33.満月の夜・2
『待ちかねた。次からは水は最初から注いでおけ』
祭壇を調え、アントンが祝詞をあげると、その言葉と共に木の精霊が現れた。
木の器の底の複雑な模様が、黄色みがかった柔らかな光を放つと共に、器の中の水が減っていく。
「かしこまりました」
『……ふむ、良い水じゃった。言葉を交わしたいのはそちらのヒトじゃな?』
木の精霊は、輪郭が曖昧なその顔をヘンリクに向ける。
アントンは、その姿を見て軽い違和感を感じる。
前回同様、その輪郭は曖昧なままだ。
だが前に見た時は、どことなくクリスタに似た姿と感じたが、今日の姿は、背丈こそ子供のそれだが妙に年寄り臭く感じる。
と、ふいに木の精霊の顔がアントンに近づき、その耳元で
『アントンよ。精霊に形はない。この姿は言葉を交わす者が作り出す仮初めのもの』
と告げる。
その声と見た目はまたしてもどことなくクリスタに似ていた。
「なるほど……」
そう答えたアントンは、自分が声に出していなかった事を思い出し、これがヘンリクが言っていた「精霊は心を読む」ということか、と納得した。
――精霊魔法はイメージで効果が変化する。故に精霊は心を読む。
予想外の出来事ではあったが、予めその情報があったため、アントンは冷静を保って頭を下げて礼を述べるに留められた。
「ご教示、感謝いたします」
『うむ。さて、ではそこの者。許す。顔を上げ、思うところを開陳せよ』
再びヘンリクに顔を向けた木の精霊がそう告げると、ヘンリクはゆっくり顔をあげる。
「感謝します。私は……」
『飾った言葉では届かんぞ?』
まだほとんど何も言っていない内から木の精霊にそう言われ、ヘンリクはしばしその意味を黙考する。
そして
「……分かったよ。僕はヘンリク。アントンの友人だね。無礼な物言いになったらゴメンね」
といつもの言葉遣いで話を始める。
『無礼を許すとは言わぬが、敢えての無礼でなければ見逃そう』
「ありがとう。それじゃ、最初に今後のお互いのために質問。水の精霊魔法で作った水って、木の精霊なら自分でも作れるよね? なんでヨーゼフに作らせたのを欲しがったの?」
『供物は含まれる魔力の性質が異なる。ヒトに言っても分かるまいが……お? 主は理解しておるのか。それが正解に近いぞ』
そう言われ、ヘンリクは、あー、とちょっと困ったような顔をする。
「心の込め方次第で魔力にそれ以外の何かが乗るっていうヤンカー子爵の仮説が当りかぁ。なるほど……では、真摯な感謝の祈りも好ましいのかな?」
『うむ。強制はせぬが、すこぶる好物じゃ。特に子供の祈りは欲望に正直で良いな』
「子供が? 欲望に正直? …………ああ、なるほど」
「そうね」
「そうですね」
「そうじゃな」
「そうだべなぁ」
ヘンリクが納得の声を漏らし、クリスタ以外の子育て経験者も思わず同意する。
『ほう。物わかりが良いな。ヒトは『子供は純粋』と言う者が多いのではなかったか? ……ああ、実際に子を育てたことがある者たちなのか』
「僕らはひとりを除いて孫もいる世代だからね。でも実際、子供は純粋で正直ですよ。自分の欲望とかに」
お腹が空いたと泣き、抱っこしろと泣き、何であれ気に入らない事があると泣くのが子供だ。
ひたすらに快を求め、不快を嫌う。
子供が大人になるというのは、知識が増え、様々な経験を積み、最低限の理性を身に付ける事だとヘンリクは考えていた。
「でも、良い事を聞いたよ。それなら、木の精霊を祀る場所を作って感謝をする機会を皆に与えるのは対価の一部になりそうだね」
『僅かじゃが、お主の考える値引き交渉には使えような……しかし面白い事を考える。精霊の加護を国の守りとする、か』
ヘンリクが何を言うまでもなく、木の精霊はヘンリク達の希望を理解した。
アントンはまたも心を覗かれたのかと考えたがヘンリクは
「もしかして聞いてた?」
と尋ねる。
『意識は向けなんだが、加護を与えた土地じゃ』
「なら、アントン君が持ってるメモの内容も知ってるんだね? 話が早いや。それが僕たちの望みなんだけどどうかな?」
『加護を与えた地を守るのは精霊の利にもなる。その守る手段として悪い考えではないが、草無き地までを加護の対象にすると約することはできん』
「まあそうか。権能にも限界はあるよね」
ヘンリクがこぼした言葉に、木の精霊は楽しげに笑う。
『無礼な奴じゃが無知故のこと。約束通り見逃そう。草無き地を加護する事はせぬが、予め定めた地に生きた草があれば、そこの加護は行なおうぞ。それでヌシらの望みと同じ結果が得られるな?』
「それ、荒れ地に加護を与えるのと同じじゃないのかな?」
『約定は、正しく伝えねばならん』
木の精霊の言葉にリコが深く頷いて同意する。
そしてヘンリクも、木の精霊が何に拘っているのかを理解した。
「なるほど、契約の文言と考えると確かに言葉の選び方は大切だね。うん、なら、そこを置き換えれば大丈夫かな? ヒトが増える話についても?」
『この地に来た者の内、お主らが認めた者が5才を数えた時に加護を与えるのは無理じゃ。ヒトの年齢など知らぬし、知る気もない』
「あー、そりゃそうだねぇ。なら例えば、加護を与えて欲しい者を集めて儀式を行なったりすればどうかな?」
『ならば年齢の別なく加護を与えよう。ただし、相性が悪いものには加護は付かぬぞ?』
年齢の別なく。と聞いてヘンリクは破顔した。
ヘンリクやリコもその儀式に参加すれば高い確率で加護を得られると気付いたのだ。
「なら、その儀式についての説明をする際に、常日頃から祈りを捧げる事で強い加護が得られるかも知れないという不確かな噂も流しておくのも面白そうだね」
『ほう、知恵が回る。名を何と言った?』
「ヘンリクだよ。もしかして覚えてくれるのかな?」
『ヘンリク、覚えたぞ。人間は見飽きておるが、変わり者は見て楽しいからのう。ああ、そうだ。対価だが、ひと世代だけではなく将来の長きに渡る加護ということであるなら、住人が99人までは今のまま。100人を超えた後、水の精霊の加護を得た者があればその水を。量は器三つ。満月の頃に。健康を害した場合などは不要とする。水の精霊の加護持ちがひとりもおらぬようになった場合も200年ほどは加護を継続する。また、十分な祈りがあれば、更に200年ほどは加護を継続する』
「大切なのは感謝の気持ちですか……これは僕の専門だけど、住民への教育が重要になりそうですね……ああ、土地の面……」
『加護すべき土地が増え、その面積が今の100倍を超えた場合は約定を見直す協議を人間主導で開催し、10年の間に協議での不首尾が続いた場合は禁足の加護を停止する。個人に与えた加護については取り上げることはせぬ……ヌシの心の内にあるのはこんな所か?』
◆◇◆◇◆
やがて木の精霊が楽しげに笑いながら消えていき、ヘンリクは大きく息を吐いた。
「ヘンリクも緊張しておったか」
「言葉は通じるけど微妙にすれ違ってる部分があって恐かったね。そりゃ緊張もするよ……ああ、契約内容は石板にでも刻んで、奉納や儀式はその石板の前で行なうようにしよう。それなら、数世代後になっても伝承は残るんじゃないかな?」
「良い考えだけと思うわ。思うけど、まずは生活環境の整備が優先よ。いずれは石碑を作るにしても今はまだ場所も決められないでしょうし」
土地の用途は概ね決まってきたが、人数が増えれば丘を切り崩すなどして、高台を広げたりするかも知れない。
そうなれば、様々なものの配置を見直す事になる。
二度手間三度手間になるのが見えているのだから、と指摘するマーヤに、ヘンリクは
「うん、確かに先走りすぎたよ。でも約束もしたから、いずれ移転するにしても小さな祠くらいは作るべきだね。で、体調に問題がなければ感謝の祈りを僕らと、これから増える者たちの日課にしよう」
と実現可能な代案を提示するのだった。