真名
目を覚ます感覚とともに『魔王』に訪れたのは、遠い記憶の中にあった香り。
近い記憶にはないけれど、その香りは『魔王』にとっては懐かしいもの。
自分は転移魔法で配下たちと帰郷したはず。
あの国に自分たちの勝利を宣言して……相手が納得したかわからないが。
目を開けると、『魔王』はすぐ近くに女神の姿を見つけた。
そして自分自身は立っている……いや、立った姿勢で浮いている。
ここがどこであるかを『魔王』はわからなかった。
ただ、居心地は悪くない。
圧迫感はなく、しかし支えられている感覚はあり、不安定ではない。
だが身動きがとれない。
感覚はどこかあやふやで、そのせいか怒りや恐怖といった強い感情は切っ先を鈍らせていた。
この事態を起こしたのだろう目の前の女神の姿にも、それらの感情はわかなかった。
だが、この異常事態。
やはり女神はニンゲンの味方であったのだろうかと『魔王』は今の状況に腹をくくる。
だが再び周囲に漂う香りに記憶をくすぐられた。いつか、どこかで。
その思考のなかから、ひとつの名前が浮かびあがってきた。
「……あなたの名前は、いや、あなたは春告花……フェンスゥランですね」
なにか反論のようなものをいおうとした口は、別のことを言葉にした。
『教女』をはじめ、あの国のものたちが誰もいえなかった言葉。
女神はヴェールの向こうで静かに微笑んだ。
「貴方が、知っていてくれて、よかった」
女神の声は、あの場所よりもはるかにはっきりと聞こえた。
「異世界の豊穣の神の慈悲により戻ることはできたけれど……」
女神は小さく寂しく笑う。
当たり前の少女が浮かべるような、そんな笑い。
「私は、この九十五年というもの、花を咲かせることも実をならせることもできませんでした。そうなれば花を愛でられ実を求められる木は、役に立たぬ物と切られ、……あるいは、枯死したものもあるでしょう。木にとっても、九十五年は決して短いものではありません」
その静かな語りに、『魔王』は不穏を感じ取った。
女神は母のもとへ戻るといった。
しかし、彼女自身であった花の木はこの地に残るはずで、しかし今の口ぶりでは……
「私の木が地から消え去る日も近いでしょう。あの木を私と知らぬものも、今では多いでしょうから」
女神のシンボルとされていた花も、咲いていなければ見つけられまい。
名も、その依代たる木も忘れられ滅びていくというのなら、彼女を待つのは母神の叱責と罰ではなく、消滅であろう。
……この女神がかつての両親、父と叔父、そして九十五年間に犠牲になったヒトビトを直接害したわけではない。
むしろ彼女は犠牲者だろう。
延々と、祈りと引き換えにその力を奪われ続けたのだから。
だからこそ、『魔王』は懐かしく思ったその根源をたどろうとした。
記憶をたどっても、たしかにあの花を近くで見たことは無い。
咲いていなかったのなら、花を探すこともできなかっただろう。
だがたしかにあの香りが『魔王』の記憶にある。
いそげ、とその記憶をたぐる。
たしかに、あの花の香りを『魔王』は知っている。
「……遠い昔、母が父に会いに行くとき、母の領地との境目に「あなた」の花が咲いていて、母があなたを教えてくれました。母は、この花は春のはじめに咲く花だから、冬しかない母の領には無いもので……だからこの花が見えればもうじき父に会えるのだと」
気が付くと『魔王』は必死で遠い過去を語っていた。
遠い昔の、かつての「母」との数少ない、そして「父」に関する思い出。
あの瞬間、確実にあの花の香りは幸せと結びついていた。
「あの場所は、畑ではなかった。今もそうです。だからあの木はまだあるはずです」
思い出の中の景色では、たしかにあった。
だが五年前の辺境領めぐり、それからタヌキとともにいった魔獣討伐では、他に注意がむいていたことや、そもそも注視するものではなかったことから、視界に入れていなかった。
それでも「ある」と『魔王』は信じたかった。
その言葉に、女神がヴェールの下で微笑む。
それはもしかしたら、彼女が本当に向けてほしかった感情であったのかもしれない。
「そうですね。……ありがとう」
女神の微笑みに裏表はなく、ただ本当にそうあってほしいと思ってのものだと、『魔王』には思えた。
たぶん、神とはそういったものなのだろう。
「……あなた、は」
そのありように『魔王』は心が苦しくなった。
ただ、春を告げ喜びを伝えるのが役目であった、本当はさほど強くはない女神だったのだろう。
ただヒトビトを喜ばせることを役目としていたがために、彼女は聖女となった娘に力を貸して……。
女神は、ただ静かに『魔王』の顔に手を当てた。
彼の思考をそっと止めるように。
その手はマカールたちグラキエースの本性とおなじほどに白いのに、柔らかく温かい。
「あなたたちが座していた場、その下に、あなたたちがいます。……どうか、あなたたちが、しあわせになりますように」
前と同じ柔らかな、ようやく声の形を得たような声でいわれて、ふ、と『魔王』は気が遠くなった。
また浮上するような感覚とともに目を開けると『魔王』は配下たちに囲まれた状態だった。
それこそ一度目の転移のときと同じように。
それと認識すると同時に体の力が抜け、『魔王』は床へと崩れ落ちた。
一往復半の転移魔法はそれほどに体に負担をかけたのだと思ったのだろう、レオンシオが駆け寄って『魔王』に肩を貸す。
「すぐに床をご用意しましょう」
ウツギがそういう間にも、マカールやコアが手早く指示を出す。
それを見ていると、自分がもう役目が終わったのではないか、この場にはもういらないのではないかという気持ちになってくる。
もう休んでもいいのではないかと。
だが、ふと視線を感じてそちらを見ると、足元にタヌキが立って、『魔王』を見上げていた。
真っ黒な、底の知れない魔法の目と視線が合う。
もの言いたげなそのタヌキの様子に、『魔王』はしなければならないことを思い出し、大きく息を吸った。
「我々は、自由だ!」
『魔王』の声に一瞬場が静まり、次の瞬間歓声が爆発した。
それが彼の緊張を途切れさせたのだろう、再び体から力が抜け、レオンシオにもたれかかる形になる。
「よくやった。ゆっくり休め」
遠くなる意識の中で、たしかにタヌキの声が聞こえた。
もしかしたらと『魔王』は思う。
そもそも最初のころ、女神と聖女は、タヌキと自分との関係に近いものではなかったのかと。
自分ではどうしようもない事態の中で、助けてと手を伸ばした先に、聖女には女神がいて自分にはタヌキがいた。
「それだけ」の違いだったのかもしれない。
『魔王』はこれから先を思った。
しなければならないことは山ほどある。
だがそのすべてから、タヌキを解放しなくては……女神とニンゲンたちのようになってしまうかもしれない。
それだけは駄目だと『魔王』は思う。
最初の出会い、助けを求めた『魔王』に、タヌキは国そのものは助けられないといった。
その言葉は、まもられなくてはならない。
読んでいただきありがとうございます。
フェンスゥランのモデルは梅です。
学名をアナグラムして無理やり読んだら中華風になりました。




