折れずの毒樹 2
毒樹は、さながら古い古い樹のような大きさだった。
これを切り株にしたなら、ちょっとしたステージにできそうなほどの周囲。
屋根のようなといいたいところだが、樹冠は高すぎてその用をなさないだろう。
葉は万葉といってもまだ足りないほど茂っている。
世界樹と呼ぶにはヒヨッコだが、古木とよぶには大きすぎる。
これが数百年、千年を重ねたものであれば大きさにも納得できるだろうが、樹齢九十五年とは思えないほどの大木。
あまりに育つのが早すぎる。
もしもこれに毒が無かったなら、どれほどの動植物を養っていただろう。
だが、その周囲に鳥の一羽、虫の一匹もいないのは、まき散らす毒ばかりが原因ではない。
何百と何千とある枝が、風も無いのに揺れている。
いや、まるで触手のように蠢いている。
漂う毒の害がかろうじて届かない高台に、『魔王』とサントウ領の兵たちが、口と鼻を布で覆ってその様子を眺めていた。
ざざざ……とさざ波のような音をさせながら、「水のようなもの」がその毒樹の根元へと押し寄せるのを。
「始まった……」
それは水ではない。
満々と樹の周囲に溜まるなり、一気に地面の下へと染み込んだ。
三つ数えるほどもおかず、ぶるりと毒樹が身もだえた。
樹皮は硬く、枝は太い。
だというのに、触手のやわらかさをもって枝が揺れ動く。
台風の時にだってここまではなるまいという動きをもたらしているのは、根元に沈んだスライムだ。
それらが根を焼くように食い荒らしている……。
どれほどそうしていたか。
身もだえる毒樹の根方からスライムが滲みだし、するすると表皮を覆っていく。
上へと流れていく様は、まるで雨が流れる様子を逆回しにしているようだった。
しかもそれはへこみなどにはとどまらず、表面全体を覆うように分厚くなっていった。
見守る人々の目の前で、たぷたぷと……水球に包まれていくように、先端の葉の一枚まで飲みこまれていく。
その中にあるかもしれない、九十五年前の当主の遺体のことを思い出したか、包まれながら細かな所がすでに溶け始めている毒樹に気づいたサントウ家の兵たちが息を呑んだ。
と、同時に、周囲から毒の匂い……毒が効かぬように覆っていても鼻が痛いほどの、ミントをさらに激しくしたような刺激臭が和らいだのに彼らは気づいた。
完全にスライムの中に包み込まれ、毒が出る気孔が塞がれたのだ。
見守るうちに、葉は散ったかのように溶け消え、その枝の先端から短くなっていく。
もともとの質量が巨大だから、それでもまだまだ樹の形を失うには至っていないが……。
光を感じた事で、彼は目を覚ましたような気持ちになった。
触れるのは生ぬるい「水」のようなもの。
水中に落とされての処刑かと、考える。
浮かぶことはないのだろう。
―――ブルーノ。
切れ切れの意識が、親しい名を呼ぶ。
―――陛下を。殿下を、頼んだ。すまない、妻よ。子らよ。
沈む沈む。沈んでいく。
身体も意識も何もかも。
本当は沈んでなどいない。スライムの中に浮かんでいる。
しかしもう、そこに宿るモノには、魂の欠片とて残ってはいない。
魂の残滓のようなものだったのだ……。
伸びゆく様子を逆回しするような、そんな縮まり方をしているうちに、スライムの中で何かが「外れた」のが見えた。
もしも音が聞こえたならば、ばこっとでもいいそうな。
「コータ様!」
『魔王』が声をあげる。
「溶かすのを一旦止めてください!」
「おう!」
返事は振動の形で、しかして声として人々に届いた。
そして、それまでまさしく溶けているとわかる速度であった溶解が、止まる。
根は既に無く、葉も枝も無い。
枝を落とされ、樹皮も溶かされ尽くした毒樹は、ちょうど加工を一段階終えた丸太のようになっていた。
太さそのものはもちろん桁外れなのだが、この状態で生きていると言えるかどうか……。
「ひとまず、横にしちまうぞ」
ぶにゅ、とスライムが蠢いて、樹が横たわった。
「お、おお……」
表情が薄かったウツギが呻いた。
外れたのは、樹皮ごと蓋のようにされていたものであったらしかった。
樹の内側の虚ろ、通常の樹であればうろとでもいうべきか。
そこに、生木の彫刻のような姿がある。
『魔王』とタヌキが見たマノ・エルアの遺体は、腐り果て骨となっていた。
しかしそこにある姿は……たしかに、まだその面影を残していた。
ミイラといえばわかりやすい。
ヘルバの民はその半身が植物であるゆえに、枯れても朽ちることができなかったのか、そう思わされるものだった。
「なんと、酷い……。父上……」
幼子のように、ウツギは我を忘れて駆け寄った。
うろに満ちる、今はなにも溶かさないスライムごしに、彼は父へと手を伸ばす。
「行方不明とされてからは、……逃げたかと、家族も民も捨てたかとお恨み申し上げたものを、このようなところに! このような姿で!」
とはいえ、あの溶解を行ったスライムである。
取り乱す当主を何人もの部下たちが抑えようとして、スライムに触れる寸前で彼は止められた。
腕に肩にと置かれた手に引き留められて、ウツギは力なくその場に膝をつく。
樹の『死』がどの時点で定まるかがわからないからだろう、アコウと思しき姿のあたりだけを残して、スライムはぬるぬると毒樹を溶かしてしまった。
それにより、巨大な樹であったものは、大人一人が立って入れる箱程度の木材になってしまった。
再び、スライムが中に呑んだ樹を直立させる。
ちょうど『顔』と顔を見合わせられるように。
「ウツギ殿」
改めて、『魔王』はサントウ家当主へと手を差し伸べた。
参りましょうと。
すでにタヌキは変身を解いて、そのすぐ脇で彼らを待っている。
よろめきながら進むウツギを『魔王』が支えていた。
そのことに気が回らぬほど、ウツギは動転していたといえる。
「父上、」
ほぼ溶かし尽したようなものとはいえ、毒をもっていたそれに彼はためらいなく手を伸ばした。
頬に触れようとして、止まる。
地面にうずくまって、顔を伏せた。
その様子を見ていたタヌキを抱き上げて、そっと『魔王』は耳打ちした。
「ヘルバの民は、他の民に比して寿命が長いのです。おおよそ三倍ほど」
「そっか……」
となれば、九十五年を経ても父と子であるのは、充分ある話だ。
「ウツギ殿は、……私よりも、幼いころから当主として」
その手に力が籠るのに、前足がトントンと叩いた。
「ちょっと静かにしといてやろうか」
「はい」
「その間に、地面の細かい根とか始末しとくよ」
タヌキは『魔王』の腕から抜け出すと、地面に飛び込んだ。
地面に触れる瞬間にまたスライムに変化して、ちゃぽんと消えていく。
ややあって……
「失礼いたしました」
側近に助け起こされるようにして、ウツギが立ち上がる。
「父と、サントウ領を解放してくださったこと、感謝いたします」
それまでの様子を振り払ったような姿ではあったが、目はまだ涙を湛えていた。
それでも、彼はまっすぐに『魔王』を見る。
「改めて、陛下の元へ参じる許可を頂きたく存じます」
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