5 金曜日の夜に
あっという間に金曜日。
私のチームが担当するある薬品については、ほぼ治験が終わり、今は有害事象(その薬品を使って、発生した事柄)をまとめ、知見担当医師との打ち合わせ。
申請書類のドラフトを書く時間を考えると、今週中に終わらせたくて、だいぶ詰め込んだ一週間になってしまった。
その回あってか、なんとか次へのゴーサインが出た。
「この有害事象の説明、詳細でわかりやすくて助かりました。この薬の効果自体はよくあるものだけど、承認されたら、また一つの選択になるかな。この先、宜しくお願いします」と、担当の医者から声をかけてもらった。
私は同僚とともにありがとうございましたと伝え、会社に戻った。
まだまだ承認までの道のりは長いけど、まず、一歩。
報告書送信し、20時。
今週、あれから西園寺先輩と話す機会はない。
会わない、話さないように、避けていた。
さて、帰ろうとしたその時、携帯がピロロンと鳴った。名前をみると、恒星くんだった。
「お疲れ様です!仕事、終わりました?」と聞かれて、「お疲れ様です。はい、ちょうど帰ろうと思ってたところです」と答えた。
「それはよかったです!では、お裾分け渡すのと、ご飯どうですか?」
お裾分けの返信してなかったことに気が付いて、息を吸った。
「!」
そんな私に、恒星くんは電話口で笑いながら言った。
「ひかりさん、忘れてたでしょ?まぁ、いいですけどね」
そしてお互いの自宅最寄りの駅近くの居酒屋に集合した。
「お疲れ様でーす」と言って乾杯する。
恒星くんは、薬事部という厚生労働省への承認申請業務を担当する部門に所属している。開発部が治験した薬品申請の最終審査部門。薬品情報、情勢、法律といった専門的知識を必要とする部署。
基本的には本社の内勤で、残業は少なめ。
とはいっても、限られた時間の中で、日々、薬事法の勉強が必要。歩く辞書になることを求められる。入社して、経験もないのに、いきなりこの部署への配属は彼にとって、大変だったのではないだろうか。
「今日は時間があってよかった!はい、これ、お裾分けの海苔です」
大量の味海苔。瀬戸内海の有名な海苔。
「ありがとう、恒星くん。これほんとに美味しいよね。美味しくいただきます」
「喜んでもらえてよかったです」
お裾分けの入った袋を横に置いた。
ウーロンハイを飲んで、「はぁ、やっと申請できる。お世話になります」と私は言った。
「あはは、その先もモニタリングしておきます?」と恒星くんは言った。
「そこは任せます。他にも抱えてるし、最終結果は連絡くるから」
ですよねーと、相槌を打たれ、「じゃっ、改めて、カンパーイ」とグラスとグラスで乾杯した。
恒星くんはぐっとビールを飲み、
「そういえば、海斗先輩と何かあったんですか?」と意味深に聞いてきた。
私は飲んでたウーロンハイを気管に入れそうになり、げほげほと咳き込んだ。
「あー、やっぱり。なんかあったんだ?」と恒星くん、ため口になった。
私はちょっと焦って、「えっと、先輩から聞いた?」とちょっと探りを入れる。
「言うわけないじゃないですか。……でも、モロバレですよ」
そ、そうですかと私は動揺しながら思った。
「で、何があったんですか?」
「…………」
答えられるはずがない。
しげのことも、先輩のことも。
私の無言を察して、「ひかりさん、全部言わなくてもいいんですよ?言える部分で」とフォローを入れてくれた。
「あ、うん」
「とりあえず、飲んでください」
ウーロンハイを渡される。
「は、はい」
飲んで、おかわりを注文する。
飲み物が来る間に、恒星くんは「何かわからないですけど、まずひかりさんは、海斗先輩に言いたいこといってください」と言った。
それなら……と率直な思いを言った。
「先輩は、私にとって雲の上の人で、恩人で、心配かけたくない人。だから、たとえばここに悩みがあったとして、先輩には言いたくない」
うんうんと恒星くんは頷く。
「なんかなー、ひかりさん。優等生的発言。愚痴ないですか?あの人、チームのリーダーですよ?」と煽るような言葉を言う。
私は考えて、「うーん、よく見てるし、何かあったらすぐフォローしてくれるし、強いていえば、人を働かせるの天才?」
それを聞いた恒星くんは口を前に出して、不満げな顔で、つぶやいた。
「愚痴じゃないし」
納得してくれないので、続けた。
「馬車馬のように働きたくない人もいるだろうから、考え方次第だと思うけどね。私は働きたいから、肯定的に捉えているんだと思う」
それを聞いて、「わかりました。仕事上は問題なし、と」と結論づけた。
あ、と私は呟いてしまった。
「じゃあ、日曜日の帰りになんかありました?」と聞いた。
す、鋭い。
これはもう観念して言うしかないのか……と私は私なりの思いを言った。
「困ったことがあれば言ってと。この前、皆、それぞれの思いが見えたけど、私は感情が見えないって。だから、心配だったんだと思う」
あれ?さっきと同じことを言ってる、私?
自分の繰り返しの発言に、疑問に思ったけど、その回答に、ふぅーと恒星くんは息を吐いた。
両手を組んでその上に顔をおいて、「何やってんですか、海斗のバカ」と言った。
バカ呼ばわりにちょっと驚いて「えっ?」と言ってしまった。
恒星くんは私の言葉を気にせず、続けた。
「いや、そうでしょう?さっき、ひかりさんも言ってたけど、心配してるってわかった所でその内容を言える人と言えない人がいるじゃないですか。海斗先輩自身、絶対、後者」と、テーブルにグーにした手で叩いて、力強く言う。
その姿に、私はふふと笑ってしまった。
「そーだね」
それを見て、恒星くんも笑って、「あ、やっと悪口に同意。じゃあ、僕も言いますけど、海斗先輩、弱みを見せない。あと、人に優しすぎる」と言い出した。
納得して、同意した。
「うんうん、そうかも」
そして、「あ、話していて、気がつきましたけど、ひかりさんも、わりと似てますよ?」と言い出すので、私は突っ込んだ。
「それ、悪口?」
いえいえと言いながら、「まぁ、悪い所と良い所は紙一重って言いますからね」
うまくかわされた。
「二人の違いは、ひかりさんは弱い所を見せないんじゃなくて、自覚してないだけ、だと思います。海斗先輩は多分……やっぱ育った環境のせいなんだと思います」と真面目に話しだした。
そして「じゃあ、わかった所で、電話しますか?」
携帯を取り出して、操作する恒星くん。
「えっ……ちょっ」
私の静止も止められず、電話を続ける。
電話が繋がったみたいで、話し出す。完全に酔っ払いのノリ。
「お疲れ様でーす。今、5分、大丈夫ですか?え?飲み屋かって?そーですよ。飲んでます。ちょっとひかりさんから伝言あるんで」
恒星くんはジェスチャーで携帯を指す。
電話を変わる?ってこと??
いやいや、無理です。
私は困ってバツ印を両手で作る。
「心配しなくても、大丈夫でーす!センパイが弱み教えてくれたら、言ってもいいけど、だって」と余計な一言までご丁寧につけて恒星くんは電話口の海斗先輩に言った。
私は恒星くんから携帯を奪って、「す、すみません。あ、の、心配かけてすみません。あの私は大丈夫なので」とつい、言ってしまった。
携帯から雑音は聞こえず、先輩の声はクリアに「狭山?そこにいるの?あー………うん。わかった。二人共、飲みすぎるなよ?」と言って電話を切った。
携帯を返したら、「これで一件落着」と言ってにっこり笑った。
恒星くんが何で私と先輩のギクシャクした状況を知ったのか、わからないけど、恒星くんはどうやら取り持ってくれたみたい。
いくら面と向かって話す機会がないとはいえ、仕事上、関わりあるし、困っていたから、気持ちが軽くなった。
「恒星くん、ありがとう」
彼はちょっと照れた。
「どういたしまして。お裾分けの話したら、連絡あったか?と何度も聞いてくるし、何かあると、海斗先輩、食欲落ちるから困るんですよ。食事は元気の基本です」
それでわかったわけ、ね。
くったくなく笑う。
部署内でも、彼のコミュ力は有名だ。
歩く辞書は、使われなければ意味がない。人に溜まった知識に問い合わせしやすく、且つ、関係各所との交渉事に、窓口となって調整する。
彼が絡む案件はスムーズに進むと専ら評判だった。
そんな恒星くんは真梨恵が私を紹介したように、先輩から紹介された。
先輩の横に、だいたい恒星くんはいた。
真梨恵は、先輩を落とすのにまず恒星くんと仲良くなると言い出して、大学で皆で同じテニスサークルに入ろうと誘った。
学年は一つ下で、もともとは話す機会もなかったけど、ゼミから一緒になって、今まで付き合ううちに、何で先輩が気を許してるのか、なんとなくわかる。
きっと彼は分け隔てなく、人に接することができる人なんだと思う。
彼にとっては、先輩は違う世界の人じゃなくて、同じ目線に立って話せる人。
先輩だけじゃない。私に対しても、そう。
つい、じっと顔をみてしまった。
「何か僕の顔、ついてます?」
私は思い切って、言った。
「一つ、質問があります」
なんだろうという顔をして、「どうぞ、答えられる範囲で答えます」と言った。
私は先程の先輩と私の話で疑問に思ったことを聞いた。
「先輩から悩みを相談されたことがあるの?」
彼はうーんと考えて、「酔っ払ってる中、難題出しますね」と神妙な顔つきで言った。
「うーん、相談されたような、されてないような。まぁ、直接的には何も言われてないですけど」
「僕が思う、あの人の悩みは、孤独なことだと思う」と言った。
ちょっと固まった。
これ、私、聞いていい話題だったのかな?と思った。
「ひーかーりーさん?」と顔の前でひらひらさせて、
「さっき、ひかりさんも言ったでしょ?先輩は雲の上の人って」
「やっぱりそういう風に見られているのもわかってるから、人という人に気を遣っていますよね。まぁ、あと家もそういう空気だと思いますよ」
私はうんうん、と頷いた。
先輩は男女ともに受けがいい。
自分の持ってる背景を気軽に開放している。必要だと思えば紹介するし、利用させてくれる。
空気も読むし、話を聞いてくれるし、嫌味も受け流し、付き合いやすい。
だから学生時代、職場とだいたい周りに人がいる。ランチは社食であれば、どうも恒星くんと二人で食べてるみたいだけど、それだって別に一緒に、といわれたらどうぞ!みたいな空気だし。
ただやっぱり違いはある。
真梨恵はよく言ってた。
先輩、お屋敷住んでて、住み込みの家政婦さんがいて、すごいですね!と言ったら、早く家出たいって。寮生活みたいなものだと思ってたけど、お金持ちにはお金持ちの悩みありそうって。あと大学時代、何人かと付き合っていたけど、婚約者じゃないけど、既に決まった相手がいて、それを理解した人と付き合ったとか。
断片的に流れていた情報をつなぎ合わせて、先輩という人を形作る。
人それぞれ多かれ少なかれ、孤独はあるんだろうけど、状況を共有できない、理解されない孤独。
真梨恵の一周忌で大学では見せなかった、寂しそうな横顔。
恒星くんは、テーブルにうつむせになって、「何で先輩が薬学部、選択したか知ってます?」と聞いた。
私は思い出しながら、答えた。
「それは、亡くなったお母さんを救うような薬を作りたい、だったような?」
「それもありますけど、学力的には医学部も法学部も狙えたのに、家に反発して、地に足つけて自分の力で働きたい、ですよ」
先輩も居場所を探してたのかな。
真梨恵のメールがこの一年来ないことに慣れないと言って泣いた先輩を思い出す。
「だからひかりさん。さっきみたいに、先輩に思ったことを言ってください。先輩はそれをきっと待ってますよ」
これでこの話題はおしまい、と言って笑った。