も話してはいけません。朱に交われば赤くなるで、お前も知らず知らずのうちに、不良の仲間入りにされてしまいます。明日からは、あの家の前を通ってはなりません。早く起きて遠回りして行きなさい」
「はい」
「誤魔化しは出来ませんよ。私が道路に出て見ていますからね。あんな娘が同じ大学にいたなんて。この事が、田舎の御祖父さんに知られたら、大変です。私はクリスチャンは嫌いです」
光子叔母の言う事は、いい加減な世間の噂を信じていて、どれもこれも納得出来るものでは無かった。だが居候の僕は黙って俯き続けた。光子叔母の忠告に憤慨して、叔母の横っ面を思い切り殴ったところで、何にもならない。もう事は発覚してしまったのだ。僕が叱られるのを隣りの部屋で見ていた従弟の文男が、襖の陰から顔を覗かせ、僕にアカンベーをした。僕は両膝に置いた両腕の握り拳を膝に力強く押し付けて俯き続けた。その僕の姿を尾崎家の3人は敗北を認めたと理解したみたいだった。急にニコニコし始めた。6月の雨はまだ庭の枝垂れ梅や八重椿や薔薇を濡らして降っていた。
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朝、起きて部屋の窓を開けていると、従弟の文男が、カナリアが死んだと涙声で言った。僕は叔父と文男が可愛がり、大切にして来たカナリアが死んだと知って、空しい気持ちになった。僕は田舎での少年時代、メジロや雀やヤマガラを飼って、何度か死なせたことがある。ちょっとした油断で小鳥が死んでしまう自責の念に駆られ、辛い思いをしたことを思い出した。僕は2階から1階に降りて、縁側に行って、鳥籠を見た。昨日まで僕を冷やかしていたカナリヤは、悲しい事に両脚を天上に向けて鳥籠の中で死んでいた。その羽根の色が雨の日に目にする香織のレインコートの色に似ていて、とても悲しかった。なのに今朝の空は湿った地面と空気の上空に、からりと晴れ渡り、青々と広がっていた。遠くで教会の澄んだ鐘の音が聞こえた。光子叔母は居間で餌を忘れたことを喜一郎叔父に叱られ続けていた。しかし、叔母は昨日の僕のように黙っているのではなく、夫に向かって口答えをしていた。従弟の文男は、その夫婦喧嘩の様子を時々、覗いた。そして僕がカナリアの死骸の入った鳥籠を廊下の天井の吊り具から外して、廊下に置くと、昨日と同じように、僕にアカンベーをして見せた。僕は怒った。
「ピイピイちゃんが死んだのに、なんだ。そのアカンベーは?」
「お父さんとお母さんが、朝っぱらから、夫婦喧嘩してるから」
「そうか。じゃあ、朝食が済んだら2人でピイピイちゃんの埋葬をしてやろう」
「うん」
僕たちが埋葬の約束をして、台所の食卓に行っても、2人の口論が続いた。叔母の茶碗や箸を置く音までもが激しく聞こえた。喜一郎叔父は朝から光子叔母と喧嘩になり不愉快だったのだろう、そそくさと朝食を済ませると、僕に言った。
「輝ちゃん。申し訳ないが、ピイピイちゃんの始末を頼むよ」
「はい。庭の片隅に埋めます」
「うん。よろしく頼む」
喜一郎叔父は、僕に苦笑いして、会社へ向かった。僕は文男と2人で、庭の金木犀の根方にピイピイちゃんの亡骸を埋めて、手を合わせた。それから僕は学校に向かった。叔母は昨夜の言葉通りに、わざわざ尾崎家の門から道路に出て、僕を見送った。僕は紫陽花の花の咲く釘宮家のずっと手前で左に折れて本郷通りの都電の停留所に行った。僕はもう香織と会えないような気がした。もう、あの離れからのピアノ曲を聴くことは出来ないのか。僕はやって来た都電に乗り、窓の外の風景を眺めたが、何の変化も無かった。神田明神前で下車し、神社の緑の生い茂った森を突っ切り、お茶の水橋を渡った。夏がもう6月を奪い去ろうとしていた。僕は大学の教室で何時もの学友たちと会い、共に勉強した。そのかたわら、多くの女子学生の中から、今泉香織を探し出そうとした。しかし、彼女の姿は僕の前に再び現れることは無かった。僕は帰りがけまで、光子叔母が道路に出て僕の帰りを監視してはいないだろうと思い、紫陽花の花の咲く釘宮家の前を通った。だが、その離れはもう夢の跡のようで、彼女のいる気配は感じられなかった。ピアノの調べも由紀ちゃんの澄んだ声も、尾崎家のピイピイちゃんの声のように全く聴くことが出来なかった。そういう日が、ずっと続いた。叔母は、もう道路に出なくなった。叔父は小鳥屋から再びカナリアを買って来て鳥籠に入れた。総てが6月以前に戻った。それは尾崎家だけの事であって、外の風景は紫陽花の花咲く季節では無かった。紫色の紫陽花は消え、昼顔が咲き始め、雨の季節は過ぎ去った。僕は新しいカナリア、ピロロちゃんに馴染むことが出来なかった。
〇
7月になった。カンナやノウゼンカズラといった橙色の花が目立つ季節になった。僕たち大学生は、もう夏休み気分だった。僕は田舎に帰る前に、今泉香織に1度で良いから会いたいと願った。雨の降る日などは、あの赤い傘をさして、黄色いレインコートを着た彼女が大学に来ているのではないかと、彼女の姿を探した。しかし彼女の姿は見当たらなかった。学生食堂でも見かけなかった。学友たちは相変わらず、ベトナム戦争反対、授業料値上げ反対、三島由紀夫の『憂国論』などについて、論じ合ったり、夏休みの海水浴、アルプス登山、彼女とのデート計画などについて喋り合った。僕はそんな仲間と大学の講義が終えから、喫茶店『田園』で雑談したりした。今日も、香織の姿を見つけることが出来なかった。僕は学友と別れると、失望して家路についた。都電に乗って、本郷1丁目で下車し、釘宮家の前を通った。紫陽花の花は消え、その葉陰から百合の花が僕を覗きながら、玄関先を飾っていた。ピアノの音は離れから聞こえて来なかった。ところが、それとは別の音が微かに聴こえた。それは由紀ちゃんがピアノで遊ぶ音でも、ラジオ音楽を聴く音でも無かった。悲しく哀れを誘う微かな響きだった。それは三味線の音のようだった。誰が三味線を弾いているのか。香織が弾いているとは思えない。釘宮家の由紀ちゃんの母親か。それとも別の女性か。でもあの離れの洋間に三味線は似合わない。洋間の奥の畳部屋で弾いているのだろうか。僕は耳を澄まして、その調べを聴こうとした。すると、突然、空がピカッと光り、頭上で雷鳴が轟いた。ゴロゴロゴロ。離れのガラス窓がガタガタ震えた。三味線の音が聞こえなくなった。次の瞬間、窓が開いた。僕はハッとして身を隠した。離れの窓には見たことも無い知らない女性が、雨空を憎らしそうに見上げ、溜息をつく姿があった。どう見ても30才過ぎの女だった。何者か分からない。僕はあの離れに別人が住むようになったのを知つて愕然とした。窓の女はガラス窓をピシャリと閉めた。僕は傘を持っていたが、傘を広げず、一目散で尾崎家めがけて走った。夕暮れの雨は、僕を逃すまいと天上から大粒の雨を降らせた。僕はあっという間に尾崎家の玄関ポーチに辿り着いた。7月の雨は尾崎家の庭の花という花を襲った。この玄関ポーチで、会話した、あの可憐な香織は、もう、この街にはいないのだ。僕は稲光を受けて、夢から覚めたような気がした。必ずや覚める夢だと分かっているなら、初めから見なければ良かったと思った。稲光は本郷の街のあちこちを、明るく照らし出し、降りに降った。バラの葉に伝う雨の雫は、まるで僕の涙のように大粒だった。
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夏休みになった。僕は失恋の傷を抱いて、田舎に帰省した。祖父や父母、兄弟は、僕の帰省を喜んでくれたが、僕は少しも嬉しくはなかった。高校生時代、同じ『美術部』だった池内早苗とバス停で会うと彼女は嬉しそうに話しかけて来た。
「輝行さん。お久しぶり。夏休みで帰ってらっしゃったのね」
「うん。たまには顔を見せないと、忘れられちゃうから」
「立派になったわね」
「なあに、年をとっただけで、まだ学生だよ」
「年をとったのは私だって、同じことよ」
早苗は、そう言って僕の腕を叩いた。高校時代の記憶が蘇って来た。別れた時の感傷が、再び再燃しようとしたが、僕は、そんな気になれなかった。僕の帰省を知って、中学時代の友人、金井智久もやって来た。そこで、中学時代の数人で町のスナック『夕映え』に行き、飲んだり唄ったり楽しんだ。でも1人になると、寂しさに襲われた。僕は農作業の手伝いもせず、故郷の山河をうろつき回った。故郷の澄んだ空気と清らかな谷川の流れに触れ、わずか半月程度で、逃れようとしていた苦悩から少し解放された気分になった。だが、時折、6月の雨の季節を思い出した。一朝一夕で、香織との思い出は消えてくれなかった。
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故郷での新鮮な空気を吸って、大学3年生の僕は夏休みを終え、再び上京した。東京は秋に迎える『東京オリンピック』が迫り、大賑わいだった。僕は、そんな中、大学に通い、石川、津村、北山、岩井たちと勉学の傍ら、麻雀をしたり、映画を観たりして過ごした。『007』や『座頭市』の映画を観ると、すっきりして、気分爽快になった。或る日のことだった。僕は『青木町公園』で、あの釘宮由紀子とばったり出会った。彼女は成長していた。彼女は僕が小説に興味があるのを知つていて、最近、どんな小説に興味を持ったか訊かれたので、柴田翔の『されど我らが日々』だと話した。それに対し、彼女は大島みち子と河野實の『愛と死を見詰めて』が最高だと語った。僕は彼女が中学生なので、今泉香織の受け売りに違いないと思った。香織を思い出したついでに、香織のことを訊いてみた。すると由紀子は平然と答えた。
「香織姉ちゃんは、6月末、世田谷の教会で結婚式を挙げ、今、下北沢に住んでいるの。星野さん、知っているかなあ。旦那さんは川端孝則という音楽の先生よ」
「そうなんだ」
「星野さん、香織姉ちゃんのこと、好きだったんじゃあないの」
「そ、そんな」
「香織姉ちゃん。星野さんのこと好きだったみたいよ」
「嘘だろう」
「多分、そうよ。結婚するのは、まだ早いって、渋っていたから。でも、周りから急き立てられ、了解しちゃったの」
由紀子は、そう言うと、気の毒そうに笑った。僕は次の言葉に窮した。鳩が数羽、僕たちの足元で行ったり来たりして、聞き耳を立てていた。僕は愕然とした。そんな僕を笑うように、公園のプラタナスの葉が揺れた。
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僕は大学を卒業して、都内の中堅企業に就職し、営業の傍ら、久しぶりにお茶の水に行ってみた。記憶とは不思議なものだ。学友たちと過ごした日々が、胸の奥に刻み込まれ、今も消えずに、この街に残っている。あの時、あの日の場面が何時までも色あせずに残っている。大学近くの喫茶店『田園』に入り、アイスコーヒーを飲みながら手にした週刊誌で知ったが、今泉香織は、今、人の心を揺さぶるヒット曲を連発している作曲家、川端孝則の妻だった。あれから数年去った今日、あの大学生時代のことを思い出すと、あの雨の降り続いた日々は、さながら黒い雨雲のようにやって来て、また直ぐに遠ざかって行った。夢は必ず覚めるものだが、その思い出は、後に残って死ぬまで消えないのだろうか。プラタナスの街路樹は、今日も風に揺れて僕を笑う。
《 雨の季節 》 終わり