近景:暗殺計画 1
なんてこと。なんてことでしょう。
ハリエット・ラヴラス夫人……上位五貴族内で諜報を担当する家を統括する女は、苛立ちもあらわに足を急がせていた。
次から次へと上げられる報告は、普段から情報をさばくために冷静であらねばならない彼女をしてそう言わしめるものだった。
北方、南方、西方、東方の四辺境伯の領。
そのあちこちにある……あった、転移の魔方陣。
それが破壊されつつある。
つくづくと魔獣を失ったことが痛手であったことを思い知らされる。
大した戦力にはならないだろうと見下していたあの小さな獣が、計算をどんどん狂わせていく。
一体目の雪熊はまぁ、まぐれであろう。
二体目の巨大魚はそもそも報告書が信じられなかった―――鉄の船という存在そのものがおかしい、水柱を上げるほどの投擲武器とはなんなのか―――。
三体目の報告であやうさを覚えたが、獣が倒れたことでこれで終わるだろうと思われた。
事実、四体目になって今までの快進撃が嘘のように、今までであれば帰ってきていた期間を終えても音沙汰が無かった。
彼女の知っていた限り、四辺境伯のうち三家の家長やそれに近しい者を連れて出たはずだったが、同行者の数は限られていた。
蟲に押し負けたのだろう……と。
では新しい『魔王』の選定をやりなおさねば、と、一息ついた彼らに思い知らすように、一行はクアドラド家まで加えて戻ってきた。
『魔王』、獣、ともに健在。
だが、ここまではあくまでも許容範囲のうち。
クアドラド領で果てていれば幸運、くらいのものだった。
……そこからが本当の憂鬱のはじまりだった。
本来、魔王の任期の最終年にやっと召集できる―――死が決定づけられている所に、誰が喜んでやってくるものか―――側近役たちが、自分からやってきた。
それも、実務に明るく当主に近しい者ばかり。
その上、総がかりで今までの帳簿を調べ始めた。
数字を次から次へと洗い出し、整理し、五人で改めてわかりやすい帳簿までこしらえて。
その作業が始まったころにはまだ余裕しゃくしゃくという面持ちだったマーロー家の当主が、日を追うにつれて顔色を失っていくのは、実は彼女にはよい見世物でもあった。
それが自分にふりかかるまでは、他人の失態など見世物以外のなにものでもない。
魔王のみが有する、『すべての文書を閲覧する権利』。
もともとは、あくまでも魔王らしく振る舞わせるためのものであったと、彼女は聞いている。
それを『魔王は己の側近に仕事を任せることができる』という条項を利用して拡大した上で、他家の者まで巻き込むとは、と。
その権利を定めたのは、九十五年前の自分たちの先祖ではあったのだが、「たった一人で何ができる」という侮りの気持ちが欠片でもなかったか?と考えれば、「あった」としか思えない。
魔王一人が知ったとて、無駄な抵抗だと。
十年ですべてがご破算になるのだからという前提はあったのだが。
腹の立つことに、順調に調べは進んでいる、と密偵からの報告がある。
その上での『四辺境伯家領での転移魔方陣の破壊行動』、『城内での転移魔方陣の発見と破壊』の報告だ。
密偵たちは手出しをしなくても良いのかと尋ねてきたが……ここで邪魔を入れる方がまずいとも考えられないのかと夫人をいらだたせた。
『勇者』の影も形も無いなかで、兵が襲われたとなれば喧嘩なりの理由をつけなければならない。
だというのに、今、下級兵どもの士気は上がり、仲たがいの理由を付けるのに苦労するようになってしまった。
「失礼しますわ!」
足音高く、ハリエットは城内の一室へと入った。
このあたりはもともと上位五貴族が使っているエリア。
魔王ででもなければ、今城内を調子よく蠢くものたちは入れない。
建前上は、である。
部屋の前に立っていたのはアンカーソンの私兵だが、……いないことになっている。
「お聞きになって?」
何が、何を。誰が。
そういったものを完全に飛ばして、ハリエットは中にいた者たちに話しかけた。
ため息をつくアンカーソン当主エドマンド。
疲れもあらわなマーロー家の次期当主トバイアス。
うんざりといった面持ちでサングスターの隠居オリヴァー。
頭を抱えているのはナイセル当主夫人ユーニス。
上位五貴族で当主相当の者が揃っていた。
葉茶をすぐに用意するのは、ラヴラス夫人付のメイド。城のメイドではない。
彼女らは使用人も自分の家から連れてきており、城の使用人には自分の靴も触らせなかった。
「もうとっくに、だよ。兵舎の下のこと? それとも帳簿?」
その顔そのままの疲れた声でとバイアスがいう。
……帳簿自体は実はきれいに「繕って」あるのだが、それでも突かれればいつ破綻するか。
担当であるマーロー家からすれば、家全体で胃が痛くなるのも当然か。
「あのばあさん、引退した身だからって言ってたのに、なにしゃしゃり出てきてんだよぉ」
次期当主としてこれか、とハリエットはどこからともなく出した扇で呆れの滲む口を覆う。
やれやれこれでは、五年前のくじびきをうっかりまともにやりかけて、エドマンドに助けられてから頭が上がらないというのも本当の事のようですわね……。
それよりもだいぶんましではあるのだが、オリヴァーやユーニスの顔色もいいとはいえない。
「そちらにも、報せがいっているとは思うけど」
そちらをハリエットが見た、その視線を受けてユーニスが沈んだ声を出す。
「四辺境伯家の領内の魔方陣、全部ダメにされたわ……」
この国において、魔法書の管理を行っているのがナイセル家。
その真の仕事は、転移魔方陣の管理である。
少しずつ少しずつ、国内に増やしていたことで報酬を得ていたナイセル家が、そのすべてを一気に失った……。
それでも誰がやっていたかについておそらくわかってはいない分、マーロー家よりはマシといえるだろうか。
資材の横流しを行っていた「だけ」のサングスター家もまた同様に。
だがそのぶん、発覚したときの反動がおそろしいことになるだろうとハリエットは思う。
本来なら他人事ではないのだが、彼女……ラヴラス家が担うものは形と言えば声くらいのもの。
証拠は決して残してこなかった。
他人事にしてしまえるだろう、と彼女は他家を見て計算した。
「……一度、状況を徹底的に変えねばならない」
重々しく告げたのはエドマンド。
このなかで、もっとも責を負うことになるか、逆にまったく免れるかという存在。
なにせアンカーソンはすべてに関わりつつも、すべてに直接関わってはいない。
「あの獣だ。あの獣だけが問題だ。ゆえに、排除する」
異論はあるかと言われ、しかし些少な不安を口にできる者はこの場にはいなかった。
読んでいただきありがとうございます。
侮ってると、裏技じみた行動に対応できないんですよ。