9.荒れ地の朝
荒れ地で迎える初めての朝。
喉の違和感を覚えながらクリスタは目覚めた。
「乾燥しましたかしら?」
と喉に手をやって軽く咳をしてみる。
荒れ地の夜はやや寒いが、寝具は十分に足りている。
風邪ではないだろうと思いつつも生命の精霊に治癒を祈る。
身支度を調えて馬車から降りると、まだ空が白み始めたかという頃合いで、焚火のそばではマーヤがお湯を沸かしていた。
「あっちの岩陰をトイレになさい」
岩の北側が女性用トイレ。との説明を受け、これを持って行けとスコップと火の点いた細い薪を渡される。
「穴掘って、穴の中を少し炙ってからトイレ。戻ってきたら、こっちの手桶で手洗いしてから朝の鍛錬よ」
◆◇◆◇◆
他の多くの国同様、この国にも生野菜を食べる習慣はない。
寄生虫その他の対策という衛生的な経験則から始まった習慣だったが、薪を用意出来ないほどに貧しい者のやること。と考える者も増えていた。
だから、特に貴族の食卓に新鮮な生野菜のサラダなどが食卓に並ぶことはまずない。
が。
「生で食うとうまいぞ?」
とヨーゼフは塩と酢と油を掛けた生野菜を食卓に並べた。
「……生」
特に食品衛生には気を使わなければならない軍に属していたマーヤは青ざめる。
「鉱山じゃ、底でメシを食うこともあるからな。そうなりゃ、火なんて使えんべ?」
「酢漬けにするとか方法はあるでしょうに……それにスープも作ったんならそっちに入れれば良いのに」
「鉱山じゃ、生で食った方が力が出るって言われとるんじゃ。ごちゃごちゃ言わんで食え」
「それ、鉱山の主が薪代を節約したいだけじゃないの?」
マーヤはげんなりした表情でフォークで生野菜をつつく。
対するアントンは、割と平気な顔でそれを食べていた。
「塩と酢と油か……なんで混ぜずに掛けとるんじゃ?」
「水と油じゃ。混ざる物かよ。なんか錬金術師なら混ぜられるって聞いたけんど、ここには錬金術師なんておらんべ?」
「混ざるぞ? 手間は掛かるが」
そう言いながらもアントンは野菜を口に運ぶ。
美味しそうに食べるアントンを見て、マーヤは気持ち悪そうにする。
「アントンは生でも平気なの?」
「ああ。野菜なんて作ってると、生で味見ってのは普通にやるから、ワシもクリスタも慣れておる」
マーヤが視線を動かすと、クリスタも野菜を美味しそうに食べていた。
マジか、と凝視するマーヤ。
クリスタが野菜を口に運ぶ度に、うわぁ、と言いたげな表情をする。
「……あの、そんなに見られると食べにくいですわ……慣れると美味しいんですのよ?」
「それって、慣れないと美味しくないって言ってるわよね?」
「そんなことありませんわ。大人はあんなに苦いお酒が美味しいと言いますけれど、それと同じです」
「アントン、クリスタちゃんに飲ませてたの?」
「ひとりだけ美味しそうなの飲んでてズルいと言われたから舐めさせただけじゃ」
マーヤは溜息をついて、生野菜を睨み付ける。
食中毒などにはことの他敏感な組織にいたため、どうにも生野菜が食べ物に見えないのだ。
「どうしてもダメなら火を通すべか?」
「いいえ……荒れ地では薪が手に入らないかもしれないもの。本当に食べられるものなら頑張ってみるわ」
「果物なら生で食えるものもあるじゃろ? あれも植物じゃ。植物は生でも食えるんじゃよ」
この世界では果物も、火を通すことが多いが、生で食されるものも多い。
それを思い出し、マーヤはなるほどと頷いた。
「これは果物の親戚……葉っぱだけど果物の親戚」
ほんの一欠片を口に含んで味わう暇もないほどの勢いで咀嚼して嚥下する。
「あまり味がなかったわ」
そう呟くマーヤを、ヨーゼフは呆れたような目付きで見て溜息をついた。
「そりゃあの勢いじゃなぁ……それに油しかついてない所だと味はないべ? 塩は油にゃ溶けんしな。野菜を切り取ったら、しっかり油と酢をつけて食べるんじゃ」
「油に溶けないの? でも肉を焼いた油に塩味がつくこともあるわよね?」
「俺は錬金術師じゃねぇから詳しいことは知らんけどな、それは油混じりの肉汁じゃなかんべか?」
「……生野菜……歯ごたえは面白いけど……あまり美味しい物じゃないわね。煮たり焼いたりした方が好みね……でも食べられるわね」
一口食べて、取りあえず吐き出すほどのものではないと分かったマーヤは野菜を口に運ぶ。
酢と塩で味がつき、全く足りていないコクは油が齎す。
「油を獣脂にしたらもう少し美味しいかしら?」
「獣脂なんてないじゃろ?」
とヨーゼフが肩をすくめる。と。
「あるわよ? ラード持ってくるって話してたじゃないの」
とマーヤが答える。
「調味料の箱の壺に入ってるから、食事当番は好きに使って良いわ」
◆◇◆◇◆
朝食が終わると即座に撤収して北を目指す。
少し進んだあたりから、大きな丘が増え始めた。
そこまでも高さ2~3mほどの丘が続いていたが、物によっては数倍の高さの丘が現れる。
丘の連なりなので低い部分も相応に多いが、とにかくこれまで以上にまっすぐ進むのが難しくなる。
磁石で方向を調べるために馬車を停め、ついでに小休止を取って馬に水を与えているとクリスタが手を挙げた。
「おじいさま。ここの丘、登ってみても良いでしょうか?」
「結構高さがあるが、なんでじゃ?」
「これだけ高い丘なら、遠くまで見通せるのではないかと思うのですが」
クリスタの言葉にアントンはそばの丘の表情を見上げ、更に別の丘にも目をやる。
「ヨーゼフよ、どう思うかね?」
「ふむ……俺は賛成だ。だけんど、ここじゃねぇな。まだちいと早い」
「早い、ですか?」
「地形には癖ってぇのがある。山に向ってるんでもなきゃ、高い丘ばっかは続かねぇ。ここから回りを見てみっといいべ。沢山ある丘の高さがみぃんな一緒。これじゃ、この先に更にでっかい丘があるかもしれねぇっぺ? 折角登るんなら、回りの丘が少し低くなってから登ったらええ」