『眠らずの雪熊』 結
雪熊、と呼びならわされたその魔獣は、抑え込まれたことに必死で抗っていた。
無防備な腹を晒す行為は、四足歩行の生き物にとってはできるだけ避けたいもの。
すぐに起き上がって反撃したかったのだが、そのぬるぬるした冷たい物は、びっちりと体の前面を覆っていて、均等にかけられた重さはどうやってひっくり返せばいいかわからない。
口まで覆われていたら……そこで雪熊は、呼吸がしづらくなっていることに気づいた。
ぱちぱちと弾けるような刺激でしかなかったものが、なんらかの攻撃であったのだ、と。
前足をむちゃくちゃに振り回して、「重いぬるぬる」をどかせようとしたが、もう上げることもできない。
この生物に圧し掛かられるまで自在に動いていた体が……。
―――ああ、この匂い。マノ、だわ。わたし、ふたりに雪を見せるって、約束したのに。ああでも、わたし、なにを、しているの? 陛下。どこに。
一瞬よぎった、稚い思考は……間違いなく言葉の形になった思考ではあったが、すぐにぱちんと消えてしまった
大きく口を開けて、しかし雪熊は空気を吸い込むことは、できなかった。
そして、魔獣はただの獣のように、雪の上に骸を晒した。
□□□
生きていれば確かに聞こえるはずのもろもろの音は、しない。
かぱりと口を開いて、たしかに雪熊は死んでいる。傷ひとつ無いままに。
「あ、毒で殺したから肉は食べない方がいいぞ」
「そんな毒が?」
「さっきの貝は、南の海に棲んでるアンボイナってやつ。知ってる? 人間の手のひらに乗るようなのだって、ちくっといけば人も死ぬ。こいつは北にずっといたから、耐性ないとは思ってたけど、ばっちり効いて良かったよ」
得意げに、タヌキは雪熊の上で胸を張る。
「な? 倒してやるって言ったろ?」
凶悪な毒と、あまりにもギャップのある子どもじみた様子。
マカールはその落差に畏怖さえ覚えた。
もしこの存在がこちらに牙を剥いたらと。
だが、びっくりするくらいにその存在には邪気というものがなかった。
「あ、あの、すいません」
とん、とその背中を押される。
彼よりも年下の『魔王』が彼を見ていた。
「この雪熊を解剖してほしいんです」
「腑分けをか? なぜ?」
「先代の時から不思議に思っていたのです。雪熊ばかりではありませんが、九十五年を衰えもせずに生きる獣はいません。代替わりをするのかもと仮説もたてましたが、仔を連れ歩いていた話も聞きません。これがどんなものなのかを、調べなくては」
「……」
吸い込んだ冷たい空気と、現実的な提案がマカールを落ち着かせた。
「わかった。手配しよう。体の造りなら狩人たちが詳しいはずだ。差異があれば見つけてくれるだろう」
「ええ、お願いします」
本来は自分より上にたつ立場であるところの『魔王』の丁寧な依頼にも、また。
さっそく雪熊に縄がかけられ、下に板が噛まされて、十人ほどの兵士が引いていく。
その上に座って前足を振る、小さな魔獣ごと。
「……あの魔獣殿は、どこから?」
「皆目見当もつきません。そもそも、コータ様と同じ種を、書物で見たこともないのです」
「私もそうだ」
そんなことを言いあいながら、二人はそれを見送った。
雪熊討伐を為したその翌日には、すぐに『魔王』とタヌキは城への帰途についた。
一週間と言って城を出てきたからと。
その一言でわかる、魔王城からここまでにかかった時間に、聞いた者達はそろって目を瞬かせた。
おおよそ十分の一の時間で、と。
「おう! 超特急だぜ! 他のとこも助けなきゃいけないからな!」
竜に化けたタヌキの背に乗る魔王の姿は、雪熊を倒したということもあいまって、それを見たイリイーン領の者たちに大きな期待を抱かせるものだった。
百年目の魔王討伐は無いのではないか、と。
『魔王』とタヌキがイリイーン領を去った、その翌日の事だ。
イリイーン家の城、その庭に設えられた天幕の中で、雪熊の解体が行われた。
あまりにも巨大な体躯ゆえに、城内には入れる所が無かったためであったのだが、簡易に板を何枚も置いただけの床、天幕だけの屋根という環境は逆にこの体躯を腐敗からまもるためには良かったのかもしれない。
毛皮を剥いでいる最中に、熊の腹部に歪な傷があることに気づいたのは、熊の生体を良く知るために腑分けに呼ばれた猟師のうちの一人だった。
もしも綺麗に縫い合わされていれば目立たず、見つけられなかったかもしれない。
だが雑な縫い痕は、下手な縫い方をしたぬいぐるみの腹のようにがたがたで、そこに何かあるのは確実だった。
毛皮を剥ぎ終わった体を仰向けにして、猟師の一人は傷の通りに刃を当て、少しずつ切り開いていった。
魔法で治したならば、こんな傷は残らない。
そも野生個体が傷を縫い合わせるすべがあるはずもない。
ならばこれは人為的なもの。
作業を見守りながら考えていたマカールは、男の素っ頓狂なと言えそうな悲鳴に我に返った。
「わ、若様、中に、熊の中に」
「どうした」
「人が埋め込まれて」
ぱくり、と開けられた肉の中にあるのは、まちがいなく頭蓋骨だ。
……それも、ところどころ白く、透明なそれはグラキエースのなきがらに特有の『氷の骨』。
「食われて、いや、違う。これは」
食われたのならば胃の中に。
このなきがらは、熊の形を歪めてまでも肉の中にと縫い込められていた。
さらに傷口を大きく開き、肉の中からそのなきがらの身元につながる物が無いかをマカールは調べさせた。
なきがらの傍にあるのは、女物の宝飾品ばかりだ。
それらは実にグラキエース好みの繊細なものばかりで、ティアラまであった。
そのなかに、二つ異色の物がみつかった。
ひとつは、鎖の付けられた重々しい鉛の輪。
二つに分割できるが、内側に針が幾本も内を向いていて……いかにもな拷問具である。
鎖の先は雪熊の肉深くに刺さっている。
まるで死体と雪熊をつないでいるように。
もうひとつは、グラキエース好みではない、血の滴るようなルビーの指輪。
初代の魔王が妻に与えたと、代々イリイーン家が語り継いできたもの。
それを持つのは、たった一人。
「……貴女は、そこに。そこで、囚われていたのですね、ヴァシリサ姫」
呟くように呼ばれたその名前に、その場にいたすべての者が作業を置いて、ひざまずいた。
初代魔王の四天王とされている四人の側近。
そのなかでも妃として扱われていた、イリイーンの凍姫ヴァシリサ。
四人はすべて魔王の死後、行方がわからないとされていた。
だが、彼女は生家の領へ戻されていた。
家族や領民をも食む、巨大な雪熊の内側に縫い込められて。
「急ぎ、魔王陛下にこのことの連絡を。そしておじい様に、魔王陛下のもとへ行く精鋭を編成してほしいと伝えてくれ。私がそれを率いる」
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