遠景:出現 前
その日はすばらしい晴天だった。
祭りの日にふさわしいような、雲一つない青空。
美しい夕日が海に沈み、空には星が散りばめられた。
一日の労働を終えた人々が夕食や軽い酒を楽しみ、明日も今日のような日であればいいなと思う、そんな日だった。
灯りがひとつふたつと消え、ふたつひとつと減り、常夜灯のようなもの以外はすべて消えて一日が終わった。
そう、何事も無く一日が終わったはずだったし、その翌日も雨になった以外はなにごともなく始まったように見えた。
誰かが、少し城壁から離れた場所にいる「それ」に気づくまでは。
「ひ、え?!」
いっそ間抜けにも聞こえる悲鳴を上げた男は、一点をしめした。
「うわぁ!」
「なにあれ!」
「ばけもの!」
「だめだ、出てくるな!」
「城壁から離れろ!」
悲鳴が加速的に広がり、パニックがそこここで発生する。
街を囲む壁、それを軽々と越えられそうなほどに巨大な獣が外側に悠々とした様子で佇んでいた。
獣に表情は無いというのが定説だ。
だが、その獣はたしかにこちらを見て笑った……と、後から教都のものたちは語った。
茶色の毛皮の二足歩行で、ある程度「魔王の国」を知っているものたちならば、それが魔獣であると気づいた。
ポォン!
破裂したような音が大きく響き、まだ騒動に気づいていなかったものたちに異常をしらしめる。
壁の内側がパニックになっているのを楽しんででもいるかのように、魔獣は左右に揺れながら腹を叩く。
するとまた大きな破裂音がした。
犬は吼え、牛馬は驚き、子どもは泣きだす。
ここが都でなければ、牛馬の数はもっと多く、災厄のひとつめがそれで始まっていたかもしれない。
光景としては、特に日本人が見ていたならば呑気な部類だろう。
単純なリズムで拍子をとりながら、タヌキが腹鼓を打っている。
これが日本の昔話であったなら、悟作どんあたりが悪戯狸が腹鼓を打っておるのぅ、狸の宴会でもあるんじゃろうかと、畑を耕す手を止めて考えそうな、そんな。
だが残念ながら現在タヌキが腹を叩いている現場は日本でもなければ地球ですらない異世界で、ここには生物的な狸は生息していないのだから、「化け狸の腹を叩くといい音がする」なんてこと、わかろうはずもない。
さらに大前提としてタヌキは「おそるべき魔獣」であるとこの国のニンゲンたちは知っている。
何かとんでもない事をしているのではないかと勘繰るのは当然だろう。
子どもたちは荷物を持たされて、家の中でもっとも頑丈な部屋で母や祖父母と耳を塞いでいた。
あの音自体が毒である可能性を鑑みてのものだったが、あとは単純に煩いのだ。
そして父たちは耳をありあわせのボロ布でふさいで、武器をとって集まった。
しかし彼らに何ができるであろう。
市民が持っているレベルの武器である。
そして相手は、この街でもっとも大きな建物と同じほどに大きいのだ。
それに加え、ニンゲンが何に恐怖を抱くか。
それにはいろいろあるだろうが、その中のひとつに「理解不能」があるだろう。
人知を超えた存在が畏怖を抱かれるのは、「次に何をしてくるかわからない」どころか「今何をされているかを正確に測り切れない」ことにもあるだろう。
今まさにこの都……教都のヒトビトは、それゆえの恐怖を味わっていた。
タヌキは何かしゃべることもなく、腹鼓を打つばかりだ。
ぽんぽこぽん。ぽんぽこぽん。
さらに、つい先日このタヌキという魔獣は、聖獣キツネによって倒されていたはず。
また別のタヌキが呼ばれたのか、それとも甦ったのか。
その点もまた彼らの恐怖を呼んでいた。
恐怖のただなかで手も足も出なければニンゲンはどうなるか。
頼れるものに助けを求めようとする。
この場合はもっともこの国で力のある存在、女神やその現身とされる教女ということになるだろうか。
閉じこもるヒトビトは女神に。
少しでも動けるヒトビトは必死で聖堂の前へへと押し寄せた。
ここまで、実際には一人もタヌキは直接は害していない。
巨大化したまま、腹を叩いているだけだ。
だがその効果とくればご覧の有様。
「教女さま」
「教女様」
「どうかお救いください」
「教女様」
声の形になっているだけの悲鳴に満ちる聖堂前に、静かに教女は歩み出た。
彼らの前にたつ教女は、扉の奥にあるはずの女神像と同じ格好をしている。
それだけで集まったものたちから安堵のため息がもれたのは、それだけ彼ら彼女らの信仰心が深いからといえた。
「さぁ皆さん、弱きものから聖堂の中へ。女神はまず弱いものを守るために扉を開きます」
柔らかな声にうながされ、子どもを連れた母親、老人たちが聖堂の中へ入っていく。
すでに聖堂の中では毛布などが用意され、簡易的な避難所として整えられていた。
受け入れ態勢が整っているというだけで安心感が勝るのだろうか、収容されたものたちはベンチの上で肩を寄せ合い、毛布をかぶって心細げに、しかし大人しく座っている。
では「弱きもの」ではないものたちはといえば、中には入らずに聖堂のものたちに導かれるままに別の建物へと案内された。
そこにあるのは武器。
この都を守る正規兵たちが所持するものが並ぶ武器庫だった。
しかも一目で使い方がわかるようなものばかりだった。
「さぁ、好きなものを手に取りなさい」
穏やかに、そう、武器を前にしているとは思えないような優し気な声だけに、怖気がはしりそうなものだが男たちは逆に鼻息も荒く自分がこれだと思うものに手を伸ばした。
逃げてきたはずなのに戦えといわれたが、彼らは己が案ずるものたちを聖堂の中へ、ある意味で女神の御手にゆだねることができたために安らかですらあった。
彼らがとるのは、あるいは剣、あるいは槍、モーニングスター、こん棒。
ナイフなどの短めなものを選ぶものはいないも同然。
……これは普段武器を持たないものにこそ顕著なのだが、大型のものを選ぶ傾向があるようだ。
使わないからこそ、それでもって長時間戦い続けるという視点が無い。
武器を持ったものから外に出て、それを得意げに振り回している。
その中でそれを使いきれないと悟って、取り換えにいくものもほとんどいなかった。
彼らは意気軒高で、さぁと街の中を自然に、隊列のようなものを組んで外側へと移動を始めた。
それを正規の兵たちが率いる。
……簡易な軍隊のできあがりだ。
やはりこれも物騒なことに縁遠いものほど、集団になったことでの高揚が顕著になる。
魔獣を殺せ。
魔獣を倒せ。
腹鼓の音の中でも、彼らは強気になっていた。
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