『眠らずの雪熊』 2
タヌキが雪原の、開けた場所に立っている。
後ろ足でヒトのように立っているが、そのほかに何か持っているわけでもなく、魔法を練っている様子も無い。
そして、他の者は離れた場所で安全を確保しながら見ておけと指示しただけだ。
加えて雪熊がもしそちら側に行ったなら、逃げろと。
それに従う形で、『魔王』とイリイーン家次期当主であるマカールは兵を率いて様子を見守っていた。
残りはあたりに騎乗のまま散らばって、雪熊を索敵している。
防寒用の毛皮のマントを厚手のサーコートのうえにさらに羽織って、金の髪を隠すようにフードをかぶるマカールに比べれば、マントと防寒具だけの『魔王』はだいぶん軽装にも見えるだろう。
それだけではなく、戦いに向いていない格好でもある。
タヌキの待ち伏せとも言えない熊の待ち姿と併せれば、本当に戦いに来たのかと思われても仕方ないかもしれない。
「アレは、……その、単に立っているようにしか見えないのだが」
「ですよね。すいません、コータ様が考えていることは、よくわからないんです」
本来ならば、馬車で一月。
それを竜に化けて高速で飛び続けることで、三日に縮めてみせた魔獣は、どうやら独自の考えがあってその姿になっている、はずなのだが、その説明を同志であるはずの『魔王』にもあまりしてくれない。
これには『魔王』も困った。
こうして作戦を実行中に、他者への説明ができない。
重大な改善点である。心して伝えなくては。
この国で今、『コータ様』と対等にしゃべれるのは『魔王』である彼だけ。
同じく『コータ様』にこの国のことを教えられるのも『魔王』だけ。
そういう立場になっている、と気づいた『魔王ディータイク』は素早く頭をめぐらせた。
その様子を、マカールはいぶかしげに見ている。
「今はコータ様にお任せしましょう。それより、私たちが足手まといにならないよう、熊を」「熊が出たぞぉおおおお!」
熊という言葉が、ちょうど重なる。
狼たちがいっせいにタテガミを逆立て、唸り始めた。
木々の間を必死で走る雪狼騎兵の後ろから、いっそ、ゆったりと白い塊がこちらへとやってくる。
その一部が、にゅっと突き出してきたようにも見えた。
「守れ!」
それが何かをわかる前に、『魔王』はその突き出したすぐそばにいた騎兵に、防御魔法を使った。
ほんの一瞬ののちに、騎乗する狼ごと兵士が殴り飛ばされる。
それは、白く巨大な熊だった。
大きさは立ち上がれば、家よりもなお高い。
大柄な兵士でも大人と子ども、いや、大人と幼児ほどの差があるだろう。
当然ながらその前足ときたら……もし、『魔王』が魔法をかけなければ、さきほどの兵士はまっぷたつになっていただろう。
その兵士は木に叩きつけられながらも、なんとか体を起こし、必死に息を継ぎ狼を励まして逃げようとしていた。
「動くな!」
マカールの声に、兵士がびくりと動きを止める。
熊は、動く物に気をとられる。もし逃げようと動いたなら。
「おい! こっちだぞ熊!」
代わりのように、タヌキが動いた。
茶色の姿でぴょんぴょんと跳ね、雪熊がこちらを見るなり右の前足を突きだした。
「かかってこいよ、コグマちゃん」
ヒトが挑発するとき、手のひらを上に向けて指を曲げて招く、あの様子。
あれをタヌキはその短い前足の指でクイクイとやってみせた。
雪熊に挑発が理解できたかはわからない、が、新しく出現した動く物へと意識は移る。
完全に自分へと注意が向いた瞬間、タヌキはその場でトンボを切った。
軽快な破裂音と煙とともに、どう考えても不釣り合いな物が出現する。
ぱっと見は、雪熊よりさらに大きくて何が何だかわからない。
ただつるつるしている硬質なもので、しかし石程は硬くは思われないもの。
離れて見てみれば、それが何かはわかる。
……が、大きさと場所を考えると、幻覚と思ってしまうだろう。
貝。
巻貝が唐突に雪原に在った。
必勝の策がある、とタヌキはのたもうたものだが、実は『魔王』もこれを見た時には言葉を失った。
だって、貝。
異常な大きさであることをのぞけば、攻撃手段らしいものもなく、肉は柔らかい。
たしかに防御面では優れてはいるかもしれないが。
「さあこい! 俺が相手だ!」
相手もなにも……だが、大きな姿は、熊にとってはわかりやすい相手だったのだろう。
駆け寄る勢いも加えてバシン!と長い爪の生えた前足が殻に叩きつけられるが、貝はその重量でびくともしない。
その間に、件の兵士は仲間に助けられて物陰に下がることができた。
一方、雪熊は……ムィムィと迫りくる貝をいなしそこねてしまった。
のしかかってくる重量を押し返すことができず仰向けに倒れて、正面からその体の大半を軟体に抑え込まれてしまう。
仰向けの体勢では、つかみどころのない軟体を跳ねのけることも、転がって逃れることもできない。
「ちょーっとチクっとしますよぉ」
実際に雪熊からすれば、ちくっどころか、プチンと小さな泡がはじけたような物だった。
鼻やら口元やら、毛におおわれていない箇所になんどもなんども弾ける。
鬱陶しさに顔を振っても、貝はその圧倒的重量を利用して微動だにしない。
「今のうちに手当を」
「はい!」
雪熊にやられたのは、先の兵士ばかりではなかった。
そのほとんどは、もし雪熊がおさえこまれていなければ、食料にされてしまっていただろう……。
けが人も回収され終わったころ、圧し掛かられながらもまだ抵抗を続けていた雪熊の動きが止まった。
にゅるにゅる、と軟体を殻にひっこめた、かと思えば、雪熊の腹の上にタヌキが立ち上がった。
「死んだぞ」
「え」
まさか、とマカールが用心しながらも、仰向けの巨体へと駆け寄った。
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