開幕
少し、時は戻る。
泥のような眠りから『魔王』が目を覚ますと、天幕は雨の音に囲まれていた。
すぐさま横から、常温のハーブティーがウツギによって差し出される。
苦みこそあれ、すっきりとした冷感を伴うそれはもちろんウツギの用意したもの。
『魔王』は一息に飲み干すと、ありがとうとカップを返した。
「情けないところを見せました」
「いいえ、陛下。完全に成功しました。全員無事に到着しております」
二部隊に分けた兵たちを全員転移させた直後、『魔王』はその場にくたくたと頽れた。
もう立ち上がれないその様子に周囲の兵たちが浮足立ちそうになったのを、四辺境伯たちが留め、すぐに『魔王』のための天幕と寝床が用意され、彼はそこに移された。
もちろん寝台と言っても折り畳み式の野営用。
だが毛布二枚を用意されたそこへ横になっただけで、落ちていくように『魔王』は意識を手放した……。
「陛下、兵たちはみな、一度休憩を取り終わりました」
「タヌキ様は?」
「朝方から表に立たれて、その……なんと申しますか」
ウツギが、珍しく返答に迷っている。
「腹を、叩いておられます」
腹を叩く?
きょとんとした『魔王』にウツギは苦笑する。
「どうやら太鼓のように音を出しているようでして」
その割には、この天幕の中に太鼓のような音は聞こえてこない。雨の音ばかりだ。
そのことにもウツギは苦笑しながら説明を続ける。
「その音にもなにやら仕掛けがあるようです。我々には聞こえないようにしてくださっているようですね」
単調な太鼓の音は何も知らなければ不安を覚えるだろう。
それを活用しようとしているのだろう。
ニンゲンは「わけのわからないもの」に恐怖を覚えるものだ。
となれば、あのタヌキの存在はその極地だろう。
特に実物を初めて見たとなれば。
「おかげであちらに集中しているようで、偵察はこちらまできていないとか」
「目は覚めたか? 食事の用意ができたぞ」
ウツギに続いてマカールが小さな盆を手にあらわれた。
「もう日暮れだ。食べ損ねるとこの先しばらくないからな」
「はい」
差し出された盆の上にはパンが一つと水筒。
『魔王』はベッドから足を下ろす形で座り、それを食べ始めた。
「コアは絶好調だが、レオンシオがな」
「どうしました? 不調がなにか」
「毛皮と羽毛が湿気でぶわぶわしてぶーたれている」
愉快そうなマカールに、くっと顔を反らす『魔王』。
あまりにも簡単に想像できてしまって。
肩の力の抜けた様子に、『魔王』に見えないところでウツギはそっと息を吐いた。
これなら、大丈夫だろうか。
それは誰にも気づかれないほど小さなもの。
これから始まるのは間違いなく戦闘であり、戦争だ。
彼とて、自分の配下を信じぬわけではないのだが……。
「ウツギ?」
「……いいえ。では準備を始めましょう。長い一日になります」
「それで、陛下の乗騎はどうする? レオンシオが背を貸すといっているが」
「そうですね、タヌキ様は先陣を切るとのことですから、レオンシオの言葉に甘えます」
天幕の外でもそろそろ行動を開始した者が多いのだろう、雨の音に混ざって生活音が聞こえる。
『魔王』は上着を着こみ、靴を履きなおした。
顔を濡れ手ぬぐいで拭いて、一息つく。
身支度が終わった頃、次にコアが『魔王』の天幕を訪れた。
「陛下、日が落ちました。そろそろタヌキ様が予告された頃合いです」
「わかりました。ありがとう」
「タヌキ様の行動に会わせて、湿気を止めます」
「はい」
コア、ウツギ、マカールに続く形で『魔王』は天幕を出た。
兵たちが礼をして見送る中を、彼は進む。
「時間だな。さぁ」
「ありがとう」
その先で待っていたレオンシオが、彼を背中に乗せる。
その騎乗状態で森の端、タヌキの背中が見える位置まで移動を始める。
すでに天幕をはじめとした野営道具は、『魔王』が行動を開始するより前より片づけが始まっており、待機をするうちにすっかりと片付いた。
さぁ、後は……
「!」
そこにいた百余人が息を呑んだ。
タヌキが大きく前足を広げる。
ぱらぱらと落ちたのは、豆、であったはずだ。
『魔王』がかの魔獣から聞いた話では、それを兵隊に変えるというのだが彼らの場所からではその様子は見えない。
ただ、遠く敵地の方から、悲鳴のような声がかすかに聞こえた。
『魔王』は後ろを振り返った。
四辺境伯やその副官たちをはじめとした、自軍の兵たちが自分を見ているのを確認してから、彼は声をあげた。
「今、タヌキ様は幻の兵を前面に展開している。これは攻撃すると相手の目をくらませる効果がある」
タヌキのした説明をなぞったことばに、何人もがうなずいた。
あの魔獣様ならなにをやっても「まぁ……できるだろうな……」という境地になりつつある、といってもいいだろうか。
「それにより、相手の遠距離攻撃を無力化する。我々はそのすきを突く形で突撃を仕掛ける。各自、備えよ!」
返事の声こそないものの、全員が次々と己の乗騎にまたがった。
誰も声を出さないのは、タヌキがいることでまったく「それ」が見えないため、期を逃すのをおそれてだ。
その沈黙の中、何重にも重なる風きり音が聞こえ、それと同じほどに重なる何かが地を叩く音が続いた。
「……今」
コアの小さな声とともに、霧が消えた。
それどころか雨がやみ、月光が森まで、そう『魔王』たちのところまで差し込む。
「まさか、あの雨も?」
「我々にはそれほどの力はございません。これは……単なる天佑でしょう」
コアが愉快そうに笑う。
単なる、とは普通は付けない単語。
だが偶然であっても助けと思えばそれは「助け」だ。
女神の国に戦争をしかけるのに、天からの助けとはまた、向こうに対して皮肉なものかもしれないが。
それに笑い返して、『魔王』はレオンシオの背から前方をしめす。
「進め」
四辺境伯を先頭として、彼らは陣取っていた森を出る。
月光の照らす中、進み出る彼らの光景は、遠く騒ぎになっているだろうあの街からはどう見えるだろう。
タヌキの前には、ニンゲンの、見慣れぬ武装をした兵士がいて、槍を街の方に構えていた。
これが件の幻の兵であろう。
「百鬼、いや百騎夜行だ、景気よくいこうぜ」
頭上からタヌキの声が降ってくるのに、『魔王』は見えないと思いながらも笑い返すと、再び右手を挙げる。
「突撃」
ぐっと、身体に加速ゆえの勢いがかかるのに『魔王』は姿勢をたてなおして耐えた。
同じ速度で遅れることなく四辺境伯以下、すべての兵がそれに続いていく。
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