35.連絡と対話
全員の希望を聞いたヘンリクは、翌朝、2羽の伝書鳩をヴィードランドの牧場に向って放った。
放された鳩たちは、迷うことなく一直線に南を目指して飛び立つ。
それを見送ったクリスタは、はふぅ、と溜息を漏らす。
「伝書鳩、帰巣本能を利用した連絡方法だと本で読みましたけど、すごい勢いですわね」
上空で迷うように旋回するとか、ヘンリクの元に戻ってきてしまうとか、そういうこともあると思っていたクリスタは、迷い無く、想像より遙かに高速で南を目指す鳩達の姿に驚きの色を隠せない。
「ん。初めて見たのかい? 鳩は一日で何百キロも飛ぶんだよ。まあ猛禽類に襲われたり、嵐で飛べなくなったりで、届かない事もあるんだけどね」
「だから2羽、飛ばしたんですね? あ、猛禽類でこれが出来たら、無敵かもしれませんわね」
「それは大昔、試した人がいるらしいけど、猛禽類は見える場所には飛んでいけるけど、目印がないと自分の住処の方向は分からないらしいよ」
帰巣本能を持つ動物は多いが、全ての動物が、鳩に匹敵する帰巣本能を持つわけではない。
人間が動物であるという点を理解すれば、それは自ずと明らかだ。
例えば訓練された猛禽類は、飼い主の元に戻るが、飼い主は巣ではない。
あれは帰巣本能ではなく、戻れば良い事があると学習した結果として戻るのだ。
その際に利用されるのは主に視覚であり、飼い主のいた付近の地形を見失ってしまった場合、迷子になって、家に戻る事はほぼ期待出来ない。
そうした蘊蓄を楽しげに聞くクリスタに、良い生徒を見付けたとヘンリクは様々な知識を披露していく。
「アントンよ。あれ、嬢ちゃんがヘンリクみてぇに頭でっかちにならんべか?」
「そうは言っても知識は力じゃ。荒れ地では知識を得る方法も限られる。それにヘンリクは教育者としては一流じゃ」
◆◇◆◇◆
伝書鳩はその日の内に鳩舎のあるヴィードランド郊外の牧場の鳩舎に到着した。
その連絡がヘンリクの息子のレオンに届いたのは翌日のことだった。
手紙にあった情報は、9日後の待ち合わせについてと、数人の無事を知らせるものであり、2羽の鳩は同じ情報を持ち帰っていた。
レオンは、その情報が正しいという前提に基づき、マーヤとヨーゼフの居住地は不明だが、元気にしているという情報があったとそれぞれの家族に連絡を走らせた。
そして、レオンは手紙の意図について考えていた。
「必要なものがあるなら、他の者の情報を後回しにしてそれを書くだろうし……父さんは何を考えているんだ? ……ジークベルト、分かるか?」
ヘンリクが残した財産管理のため、向こう数年はレオンが雇用主になっているが、ジークベルトはヘンリクの家令だった者である。
或いは息子のレオンよりもヘンリクの思考を読むのに長けたジークベルトは僅かな思考で予想を立てる。
「鳩に持たせる手紙では伝えきれないような情報のやり取りを要するのでしょうね。ヘンリク様が国境外に出てから40日ほど。鳩は元気そうだったと聞きましたから、荒れ地にいるのに食料や水には困っていなかったと予想できます。深読みをするなら、それを証明するためにこの時まで連絡を控えていたのかも知れませんが、根拠はありません」
「まあそうだよな……父さん達が荒れ地に向ってから一ヶ月以上。その間、どこでどうやって生活していたのか。その情報には万金の価値があるかも知れんよな」
荒れ地に追放されて生延びていた。
荒れ地に面する村の住人に協力者がいて、数日おきに水と食料を荒れ地に運んでもらえば不可能ではない。
だが、それでは先がない。
協力者が健康を害したり、気が変ればそれまでだ。
生殺与奪の権利を誰かに握られるようなことを許すヘンリクではない。と言うのがレオンとジークベルトの共通した見解だった。
だが自給自足することが出来ない土地だからこそ、どの国も荒れ地の所有権を放棄しているのだ。
そこに、知られていない生活の場があるとすれば、それは商売をする上で、見逃せない機会となるかも知れない。
「まあ、父さんの事だから無理難題は言わないだろうし、ジークベルトが管理している財産があるんだから、大抵の依頼は問題ない。何より、父さんが荒れ地でどうやって生活していたのかは是非とも知りたい……と俺が考える所まで、父さんなら読んでるんだろうな」
「そうですね。私も興味を惹かれます。ヘンリク様は知の番人としては王国随一ですが、実践の人としては市井の者に劣ります。ご自分で火を熾すことも出来るかどうか。そのような方がどうやってご無事でいらっしゃったのかと。それで、どうなされますか?」
「うん。最近、色々忙しくなってきたんだけど、こっちも放っておけない。行くよ。ジークベルトも行くだろ?」
「はい。資産についてお知らせしたいことと、指示を仰ぎたいことがございますので、よろしければ」
「それじゃ、用意はしておいて。こっちも今日からスケジュール詰めて行かないとなぁ」
10日後という日程は、おそらくそれを見越したものだろうけど、父さんは身内には厳しいよなぁとぼやくレオンに、ジークベルトは
「いえ、身内には甘く、それ以外には苛烈に対応することもある方ですよ」
と聞こえないように呟くのだった。
◆◇◆◇◆
その翌日。
マーヤとヘンリク、リコは馬車に畑で採れた作物や、周辺の林の木の実や岩塩、果物を摺り下ろして発酵中のワイン(の中の酵母)を加えただけの試作中の酒などを荷馬車に乗せて、森人の住む場所に向って出発した。
途中途中でマーヤは道標を確認し、必要に応じて直すが時間の掛る仕事ではない。
マーヤ達が拠点候補を探しながら北上したときは6日掛った距離だが、調査不要であるならその半分ほどで到着する。
そして3日後。
順調に南下を続けた彼らは、森人の住む場所に辿り着き、川を挟んで声を掛けた。
「こんにちわー! 前にご挨拶させていただいたマーヤです!」
マーヤが声をあげると、今日は森人の女性が顔を出した。
「あら、マーヤさん。この前の干した果物、美味しかったですよ。あらまあ、なんてこと、すっかり名乗るのを忘れておりましたわ。私はトリシーです。今日は狩りに出てますが、夫はケヴィン。あと人見知りのエーリクって息子がいますわ。ご近所さんとして、今後ともよしなに」
「これはご丁寧にどうも。私たちは、ここから三日ほどの所に居を構えました。何かあれば助け合っていきましょう」
「心強いわ。ところで今日はどうされました?」
マーヤは馬車を振り返り、物々交換できそうなものがないか見て貰いたいと頼む。
「あらぁ……ごめんなさい。私には目利きの才能はありませんので、夫が戻るのを待っても?」
「ええ、もちろんですわ。今回は更に南下する予定で、今日はこのあたりに天幕を張りますので……お邪魔でしたら離れますけど?」
「いえいえ。その辺りで良ければご自由にどうぞ。今後も交換をすることがあるのならもう少し野営地らしく整えた方が良いのかしら?」
「ところで、幾つか先達に教えて頂きたいことがあるのですが、あたしだけでもそちらに渡って良いかしら?」
「いえいえ。散らかってて恥ずかしいので、こちらから、そちらに渡りますわ。知らないとこの川、渡るのが面倒ですもの。手土産はどんぐりのクッキーで良いかしら」
「あら、却って申し訳ないですわね。それじゃお茶の用意でもしましょうかね」
マーヤはヘンリクとリコに、薬草茶の用意をさせると、薪兼椅子として持ってきた切った丸太を転がして場を整える。
一度引っ込んだトリシーは、焼き菓子を載せた木の皿を持ち、危なげなく川を渡ってくる。
「いや、でもまさかこの辺にご近所さんがいるとは、来るまでは予想もしてなかったわ」
「私達も、この辺に誰かが来るなんて思ってもなかったわ。この川は、国の調査かなにかで知ったのですか?」
「んー、そうとも言えるし、そうでないとも言えるわね。昔、国が行なった調査の結果を見て、川があるだろうと思ったのは確かだけど、国としては、ここに川があるとは知らないでしょうね」
「まあそうでしょうね。知ってたら、もっと大勢で来ていたでしょうし。戻って報告したら、貴族になれるんじゃないの?」
トリシーの言葉に、マーヤは笑った。
「あたしたち、一応、その貴族出身でね。嵌められて追い出されたのよ。だから、あの国に教える義理はないわ。こっちの生活が安定するようなら、家族や知合いを呼ぶのも良いかなとは思っているけど。そう言えば、見れば分かるけど、あなた方は森人よね? あたしたちが住んでるあたりにいる木の精霊が、森人なら贄を寄越せ、みたいなことを言ってたんだけど、何か知ってるかしら?」
「あらぁ、言ってました? それじゃそろそろ運ばないと」
トリシーの言葉に横でお茶の用意をしていたヘンリクは片方の眉を上げ、笑みを浮かべた。
「どうぞ。住んでいる辺りで採れるハーブで作った粗茶だけどね」
「あらありがとう。良い香りね。まだ来たばかりなのに、嗜好品まで育てているのね」
「育ててるというか、うちの農業担当が林で見付けて、移植したのよ」
本来ならば『木の精霊が言っていた』等と言う話を真顔でしても笑われるだけだ。
トリシーはしかし、笑い飛ばさずに話を続けている。
だからマーヤは一歩踏み込んでみることにした。
「森人は木の精霊に何をお願いして、どんな贄を約束しているのかしら」
「……んー、とても言いにくいのよね。下の話になっちゃうんだけど、木の精霊は少々特殊な肥料を欲しがっているのよ」
「下で肥料? ヘンリク、分かる?」
「……んー? ああ!」
分かった、とヘンリクは手を打った。
「なるほど。堆肥の類いですね。贄と言うからには更に獲物の骨や血などもでしょうか?」
「あれだけのヒントでそこまで分るの? ……まあ当りですけど。まだ肥料を届ける予定まで間があるはずですが、近日、お持ちする予定なんです」
「何をお願いしているのかは?」
「秘密です。まあ、ごく普通のことですよ」
「それにしても、木の精霊と話をしているなんて話、真面目に聞いて貰えるとは思ってなかったわ」
マーヤがそう言うとトリシーは不思議そうに首を傾げる。
「精霊と対話する森人がいるって事は、精霊神殿のヒトは知ってて、昔は色々橋渡しを頼まれたと聞いた事があるのだけど、秘密にされているのかしら?」
「初耳ね。まあ、精霊神殿は割と何でも秘密にするから……ところで、あなた達はどんな作物を作ってるの?」
「芋と豆かしらね。伝統料理とかで使うから。あと、麦を少し。物々交換出来る物って事だと、うちから出せそうなのは夫が狩ってきた獲物関係かしら」
「なるほど。毛皮とかはあたしたちの所では不足するかもだから、そういうのは助かるわ。あたしたちの方からだと、お酒と農作物が中心になるわね。ただ、ここまで距離があるから、葉物野菜は難しそうね」
ふむふむ、と話を聞いていたトリシーは、
「このお茶とかはどうかしら?」
「出せるけど、多分、ここでも作れるわよ?」
「使ってるハーブの見当は付くんだけど、多分私じゃこの味は出せないかな。だから交易があるようなら候補に入れて欲しいのよ」
「ん。制作者には、すごく気に入ってもらえたって伝えておくわ」




