みっつめ 契約終了
上位五貴族のうち、マーロー家とサングスター家が『魔王』によって呼び出されて、三日。
その間二家の者たちは五貴族が集まりの場にしている部屋にはこなかった。
たぶん、この先も来ない……来ることができないだろうというのが、ハリエット・ラヴラスの見立てだった。
この国を牛耳るといってもいいほどの商家であった両家からは、ぼろぼろと櫛の歯の欠けるように家人がいなくなっているのを配下が見ている。
―――もっとも、その時に詳細な情報を持って帰らなかったのをハリエットは叱り飛ばしたものだが、そこまで探れるような人材の口を疑惑で閉ざさせ手足を縛ったのも他ならぬハリエットであった。
つまるところ、彼女の配下はあの獣に攫われるまでは自由に動けていたが、今はもう深入りすればいつ獣に攫われるかわからないし、もしそうなればどんな腕前の者でも第一線を退かざるを得なくなる。
知覚、また浅くしか活動できないようになっていた。
だか彼女は「疑わしきは使わず」という信念に寄ってそうしただけのつもりであった。
そんな折に、とうとうハリエット本人にに召集の命が下った。
彼女はこれまで、密偵の配下との関わりをなんらかの形で残してきたことは無い。
情報の受け取りも、命令を出すのも、すべて口頭。
伝えられたことをまとめるのは、彼女の頭の中でだけ。
覚えておくためのメモ書きすら、彼女はありふれた物品の名前。
それををキーとする『記憶の宮殿』式で、彼女は情報を管理していた。
小さな物品の名前とイメージさえあれば、彼女はいくらでも物事を覚えて行けた。
ある意味それでこそ、彼女はラヴラス家の当主となれたのであるが……だからこそ、彼女は自信をもって堂々と呼び出された部屋まで赴いた。
当然のように、背後に従うメイドとは別に、天井裏をついてくる気配もあるが、これは彼女にその存在を知らせるものではなく、「気配をさせてしまっている」からであるというのは、彼女にとってなんとも歯がゆかった。
少し前までは彼女にすらわからない、そんな腕の者が自分の傍に控えていたものを、と。
呼び出された部屋のドアをメイドが開けると、ハリエットはしゃんと頭をあげ、何も臆するものはないとその姿であらわすように入った。
その姿勢があったからこそだろう、「ひっ」という短い悲鳴を口中で噛み殺すことができたのは。
四人の従者役と『魔王』がいることは想定のうち。
だがそこにはもう二人、いる。
片方は長い髪のヘルバ、ウツギ。
四辺境伯のいる兵舎まで行ける人材はもういないため、彼らの動きをしることができなかったがゆえに、ここに侍っていることもわからなかった。
いや、それでも『魔王』の配下としてウツギが『魔王』に侍っていることは理屈としておかしくはない。
だが、ウツギを間に挟む形を取って、腰掛けた『魔王』に平伏と言ってもいいようなひざまずき方をしている男は……。
天井裏でがたごとと、誰にもわかるような大きな音がした。
「なぜここにいる!」
苛立ちから、ハリエットは思わず叫ぶがごとき声をあげてしまった。
この場において、礼儀上、それは許されぬと理解していながら止められなかったのは、ひざまずいている男が、ラヴラス家配下の密偵の頭領格、彼らの中で「1」の番号を保有している者であったから。
本来彼らはラヴラス家の所有する部屋でしか、光の中にその身をさらさないというのに。
「静粛に、ラヴラス夫人」
何の抑揚も無い声でシリルがハリエットに声をかけた。
彼女が一旦冷静になって見てみれば、従者たちもウツギも、何の表情も浮かべていない。
「ハリエット・ラヴラス、ご苦労であった。今日は契約終了についての呼び出しだ。この者がどうしても私に承認してほしいと訴えがあったのでな」
それは正面にいる『魔王』も同じこと。
ただ前を、ハリエットをまっすぐに見えている。
だがその一種の不気味さを孕んだ空気ていどでは、ハリエットを怯ませることはできなかった。
なにしろ彼女の中では、恐怖よりも怒りが上回っていたのだから。
「契約終了ですって?」
「鎮まれ。この者の申し出に寄れば、ラヴラス家との契約条件の中に含まれる禁止事項にいくつも触れることがあったと」
その怒りは『魔王』の言葉で水をかけられてしまう。
「九十五年の長きにわたった契約だが、これ以上の継続はできない、とな。その方、父祖より当主の座を継いだおりに聞かされなかったか? あるいは書面での確認をしなかったのか?」
ハリエットは必死で思いをめぐらせる。
彼女のなかの契約関係の記憶は、記憶の宮殿の中、金庫室の物品に結び付けてある。
契約書そのものも同じく屋敷の金庫室にあるのだが、そちらはすぐ思いだせたのに、記憶としての契約書が見つからない。
花瓶だったか、違う。蜘蛛の巣か? これも違う。
見つけられたのはネズミの籠、だがそこに結び付けられたものは、「契約書を受け継いだ時に父からいわれた言葉」。
『己の手足と思え』。その父ももう亡くして久しい。
だから好きに使ってきた……。
「まずひとつ、彼らが捕らわれた際に救出の交渉などを行うこと。ふたつめ、戻ってきた者がいれば当主本人が改め、疑惑を糺すこと。主にこのふたつだそうだが。追いたてた獣の退治を請け負うようなことになっているがな……彼らを攫ったのこそタヌキ様だが、その最中と後がよくなかったといえば、わかるか?」
『追いたてた獣の退治を請け負う』、地球でいうならマッチポンプといったところ。
「契約書については、先ほどこの者から預かった原本をシリルをはじめとした者たちが検めた。反論、反証があるなら申し出よ。許可する」
そう言われても、ハリエットは内容を覚えていない。
記憶の宮殿にしまわなかったのは、しまわなくてもよいものと思ったから。
思ってしまったから。
その時、ハリエットはすでに死した父からの言葉の、本当に意味を理解した。
己の手足、己の耳目と同じほどに大事にせよ、信じよということであったのだと。
「今すぐできぬというなら、三日待ってやろう。寛大にも、この者がそれを許したゆえ。この者に感謝することだ」
記憶の宮殿の外に置き去りにした、たった一枚の契約書。
それを使って反論をせよということではない。
できるものならやってみろということだ。
そして契約が正式に終われば、彼女は、もといラヴラス家は耳目も手足も失う……それどころか、それらに反撃を受ける可能性すらも。
ハリエットは自分がするべきは、反論ではないということを、痛いほど理解していた。
◇◇◇
「もういい。あれを出す」
相談ではなく決定。
しかしそれに反対する声はあがらなかった。
もう、「彼ら」は疲れてしまっていたといっていいだろう。
契約書の内容をまもってもらえないこと、それ自体はある程度は受容してきた。
だが、これ以上はとても……抑えられそうにない。
読んでいただきありがとうございます。
「記憶の宮殿」、有名な例としてはレクター博士ですね。
あれの描写はすごかった。




