『浮かずの大魚』 1
『浮かずの大魚』。
それは、湖という領地を本来は十全に支配する種の面目を丸つぶれにするにも等しい存在だった。
エルア家の領土のほとんどを覆う湖とその周辺の沼地……湿地帯は本来の住人であるスクウァーマの楽園であったはずなのに。
それにもまして許し難いことに、巨大魚はエルア家のものであるはずの湖底の城に彼らを近寄らせない、という行動で彼らの心を逆撫でしていた。
だからといって、だ。
「任せろ!」
突然訪ねてきた今代の『魔王』が乗ってきた竜がいうとおりに、全面的に任せてもいいものなのかは、迷うところだろう。
しかも強大な竜のままならまだしも、言った次の瞬間には軽快な破裂音と煙とともに、後ろ足で立ち上がっても腰の高さにも足りない小さな獣になったのだから、ますます迷うに決まっている。
「コータ様は、イリイーン領の眠らずの雪熊を倒しました。一度やらせてもらえませんか?」
訪れた『魔王』のもとへと赴いたエルア家の今代の当主、リザードマンのコアの背を押したのは、『魔王』本人からのその一言と、今までの九十五年間何をしても仕留められなかったゆえの、次策が無いがゆえのことだった。
その討伐が真実であれば、もしかしたら十年に一度、四天王役として一族の誰か一人を生贄に差し出さねばならないことを、終わらせられるのでは?
次にエルア家から出されるのは当主の弟の予定であり、その次は当主の姉の子だ。
ただやはり、その作戦の中身として伝えられた『鉄の船に化けて、ばくらいを落とす』というものについては、まったく理解が叶わず……『実物』を見た時には完全に固まってしまったのだけれど。
そう、見守るエルア領の者たちを含めた彼らの目の前で、タヌキという獣は何やら小脇に抱えたままかたわらの湖に飛び込んだ。
次の瞬間、まこと、鉄の船としか呼びようのないものが湖上に浮かんでいた。
「駆逐艦『まめだ』。全長五十メートル、最高速度は四十ノット。主兵装として九三式酸素魚雷、副兵装として爆雷。投射器も準備済みだ。ほんとなら、この二倍の大きさは欲しかったんだけど、おびき寄せようとするならでかすぎるとまずいからなぁ」
見上げるほどに、そして顔を横に動かさなくては船首から船尾までを見渡せないような大きな鉄の船からタヌキの声がした。
が、船上にその姿は無く、言っている内容は異国の呪文のようでわからない。
ぽかんとしているのは『魔王』ばかりで、隣のコア・エルアは固まっていた。
その緊張はトライデントを握る手からもうかがえる。
「し、しかし魔獣様、かの大魚は水中深くにおります。いくら頑丈な船とはいえ、攻撃が届かなくては」
その一発の変身が、コアの疑心を砕いたのだろう。
彼の口調は、タヌキに対してすっかり改まっていた。
「うん。それも考えてある。湖の中で……そうだなぁ、ぱっちんって鋏鳴らすエビとかシャコパンチのすっげぇのを起こすんだ。だからあまり魚のいないとこでやりたいんだ。すっげぇド派手に水柱あがっちゃうからな!」
どちらかといえばわくわくしている声で言われて、コアは目を瞬かせるしかない。
発破漁というものがある。
平たく言えばダイナマイトを水中で爆発させて、気絶したり死んだ魚を獲るものだ。
水中での爆発は、それに伴って衝撃波を生み出す。
だが発破漁が禁止されているのは、その衝撃波が付近に有るものすべてに及ぶからだ。
目当ての魚もそうでない魚も、大きい魚も小さな魚も根こそぎ獲るのだから、環境によろしかろうはずもない。
爆雷は、つまりそれを潜水艦に対してやるものだといえばわかりやすい。
だからこそ、魚のいない場所を戦場に望んだのだが、コアにはテッポウエビの例えで理解してもらえたようだった。
「ご安心ください。……魚のほとんどは、かの巨大魚に食いつくされました。どこでも、戦場にできます」
「ん」
その言葉に寂寞を感じてか、タヌキの応じる声は短く、しかしはっきりとしたものだった。
「大丈夫。俺がカタをつける。魔王と一緒に、魚の最期を見ててくれ」
「は、はい」
どこに口があるのかもわからないのに聞こえてきた声に、コアがうなずいた。
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元々は賑やかに、帆船や馬車ならぬ馬船……水中を泳ぐ馬であるヒポカンプスの曳く船、多くのスクウァーマたちの行きかう場であったらしい。
エルア領の中心部、つまり湖の中心部はだいぶん深さのある場所だった。
今は船もおらず、人もいないのはそこに別の住人がいるからである。
だが一向気にした様子も無く、タヌキは、もとい駆逐艦まめだはそこに浮かんでいた。
あたたかい……いや、熱い日差しの下、呑気にぷかぷか、錨も降ろさず波に任せて揺れている。
船であるというのにまどろんでいるような、長閑な光景ではあるのだろう。
そこだけ切り抜けば。
「……おう、きやがったな、雑魚」
たぷん、たぽんとさざ波が揺れる。
その揺れに任せていた鉄の船が、すぅっと動き出す。
船尾にはいくつもの円筒形の何かが並んでいる……。
「爆雷投下!」
タヌキの怒号のような声がするなり、駆逐艦まめだは動き出し、その航跡へと円筒をぽろぽろ落としていく。
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