遠征の準備を
聖獣がきたとして、それを理由に国の動きを止めることはできない。
正確には、国の政治の動きをすべて戦争に振り向けることはできない。
ひとまず対処は四天王役とタヌキに任せて、『魔王』と侍従役たちは国政の続きに戻った。
侍従役たちの働きのおかげで、上位五貴族のいたころのように国が動くようになっている。
もともと彼らが構築してきた仕組みを上手く動かすことができた、ともいえるだろう。
九十五年をかけて営々と積み重ね、堅固にしてきたものだ。
ある意味、属人性を排してきたからこそ、役目に就くものさえ確保できれば問題なく動く。
五人分の席に入る人数は既に確保できているので、あとはその仕組みのなかの歪みなどを見つけながら改善していく。
ある意味で……上位五貴族の功績ではあるといえるだろう。
雛型とでもよべそうな、参考にできる型があれば、同じような型も作れるし改良できる。
何個もの、何重ものそれを作る作業を、通常の国の運営と並行して進めていた。
『魔王』の手が、ふと止まる。
彼の前にあるのは、毎日のようにあたっている仕事の、なんでもない箇所だ。
難しさのためではない。
その彼の横から、新しい粉茶が差し入れられた。
「ありがとう」
「……気になりますか?」
差し出したシリルは、その片方の手に自分の茶碗を持っている。
粉茶そのものはメイドたちが用意してくれたものだが、本来は彼女たちが持ってくるそれを、互いに受け渡しするのが彼らにはすっかり習い性になってしまっていた。
「……そう、かも。今までタヌキ様がどうしてきたかは、簡単にしか知らなかったので」
たとえていうなら、あらすじのようなものしか、『魔王』は知らなかった。
だがあらすじの一文の中には、何百行分の本文が存在する。
その何百行のすきまにタヌキの人間関係とでも呼べそうなものが織り込まれて、彼らには見えなくなっていた。
「そこ」が気になってしまうのはしかたないことだろう。
「私が、タヌキ様に訊いてみましょうか?」
シリルが心配そうに尋ねた。
「もしかしたら……あまり聞かれたくないことかもしれませんし」
もしそうであれば、タヌキが悪印象をもつのはシリルだけに留められるだろうからと。
それに『魔王』はゆるく首を振った。
「大丈夫、もし何か差支えのあるようなことなら、タヌキ様の方がおっしゃるだろうし」
その言葉に、シリルもうなずきかえした。
シリルはこの国ではいずれ宰相になる、という位置づけになっている。
宰相とは、つまり王の補佐であるから、政務のおおよそすべてを差配できる者である。
少なくともこの国では。
この場合、この「できる」には、権利と可能の両方が含まれる。
それはすなわち、国政を王と同等か、それ以上に知悉していることが求められる。
実際、すでに先代扱いとされているエドマンド・アンカーソンは長年にわたり、『魔王』に代わって国政をまとめてきた。
それに比べればシリルはまだ未熟ではあったが、それでも決して成り替わるようなことなどない。
あくまで彼は『魔王』の補佐なのだった。
そのことを、たぶんシリル本人と『魔王』だけは気づいておらず、アーリーンや他の大人たちばかりが微笑ましく見ていた。
「さて」
言葉でアーリーンが空気を切り替えた。
「ひとまず次にすることを考えようじゃないか。キツネが来ることだけは確実だ」
「そのことなんですが、今までの資料を当たってみたところ、ニンゲン側は一回目の『封印行』のときにはすでに渡航という手段を棄てて、転移の魔法陣のみを使用していますね」
転移の魔法陣はたしかに便利だ。
時間をつかわず、また乗り物を消耗せず、生き物の世話も要らず、必要なコストは魔力だけ。
大人数を送れないという難点こそあるが、いままでの『封印行』において、弱体化した『魔王』たちの軍を相手にするぶんには問題はなかった。
向こうの国が、自分たちが契約を破ったことに自覚があるかはわからないが、おそらくはこのまま魔法陣を使い続けるだろう……。
元々、渡航……船でのこちらへの上陸自体難易度が高かったのだ。
ただ、タヌキが高速飛行で他の国へと出向いたように、ニンゲン以外ならそれ以上の方法を思いつくことも、その手段をとることもできるのだから、キツネが思いつかないはずがない。
向こうがキツネの行動に便乗するか、それとも自分たちのやり方をキツネに踏襲させるかは、わからない。
「そこが不確定である以上、できることを準備するしかないですわね」
「幸い、件のため池の工事は順調であるし、じきに人員を城に戻す目途もたつかと」
ひでり、そこまでいかずとも少雨に対する備えに兵を使うのも早く済めば、防衛力を組み直すことができるというわけだ。
現時点では少数同士、四辺境伯自ら出ていたため、兵士たちは直接戦うことは亜竜のとき以降はないが、用心にこしたことはないだろう。
「それで……そろそろ逆に遠征の準備を考えようと思っています」
「遠征……と申しますと」
「敵国へのものです」
『魔王』は断言する。
「ただ、早すぎることは理解しています。今は相手の進軍を止めることしかできていないことも」
続けて彼は淡々と言葉を継ぐ。
「しかしそれでは何も変わらない。我々は相手の糧にされるまま。異世界のコーコーセーたちのようなこともあります。ならばこそ、相手が契約を破ったことに気づいていないだろう、今のうちから遠征の計画を始めることは決して早すぎるということにはならないはずです」
正式な遠征ともなれば、『魔王』とタヌキの二人連れでやったような、辺境伯領への電撃作戦のようにはいかない。
大軍を食わせるための食料。
野営を行うための道具類。
それらを運搬するための輸送手段。
大幅に省略しても兵站としてはこれらは必ず考えなくてはならない。
「……ではまず、物資の必要量を計算するための計算をはじめようか。幸い、我々は数字に強いからねぇ」
ふふ、とアーリーンが笑った。
もともと戦況をひっくり返したいがために登城を決めたものたちだ。
切り替えは早い。
書記として控える者たちが記すのとはまた別に、侍従役たち自身も羊皮紙の小片にメモをとっている。
正式な書面とはまた別に、すぐに動くためのそれぞれの覚書だ。
彼らはそれに、ペンを走らせ始めた。
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