近景:名前
『彼』の記憶は魂ごとずたずたになってしまいそうなほどの痛みを伴う前世のカエルレウスのものと、痛みはありつつも耐えようとする現在のカエルムのものが地続きとなっている。
母に庇われ、ドゥルセ夫人に守られながら脱出しようとした矢先、裏切り者が城内へと導き入れた敵兵に出くわした。
幼い子どもを連れた女の足で逃げ切れるはずもなく、母と、小母とも呼んだ人は自らを囮として彼を逃がそうとしてくれたが、抵抗虚しく彼もまた捕らわれた。
殴られ、蹴られ、「そこ」だけが無事だった右手に握らされたのは、赤いインクを付けられたペン。
「そう、そこに父君の名前を書いてください」
「は、はうえ、は」
「大丈夫です。父君にも母君にもすぐに会えますよ」
後ろで囁いたのは、父の仕事を補佐していたはずの男。
甘い、猫撫で声とさえいえそうなものに敬意の欠片も無かったと、中断しつつも二十年の年月を生きればわかる。
だがそのときは……ニンゲンたちに猫が鼠を弄ぶようにいたぶられた後では、とても優しく聞こえた。
結果として、あの男は本当のことをいったということになるだろうか。
少なくともあの男自身は嘘をついたつもりはないだろう。
父の名の最後の一文字を書き終えた瞬間、彼の意識はばつんと切れた。
斬られたのだ。
そして次に目を開けたとき、ままならない体を抱き上げて彼を覗きこむ男が目の前にいた。
―――許しておくれ、カエルム。
穏やかな声は、しかし涙を含んでいた。
―――母さんは助からなかった。父さんも、もうすぐ死ぬ。残してやれるものもない、父さんを許しておくれ。
何もわからぬままで、彼は自分がまったく違う父と母を得て、しかし母をすでに亡くし、父も理由はわからぬながらすぐ亡くしてしまうのだということを知った。
そう、一年もたたぬうちに、彼はまだ少年の叔父に連れられて父の職場である―――そして見覚えのある―――城の中に隠れている最中に父やその同僚の断末魔を聞くことになった。
ニンゲンによる殺戮の宴である『封印行』、それに備えて城を守る兵士として父は母や叔父とともに城に住みこんでいた。
そのためだ。
本来なら少し前に叔父とともに城内から出て行っている予定だったのが、逃げ遅れたのだ。
いつ泣きだすかわからない赤子など、隠れ潜み息を殺して殺戮者をやりすごさないといけないときには厄病神でしかない。
それでも隠れ場所に来いと、彼を抱いた叔父ごと城内のヒトビトはかくまってくれようとした。
叔父は彼らの安全のためにそれを断り、最前線にも近い場所に隠れた。
彼は赤子らしからぬ沈黙でもって、この時間を耐えた。
耐えながら、彼はあの日を追体験していたといっていいだろう。
違うのは逃げ回ることではなく、隠れ続けていること。
声をあげることも泣くことも、身動きひとつしない赤子というのは異様なものであったろうが、彼を抱きしめていた叔父は極度の緊張からそれに気づくことは無かった。
隠れ場所から出たとき、否、すぐ近くで父の遺体を見つけたとき、彼はようやく泣き始めた……。
ようやく、理解できたのだ。
父と母に会わせるといったあの男の言葉は、本当だったのだと。
ただしそれは酷くいびつで歪んだ悪意に満ちたものだったということも。
ままならない幼い体でできたのは、当時できなかった『泣きつかれるまで泣き続ける』ことだけだった。
叔父はそのときから、もしかしたら彼の特異さを感じ取っていたのかもしれない。
己が代理として即位してすぐに、城の蔵書の取り扱いを調べ、彼が文字をおぼえたならすぐに使えるように手はずを整えていた……というのは己の『叔父さん』をよく思いたい彼の欲目で、自分が使うそのついでであったのかもしれない。
とにかく、図書室を自由に使えるようにしてくれていたおかげで、彼は自習することができるようになった。
そして、彼は己が死んでからの『歴史』を知った。
呪わしい、おぞましい、生贄として形を整えられてしまったこの国。
九十五年、八人の魔王、三十六人の側近役、四十人の侍従役、およそ八百人の兵士たち。
そして『勇者』役に出くわしてしまった、それだけで殺されてしまったものたち。
さらに初代魔王と側近たち、兵士たち、内政の文官のうち五家のものたち、城で働いていたものたち。
知れば知るほどに増えていく犠牲者の数。
そのうちの一人はかつての父、今生の父、それからかつての自分……。
―――どうして、どうしてここまでするの? ここまでされるような罪が僕らにあるの……?
彼は見た目だけであれば物心つくかつかないかといった年頃の子ども、さらにいってしまえば現『魔王』とはいえ中央十貴族のものでもない、兵士の弟だった男の、甥にすぎない。
泣いている子どもは人気のない図書室で放っておかれ、彼は二度目の泣き疲れで伏していたところを、仕事を終えた叔父に見つけられた。
「悲しい物語を見つけたのかい?」
優しく訊かれたけれど、彼はなにも言えずに首を振ることしかできなかった。
叔父は、彼が伏していた机の上に置かれていた本に目をやって、顔を曇らせた。
「……それはね、この国の歴史の流れ、ニンゲンたちが楽しみのために食い殺していったひとたちの記録。この中の一人が、お前の父さん……」
叔父は彼の小さな体をぎゅっと抱きしめた。
それはどこか、叔父が自分の涙を見せまいとするためのかたちでもあった。
その日から、さらに彼は図書室での勉強を続け、進めた。
その中で魔法の教科書とも呼べるものを見つけ、かつての父や母、その友人たちからの手ほどきを思い出しながら彼は魔法を習得しなおした。
守りの魔法など、必要と思われるものを順番に。
放っておかれているも同然の学習環境が、逆に誰にも不審に思われず―――文字を覚えたばかりの子どもが独学で魔法を身に付けているのがわかったら、不審に思われて当然だろう―――学習を進められたのは皮肉だろう。
それでも、これはあくまでも叔父が『封印行』を生き残るための準備のつもりであった。
彼は叔父の励む様子に、そうなってほしいと思っていたし、今代の側近役たちを見て勝てる、少なくとも撃退できるだろうと思っていた。
しかし、件の契約書の効力は……彼は父親のとき同様、叔父の断末魔をも、聞いてしまうことになった。
タヌキが訪れたのはこの五年後。
十年の期間を置く約束がやぶられたときの話になる。
「なぁなぁ、お前の名前はなんていうんだ?」
自分の『今』までを考えていた『魔王』はタヌキの声に我に返った。
「私は、ディータイクで」
「いやそっちじゃなくて、お前の元々の名前」
タヌキの言葉に彼は目を瞬かせる。
今となっては記録にこそ残されているだろうが、もう誰も呼ばないだろう彼の名前。
それを教えろと。
「カエルム、です」
すっと、彼の口から出てきた五年ぶりの己の名前。
不思議なくらいにかつてのものと似た名は、その「残っているが忘れられた」という末路まで、似ていた。
「どういう意味なんだ?」
「……空の、とか、天の、とかの古い言葉ですね」
髪色や目の色からの、青という意味だった『カエルレウス』とは全く別のものになるけれど。
「いい名前だな」
「そうですか?」
「おう、天のって、かっこいいぞ」
「そういったもの」から遠いタヌキにそういわれて、虚を突かれた思いだった。
そうか、かっこいいのかと。
前の名を五歳、今の名を十歳で取り上げられた『魔王』にとって、「かっこいい名前」とは考えるようなものではなかったのだ。
「これ終わったら、その名前使った方がいいって。親父さんとおふくろさんのくれたものだし、新しい魔王には、新しい名前がいいよ」
「……そうですね。そう、しましょうか」
読んでいただきありがとうございます。




