56 帰路
時間が経つのは早い。あのドラゴン襲撃の日から次の満月の日、『龍の爪痕』にエストーレ王国からの使者が来た。エマ王女からの正式な使者だった。そこにはヨナからの手紙と王国への招待状も付いていた。エクレルを王国に戻すのと、爪痕から代表として族長のミサリアと娘のウィステリアがエストーレ王国へ行くことになった。途中、魔獣に襲われた時のために、一人剣士を連れて行くことになったとき、カルロがシュリを推薦した。それを聞いたシュリは飛び上がるように喜んだ。
そして、出発の当日。ミサリアとウィステリアは慣れない馬上の人となった。エストーレ王国の使者が手綱を握る。シュリはエストーレ王国の護衛と一緒に馬に乗ることになった。そこで偶然の再会を果たした。エストーレ王国の護衛はナーシスだった。何度か剣を交えた仲であったが、今回は敵同士ではない。二人はぎこちなく同じ馬に乗って出発した。
エストーレ王国で起こった龍神教の政変。白の騎士団団長の謀略。そして、ドラゴンの襲撃。全ての事件の事後処理をエマが仕切っていた。国王のファニールはジルが捕まる前に幽閉場所から救い出されていた。それを手引きしたのはアコーニットだった。
アコーニットは龍神教の政変後、すぐに接触してきたダークエルフのノクリアと密かに情報交換をしていた。アコーニットは最初からジルの企みには裏があることに気が付いていた。政変には興味が無かったが、孤児だった時に、手を差し伸べてくれたボニファスの期待に応えることには迷いはなかった。特に黒の騎士団は全員が龍神教が管理している孤児院出身だ。ボニファスに命を捧げる覚悟が出来ている。ジルはそのボニファスを裏切ろうとしていた。アコーニットにはそれだけは許すことができなかった。
ジルの企みにある程度のウラが取れたことで、エマと示し合わせてひと勝負に出ることにした。夜中にジルを呼び出し、ノクリアを捕まえたと思わせておいて、自供に追い込む作戦だった。ノクリアはアコーニットに尋問されていたことにするため、軽傷程度を負って衣服を傷つける必要があった。ただの偽装で良かったのだが、ノクリアに『遠慮なく思う存分痛めつけてくれ。さぁ!』と言われて、さすがのアコーニットもかなり戸惑った。
その作戦はアコーニット側にはいろいろ誤算があったが、最終的には成功した。ジルは大人しく降参した。後日、アコーニットはジルの取り調べを行った。ジルは全てを話した。ボニファスを殺したことも。その瞬間、アコーニットは全ての感情が憎悪に支配されて、ジルを手にかけようとしたが、カーラがギリギリのところで止めた。ジルは嫌いだったが、同じ孤児院出身の同志だと思っていた。許せなかった。ジルの主張にも共感できる部分はあった。かろうじて、元同志に対しての言葉をかけることができた。
「ジル、お前が正しいかどうかは俺には分からん。ただ、お前はやり方を間違った。子供のとき、あの絶望の中、手を差し伸べてくれたのはボニファス様だろう。今の俺たちはあの人に生かされてのだ」
それを聞いてジルは全てを後悔したように慟哭した。後悔しても仕切れない。自分のしてしまったことは、返ってこない。そして、ボニファスのあの優しい眼差しも、あのとき握ってくれた温かい手の温もりも。どうして。どうして自分は間違ったのか。ジルは何度も自問したが、答えは出てこなかった。ただ、そのときは盲信的に自分が正しいと思い込んでいた。それが何故だかは分からない。何かに突き動かされ、周りが見えなくなっていた。あの優しい恩師をの心の弱い部分を巧みに操って、焚き付けてしまった。自分の欲望の傀儡にしてしまった。そして自ら手を掛けてしまった。ジルは自分の中にもう一人の別の人間がいるような気がして、恐ろしくなった。そして、自らの心に固い殻を作って閉じこもってしまった。その殻を開けたときに出てくるのが、自分なのか、もう一人の自分なのか分からなくて、怖くて、考えるのをやめてしまった。
エマは『龍の爪痕』への使節団の帰国を迎える準備をしていた。今朝の報告で、ジルが完全に何も話さなくなったと報告を受けた。ジルを狂わせてしまった『何か』については結局のところ分からなかった。人の中にある弱い心を餌にして、人を狂わせる『何か』があるのだろう。『ドラゴンはもういない。この世界は平和になった』と宣言できない限り、それはずっと人の心の中にいる。もし、常に心の奥底から虎視眈々と表に出る機会を伺っているとしたら、いつ第二のジルが現れるか分からない。それを考えると頭が痛かった。
『龍の爪痕』からの使節団がエストーレ王国に到着した。そこにウィステリアがいると聞いてエマは跳び上がりそうになった。彼らが控え室に入ったと連絡を受けるやいなや、エマは控え室まで走った。周りから止められたが、そうしないといけないと自分を急かす『何か』が止めてくれなかった。部屋に入るなり、ウィステリアに向かって抱きついた。
「ウィステリア、無事でよかった。そして、ありがとう。本当に。何てお礼を言っていいか分からないよ」
「お、落ち着いて下さいよ、エマさん。紹介したい人がいるから。ほら、離れて下さい」
エマはウィステリアに促されて、周りを見ると、ウィステリアの他に二人がいることに気づき、姿勢を正した。そこにいたのはウィステリアの母でり、『龍の爪痕』の族長のミサリアと、護衛のシュリだった。エマは落ち着いて一通り挨拶をした後、そこで思い出話に花を咲かせた。
その後、公式の場でエストーレ王国と『龍の爪痕』とは、未来永劫、協力関係を結ぶことが宣言された。その日はささやかな祝宴が行われた。そこにはヨナとサーシャも参加した。ノクリアもいた。ウィステリアはヨナがいると知って、急に顔を赤らめて食べていた食事を喉に詰まらせた。それをミサリアとサーシャにからかわれて少し拗ねていた。シュリは王宮内をキョロキョロしながら常に食事を口の中に入れていた。
ノクリアはいろんな人へ挨拶周りをして、顔を広めていた。彼女が諜報員であることは限られた人間しか知らない。これも彼女なりの仕事なのだろう。
そんな祝宴を羨ましそうに眺めている人間がいた。会場の護衛をしていた黒の騎士団ロズド隊の四人であった。
「ナーシス様、ご飯おいしそうですね」
「パッカス、言うな。余計に腹が減る」
「ナーシス、俺はもう我慢できんぞ」
「馬鹿ロズドっ! 落ち着け。アコーニット様に怒られるぞ」
「ナーシス何言ってんだ。俺は腹が減って限界なんだ。怒られるだけで済むなら、行った方が良くないか?」
「ロズド様、だめです。止まって下さい」
「離せ、カーラ! あんな美味そうなもん、食べる機会なんて滅多にないぞ」
と、そこへノクリアが現れて食事を運んできてくれた。
「おつかれさま。少しだけでごめんなさいね。皆さんで食べて下さい」
「「はっ、はい!」」
黒の騎士団が全員で恐縮した。ノクリアが離れて行くと、皆が一斉にホッとため息を付いた。
「おい、カーラ。あれがアコーニットのおっさんがビビってる女か」
「はい、まさしく。先日の件の後、『あの女は危険だ。できればもう関わりたくない』とおっしゃっていました」
「それは、相当危ない奴だな。俺たちも近づかないようにしよう」
ナーシスもパッカスも激しく同意していた。あの鬼のアコーニットが二度と関わりたくないとまで言わせた女だ。出来ればこちらも関わりたくない。
次の日。ミサリアとウィステリア。そして護衛のシュリは『龍の爪痕』に帰ることになった。ヨナとサーシャはまだ仕事が残っていたので、後から戻るとのことになっていた。エマとウィステリアの長い抱擁の後、『龍の爪痕』の面々は帰っていった。エマだけが寂しそうな目をしながらいつまでも見送っていた。
「えっと、エマさん。まだ僕たちは帰れないんですかね?」
ヨナが恐る恐るエマに尋ねた。
「そうね、あと残り100個。ゾール紙を作ってからにしてね。ヨナが作ったゾール紙は威力が違うんだから」
「ええー、あと100 個もですか?」
ヨナが泣き言を言うと、すぐさまエマが反論してきた。
「あら、いきなり王国までドラゴンに乗って現れたと思ったら、内緒にしといてくれって言ったのは誰でしょうか? 結局国民の中にそれを見た者がいて、それを揉み消すの結構大変だったのよ。それくらいのことしてもらっても十分にお釣りがくるわ」
「でも、上手く収めたじゃないですか。『ドラゴンが現れたが、王女エマの祈りを聞き届けてくれて、天に帰った』なんて」
「ええ、苦し紛れ過ぎて自分でも恥ずかしいくらいだわ。お陰で龍神教から『聖女エマ』なんて名前で呼ばれるんだからね」
「け、結果的にはよかったよね。双方の勢力が手を握り合うきっかけになったんじゃない?」
「……まあね。でも結果論でしょ。あの時は本当に終わったと思ったんだからね。だから、私の気の済むまで手伝ってもらうからね。ミサリアさんにもさっき許可貰ったんだから。文句言ってるのはウィステリアくらいよ」
「……ミサリアさーん」
ミサリアにまで許可を貰っていたとは。なんと抜け目のない王女だ。ヨナは仕方なくゾール紙を作る仕事に戻った。
その数日後、ヨナはようやくエマから解放されてサーシャと一緒に『龍の爪痕』への帰路についていた。
「大変だったね。ゾール紙の作成おつかれさま」
「『大変だったね』じゃないよ。本当に疲れたんだから。何でサーシャは手伝わなくて良かったのさ?」
サーシャは勝ち気な顔を見せた。
「えっへん。私は王女様の命を受けて、一人優雅に過ごしていたんですよ。たまにエクレルの様子も見に行ったりしてたしね」
「……余計なことされたくないから、実質幽閉されてたんじゃない?」
エクレルはあれから傷が回復して動けるようになっていた。とは言っても、激しく動けないため、エマによってサーシャと同じくほぼ幽閉されている状態だった。だから幽閉されている者同士、暇だったのだろう。
「いえいえいえ、失礼な。毎日のようにエマさんから命を受けたお客さんが来て、『この液体に魔力を注いでくれ』って言われて忙しかったんだから」
「そうなんだ……、えっ、でもそれって、ゾール紙の染料じゃない?」
「えっ!? そうなの? もしかして私もゾール紙の作成を手伝わされてたの?」
ヨナは大きな声で笑った。
「ち、ちょっと笑わないでよ」
「だって、優雅に過ごしてたって言うのに、結局は僕と同じことしてたんだって分かったら、急におかしくなっちゃって」
珍しくサーシャが照れているから、余計におかしくなった。
「もう、何か急に疲れがどっと湧いてきたよー。もう歩くの嫌」
サーシャが急に駄々を捏ね始める。
「僕も疲れたよ。いっそこのまま、ドラゴンになって飛んで帰る?」
「そんなことしたら、またエマさんに怒られるよ」
と言いながら、サーシャはいつもの悪戯好きの顔になっていた。
しばらくすると、このドラゴンのいなくなった世界に、一体のドラゴンが現れた。その背には一人の人間が乗っている。そして、そのままオットー山脈の方へ飛び始めた。大きな風が周囲に巻き起こる。太陽は西の空に傾き始めていた。そのドラゴンは、まるで自分の家に向かって走る幼い子供のように、迷うことなく真っすぐ、西へ。




