ひとつめ 出納帳
12/17 最後に一か所付け加えました。
もしも、もしもと、ことを考え始めたらきりは無い。
だがうっすらとした笑みを浮かべながら―――作りながら―――『魔王』は呼び出した二人を見ていた。
一人はシオドーラ・マーロー。
もう一人はモーリス・サングスター。
同時撃破を狙える二人だが、それぞれ現当主であり、次期当主であるトバイアス、前当主であり隠居であるオリヴァーではない。
本来のターゲットであるその二人であれば、手間も減っただろうに。
その二人はといえば、事務方に帳面の数字について詰められて、その一つ一つを答えているものの、答えが言い訳にしかなっていない時点で二人の旗色は悪いといっていいだろう。
むしろ二人に勝ち目は無い。数字は誤魔化せば、誤魔化した相手に牙をむく。
シオドーラは最初からそのつもり……自分を犠牲にトバイアスを逃がすつもりだったのだろうか、目が据わっているが、モーリスはしじゅう目が泳いでいる。
さぞかし、内心オリヴァーを恨んでいる事だろう。
「では、この修正は?」
「いいえ、まったく存じ上げませんね。おそらくは文官の誰かが私腹を肥やす目的で誤魔化したのでは?」
嘆かわしい、そう言ってシオドーラは笑いさえしている。
この御仁、質問の一つごとにまったく同じ答えを繰り返している。
うねうねと、つるつると。
実はこの場にタヌキはいない。
療養中である、とされているし、実際『魔王』の私室に小さなベッド、もとい大きな籠にクッションになる藁を入れて、布を敷いた猫ベッドに近いものを作りそこに横たわって、ヘルバの兵数名がつきっきりで看護にあたっている。
身じろぎもせず、ぐったりと寝床に沈む姿はあまりにも魔王側にとって不吉なものだろう。
ほとんど反応がないのを、天井裏でガタゴトと、へたくそネズミが見ていた。
……ほとんど反応が無いのも当然。
その茶色い毛玉は、タヌキが毛布をつくねて造った、あのぬいぐるみ。
だから看護といったって、囮のぬいぐるみをそれらしく見せるためだけのいわばブラフ。
この部屋の全部がネズミを引き寄せるためだけの、『毒を飲んだタヌキが寝込んでいる』形を模したデコイ。
事務方の揃う場にもおらず、『魔王』の私室にもいないとなれば、タヌキはどこにいったのか。
……誰も今は見向きもしない倉庫のひとつで、小さな箱を前足でこねくりまわすタヌキの姿があったのだが、ラヴラス家配下も人手不足の今は、『魔王』しかそのことを知らない。
そしてまただからこそ……サングスター家はともかくマーロー家はまだ言い逃れができると思っている。
あの獣さえいなければ、この審問をやり過ごしさえすればなんとでも誤魔化せる。
数字がどうであれ、今は勝ち目がなくとも。
だが、それは甘い。
「あの獣」は、起爆剤でしかない……。
にこりと、アーリーン=バーサ・ワイズマンはシオドーラに笑いかける。
その様子に、シリルを除いたメリンダ、レジナルド、バイロンは身構えた。
始まるぞ、見誤るな。
「ええ、本当に嘆かわしい。では、この数件の担当者を呼んでいただけますかな?」
私腹を肥やした奴の腹の肉を見てやるから連れてこい。
要はそう言う事である。
アーリーンが示したのは十一年前の数字。
先代魔王、その治世において、累代の魔王よりも早く内政担当者を招集することができた。
だがそれでも、就任より五年の年月がかかった。
「そこから先」の数字は合っている。
追及できなかったのは、そこに労力をさけなかった、それに尽きる。
内政を担う『従者』役が城にあがれば、それまで文官を束ねていた長は退くことになっている。
仕事を把握し、理解し、滞りなく行うことについて問題の無いレベルの人材と『従者』役は定められているが、死を決定づけられた身となれば……だがそれでも、先代の『従者』役の面々は良くやれた方であった。
『従者』役が『魔王』役ともども戦死すると、また次の『従者』役が登城するまでは、新たな長が文官を纏める、ということになっている。
「十一年前の者はさすがに……」
「では、昨年度の担当者を」
たった一年前、それで不可能ですはありえないだろう、と。
「『勇者』の襲撃こそありましたが、幸い文官は誰一人傷つけられていませんからね」
「……」
シオドーラが言葉に迷う。
アーリーンの言葉通りに、文官たちは襲撃があれば身を隠す手順となっている。
前回も門番をはじめとした居残りの兵たちの働きにより、逃げ遅れた者はなかった、と公式に認められている……。
「……では、その者をお呼びします。追及はお任せします」
シオドーラが長考の末に絞りだした声に、小さな笑い声が重なった。
「ああ、邪魔をしたな」
それは今の今まで、何も声を発さずにいた『魔王』のものだった。
「……なにか?」
まだ齢十五の少年である。
これが先代……あの、平民のくせに妙に聡かった男ならまだしも、上位五貴族の一角を担うマーロー、その現当主が怯む要素などなにひとつない。
その、はずだった。
「シオドーラ・マーロー、その方はよほどたくさんの書類にサインをしてきたのだなと思ってな」
だがその少々むきになった気持ちが、判断を誤らせていたと知るには、遅かった。
「去年の書面と、十一年前の帳簿。担当者の決済のサインは同じものだ」
大人びた声で『魔王』は告げる。
「それから、担当者の直接の上長、その上……ああ、最終決済のサインも同じ。つまりその方の手跡になるものだぞ、マーローの当主」
あまりにもお粗末な話。
『勇者』役に殺されることのない文官は、仕事を長く続けることができる。
「それ」はあまりにも長く続いた仕事で、慣習だった。
『従者』役の前の長がそのまま戻り、仕事を続けていることは。
……当の本人が、そのまずさに気づくこともできなかったほど。
「アーリーンに数字の読み方を習いはしたが、その知識さえいらぬ、逆さの間違い探しであったな」
今代の魔王はまだ齢十五、しかも先代の血縁とはいえ、その先代ともどもの平民の出。
そのように振る舞う素地は無い、そのはずだった。
だがその声に含まれている冷徹さはなんなのか。
彼女は、一人息子がこの場にいなくてよかったと思った。
サインは己のもの、だから己一人が引き受ければ心の弱いあの子は守り切れる。
「シオドーラ・マーロー。その方の申し開きは虚偽であると判断する。この虚偽の証言、ならびに帳簿の改竄について、のちほど沙汰を申し渡す。……己だけで済むと思うな」
「は……あの」
「その方に訊くことは他にない」
実際のところ、これは肉食の獣が幼獣に狩りの仕方を教えているような場なのだと、それを理解していなかったのは、シオドーラの方だった。
己が一番簡単な獲物として、準備されたのだと。
◇◇◇
「こ、これでいいのでしょうか」
そう訊ねる声に、しかしシオドーラは煩げに手を振って黙らせた。
書面を訂正せよ……実体は不正を行えという細々した指示のあげくにこれだ。
これは自分に責任を押し付けるつもりだと、その文官が悟らないはずがない。
もういい、と彼は思った。
見つけられてしまえ。
その時責任を負う……負わされるのは自分だが、同時に最大の責任を負わされるのは目の前の女だ。
読んでいただきありがとうございます。




