11.吉兆
夕食を終えて暗くなる前に片付けと翌日の用意。
ヨーゼフは水を生み出しては樽を満たす。
全力ではないが、それなりに疲れてすぐに眠りに就く。
本日の夜番はマーヤからだ。
露頭した岩が増え、日中でも日陰となる部分がやや増えたためか、蛇と虫の姿が少し多い。
蛇は捕らえて下ごしらえまで。
虫は、軍で兵士が小遣い稼ぎに使っていたサソリだけ、殺さずに箱に入れておく。
サソリの用途は主にふたつである。
ひとつは、蒸留酒につけ込んだ蠍酒――薬酒である。味は普通の酒だが、滋養強壮に良いとされる。
もうひとつは生薬である。
作り方は簡単で、下ごしらえとして数日絶食させてから真水で溺死させたものを干す。
痛み止めや強壮薬として効果があるとされ、干したものを粉にして煎じて飲んだりもする。
人によっては揚げて食べた方が良い、いや薬酒がよいなどと意見が割れるが、干しておけばいずれにも利用できる。
サソリを見付けては可能な限り生きたまま捕まえ、殺してしまったものについては、岩陰のそばに蛇を解体したときの排水と一緒に撒餌としてばら撒いておく。
なお、蛇の内臓は綺麗に洗ったものを軽く干し、鶏に与える。
荒れ地で見掛ける最大級の獣が小さな蛇である。
鳥の声も、虫の羽音も聞こえない。
今はそこに焚火の煙の匂いが混じっているが、空気はひたすら乾いた砂の匂いだ。
岩に腰かけ、満天の星空を見上げてマーヤは溜息を吐いた。
(水源がないことの証拠ばかりね……せめて羽虫でもいれば良いのだけど)
比較的丘の少ない東の空に月が顔を出した。
月齢23の下弦の月。
満月から痩せて、半月を過ぎた下弦の月である。
この掛け具合の月が登るのはほぼ夜半で、そろそろ交代の時刻である。
マーヤは立ち上がり軽く体を伸ばす。
寒さに固まっていた腰と肩のあたりの筋肉がピキピキと音を立てる。
「そろそろアントンを起こさないとね」
差し込んだ月明かりで、岩陰がより黒く染まる。
そこに潜む脅威を見逃さないようにとマーヤは暗がりに目を向ける。
その視界に白い何かがよぎった。
そちらに視線を向けると、
「あら、吉兆ね」
月の光に誘われたのか、それほど遠くない場所を数匹の蛾が舞っていた。
暗順応した目を守るため、片目を閉じてマーヤは蛾の飛んできた方角、飛んで行く方角のアタリをつける。
(飛んで来たのは月の出のすぐ後。そんなに遠くじゃないわ……飛んで来たのは西……)
蛾は、ひらひらとマーヤの頭上を越えて月を目指して飛ぶ。
そちらに行けば乾いて死ぬだけだろうが、いつまでも月を追い掛ける蛾。
周囲の警戒をしつつもマーヤはその蛾を見送る。
そして、砂礫に蛾の軌道を示す直線を書いて、そこに薪を乗せておく。
という作業中にアントンが起きだしてきた。
「あら、アントンも自力で起きられたのね。軍隊流に起してあげようと思ってたのに」
「心臓に悪そうじゃからやめてくれ……で、その薪はなんじゃ?」
「蛾が数匹、飛んでいたのよ。あっちからあっちに向けて」
マーヤが指差す「あっちから」の方角を見るアントン。
当然ながら丘と星空しか見えない。
が、星が見えているならアントンでも方向が分かる。
空を見上げ、真北に三つ、小さく正三角形に並んだ導星を探す。
マーヤが指差したのはそれらよりもずっと左寄りだった。
「蛾が来たのは西寄りじゃな?」
「そうねぇ……あ、この薪は、蛾の進路を表した物だから弄らないでね? あたしはもう寝るわ」
「うむ」
荒れ地の地表には水がなく、植物もない。
荒れ地に入ってからアントン達が辿った道程には木は皆無。
小さい枯れ草色の草が100メートルに数本程度という状況で、大半は枯れ草色をしているだけではなく本当に枯れ草だった。
だが、それらの根を餌にする昆虫が棲息しており、サソリはそんな昆虫を餌にする。蛇はそれらを餌にする。
それが普段の荒れ地の生態系だった。
まともな草はないため、羽虫や蛾の幼虫が食べるものはない。
だから荒れ地では羽虫の類いは見掛けなかった。
(……強風で飛ばされてきた可能性もあるが、数匹というなら水がある可能性が出てきたか)
夜番の間、アントンは進むべき方向をどのようにすべきか、考え続けた。
◆◇◆◇◆
「今日はここに留まり、クリスタには近くの丘に登って欲しい。ヨーゼフは登るべき丘の選定。マーヤはクリスタに持たせる荷の準備を。登るのは準備が整ってからじゃ」
それがアントンの出した結論だった。
近くに水がある可能性がある。
ならば、丘に登れば何か見えるのではないか。
緑が見えなくとも、鳥や虫が見えれば。というアントンに詳しい話を聞いたヨーゼフは
「丘については選定も何もないべ、わしらから見て西……うん、ほれ、そこの丘なら、他と同じくらいの高さで見た目もほぼ同じじゃ。それ以上、下から見ただけで分かるものかよ」
と答える。
「まあそうじゃろう。じゃが、それなら、登りやすそうに見えるルートを見ておいてくれ。マーヤの方はすぐに準備できるかね?」
「ええ。でも準備と言っても、背嚢に水筒と携帯食、皮の手袋とゲートル、持って行くロープの用意程度しかできないわよ?」
「十分じゃ」
「……おじいさまはどうして水が近くにあると考えてらっしゃるのでしょうか?」
クリスタの問いにアントンはそう考えた理由を述べた。
「荒れ地に水がなく、昼は暑く、夜は寒い。空を飛ぶ昆虫には過酷な世界なんじゃよ。じゃから強風で運ばれてきたのでもない限り、荒れ地を渡る途中で蛾は力尽きる筈じゃ。しかし、蛾は複数いた。強風で飛ばされてきたのなら、それはおかしい。であれば、水場があって、そこで生まれ育ったと考える方が自然じゃろ?」
実際の所は、そう願っているというのが正しいな、とアントンは笑った。
「その上で、仮に蛾の生息地がオアシスのような点である場合、方向が数度ズレれば辿り着けない可能性が高いじゃろ? だから、丘に登って何か見えないかを確認して、方向を正すなら正しておきたいんじゃよ」
そう説明するアントンにクリスタは頷いた。
「では早速登りますか?」
「マーヤ達の準備が出来次第な。それまで少し体をほぐしておけ」
「はーい」
そうこうする内に必要なものを詰めた背嚢を持ってマーヤがやってきた。
小さな背嚢ひとつと、手袋、ゲートル。それにその肩にはかなりの分量の丈夫そうなロープまで掛かっている。
「ん? 随分と多いな」
「そう? でもロープを下ろしてもらわないと、あたし達は登れないでしょ?」
「わしらも登るのか?」
驚いたようなアントンに、当たり前でしょ、とマーヤはあきれ顔である。
「あたしは登るわよ。斥候は知識と経験が必要な責任重大な仕事よ? クリスタちゃんにそんな責任を負わせる気?」
偵察の結果で全員の今後の動き方を決めるのだ。
今回に限らず、斥候の責任は重い。
「いや、じゃがクリスタは11歳の子供じゃぞ? そんなロープを持って登れるとはとても」
荒れ地に入った辺りと比べると、丘は小山と言っても良いほどに高くなっており、頂上部分で一番低い部分から30mに足りない程度に見える。
垂直の高さがそれでこの傾斜角だと、とアントンが傾斜面の長さを計算すると、その距離は60~70m程度と分かった。
アントン達がいるのは他の丘と交わる丘の中腹なので、登る高さと距離はその半分ほどとなる。
マーヤが持ってきたのは20mほどのロープが2巻。太さは1センチほどと頑丈な品であるが、相応に重い。
40mにもなれば、重量は合計5キロを超える。
「これを持って登るのは難しそうですわ」
平地で運ぶだけならクリスタでも運べる。
しかし、崩れやすい砂礫の山を登ることを考えるとその重量はかなり難しい。
クリスタはマーヤが持つロープを見てそう判断した。
「違うわよ? クリスタちゃんに持ってって貰うのはこっち」
マーヤは細い紐を取り出してクリスタに見せた。
その先端は、太いロープに結ばれている。
「頂上までの中間地点まで細引きを持って登って、途中でロープを引き上げるのよ」
ロープを斜面で引き摺るため、摩擦抵抗が発生するが、止まって引っ張るのならクリスタの膂力でも出来なくはない。
引き上げるロープに予め輪を作っておけば、岩に引っかけるだけだ。
そのロープを使ってマーヤが合流し、残りの一本を引き上げる。
そして次は頂上でクリスタが同じ作業を繰り返すのだ。
「そんなわけだから、ヨーゼフ。安全そうなルートとロープを掛けられそうな岩を選んでね」
「わしがかや? まあええけんどなぁ」
想定してるのは麻のロープ。太さは大凡12~15mmです。
手で作ってる品なので、太さにはややばらつき(太い方向に)があります。
20mで重量は2.3キロくらいになるでしょうか。
それを二巻分ですね。
不可能ではありませんが、重たいものを持って上がるのはリスクがあるとクリスタは判断しました。
なので「無理」ではなく「難しい」と言ってます。




