顕現
そしてまた、教都中心部。
やることはやり、告げなければならないことも告げた。
ためらうことなく、『魔王』は『教女』たちに背を向ける。
もう用はない。後は帰って……。
ひとつ間違えれば、ここが虐殺のスタート地点になっていたかもしれない、そのことに気づいていない敵の喚く声は、もはや『魔王』には届かない。
だが声は届かずとも、形のあるものは届く。
タイミングを見計らっていたのだろう、『魔王』のすぐ近くで倒れていた一人が起きあがり素早く
「無礼者」
冷え冷えとした声と、それよりさらに低い体温、否体温の無い手が、起きあがった兵の首筋を掴む。
「ひッ、? あ、がっ!」
マカールは悲鳴を上げる男の襟首をつかんで、前へと放り投げた。
そのころにはグラキエースの本性で掴まれた首も、肩も、凍傷を負っていた。
「放っておけば凍傷から壊死するぞ、回復してやれ」
ひぃひぃと痛みにかぼそい悲鳴を上げるその兵に、『教女』は駆け寄る。
同じように動こうとしたものも幾人かいたらしいが、ことごとくウツギの枝によって縫い止められていた。
……ウツギの父、アコウの遺骸はほぼ完全な形で彼の元へと戻ってきた。
だからこそ、サントウ家のものたちはその遺骸を調べ、その背中に傷があったことを知った。
アコウは基本的にその職務や能力から後方に位置どることが常。
初代魔王の傍に控え、後方にいたはずのアコウの、さらに背に傷を負わせることができる人員が、当時の勇者側にいて、またそのだまし討ちをよしとした―――その後の虐殺を見れば、相手からすれば当然のことなのだろうが―――ものがいた。
となれば、今の時代においても当然備えるべきであろうと、冷静にウツギは判断していた。
その結果が今出たかたちになってる。
この状況下で重ねて襲撃をおこそうという蛮勇はさすがにないらしい。
だがそれでもと、幾人かが正面からじわじわと『魔王』たちに近寄ってきた、そのときだった。
空気を裂くように、甲高い鈴の音が聞こえた。
鼓膜の奥まで揺らすような音に、その場にいた誰もが思わず耳を塞いだ瞬間、『魔王』と『教女』、その間の空間が揺らいだ。
シャンシャンと続く音は、しかし最前のような攻撃的な鋭さをうしなった涼やかなものに変わっている。
その音の中、歪んだ空中から履物……草履が現れた。
つまさき、足首、袴の裾、その上の上には白い袖、胸元、そして黒髪の少女の顔を隠す獣の面がある。
その手にある鈴が、さきほどからの音の源であるのはたしかだ。
何ごとか、何者かと誰何するものはなかった。
「控えよ。春の先駆けを告げる女神のおなりである」
厳かに告げる少女に続いて、さらに何人もが音とともにあらわれる。
大きな傘を後ろから差しかけられ、同じような獣面の、今度は銀の髪と揃いの耳と尻尾を持つ女に手を支えられる花嫁のような―――。
それを認識した瞬間、『教女』側の、あるいは『魔王』に制圧された側の兵たちはすぐに手のものを放り出し、平伏した。
白い長衣、白いヴェール、その上に咲く紅。
「ああ、そっか」
平伏をせず立ち尽す『魔王』の耳元で、タヌキが呟いた。
「あれって、雪の上に咲く花だったんだ」
白い長衣、白いヴェール、その上に咲く紅。
『教女』の纏うものと形こそ同じだが、単なる白である『教女』と比べ、新たに現れた女のものは、圧倒的なまでの純白。
新雪を紡いで糸にして織りあげたような、それも関わるすべての道具が氷か銀かであろうかと思わせるような、そんな白布。
とくにヴェールは景色に薄く白をかぶせたようにも見えるほどの薄さしかない。
紅の花は、刺繍でもなくリボンで作ったものでもなく、本物。
なによりも、女本人の顔の造作も、ニンゲンばなれして美しい。
見るだけで、「ああ、本物だ」と理解させられてしまうほどに。
手ですらも、透明を重ねて白にしたといえそうな、それこそ雪そのものの肌に、瞳に紅、唇に薄紅の色だけが灯る。
「めがみさま」
ささやく声がさわさわと広がる。
安堵の、恍惚の、希望の、そんな声。
『教女』を呼んだときのように、何度も、何人分もの……
獣面の少女が高く鈴を振り上げて甲高い音を生み出し、その声の広がりを強制的に鎮めた。
そのころには白い女の周囲は、獣面をかぶったものたちに固められ、兵や避難民が夢遊病者のように近づこうとするのを止めていた。
「女神様、お戻りになったのですね!」
静かになったところで『教女』が喜びの声をあげたのに、女神と呼ばれた女はそれを無視して『魔王』のほうへと向き直る。
「わたくしの、ふこころえでながいながいじかん、ひどいめにあわせてしまいましたね」
声は声という形ではなく、周囲のものたちに届いた。
その声は柔らかく柔らかく……ようやく声という形を得られたような。
それに伴って『教女』側のものたちはまたしても平伏した。
だが『魔王』側は兵の一人にいたるまで立ったままでいられている。
「わたくしはこれより、ははのもとへもどり、こたびのつぐないをします」
女神の母となれば、やはり女神であろう。
……伝説によれば、かの女神の母は春の女神であるという。
この世界から離れ、神の世界へ移る。
それは最後まで残っていたこの女神が去り、この世界から神がいなくなる……この国が行使していたものがこれまでのようには使えなくなるということ。
そのことに気づいたニンゲンたちがか細い悲鳴を上げる。
「わたくしがみじゅくなばかりに」
そんなニンゲンたちなど見もせずに、彼女は『魔王』にだけ語りかけた。
だがそれに対して、赦すとはとてもいえない『魔王』は、ただうなずくばかりだ。
神と呼ばれるような存在を相手にしているとき、どうすればいいかわからないのは当然だろう。
「女神様!」
それに対し、『教女』は理解していたといえるだろう。
今ここで女神を翻意させねばならないことを、痛いほどに。
「どうか、どうか憐れなものたちのために、御考え直しを!」
女神の圧とでもよぶべきものを振り払い、『教女』が声をあげる。
それだけでも本来はたいしたものであるはずだった。
己の信ずる神だからこそ、逆らうことはできるまいに。
だが女神はといえば、紅の花と同じ色の目をいぶかし気に彼女に向けた。
そう、ようやく。
「……あなたは、だれ?」
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