遠景:召喚 後
進み出てきた女はまだまだ若い、少女というには大人びてはいるが、まだまだ乙女と呼べる領域に在るように、その場の人間たちには思われた。
だが落ち着き払った様子からは老練とさえいえそうな雰囲気があり、獣面の下の表情はうかがいきれない。
無言で『聖獣』は周囲を睥睨した。
「何用か」
低い声が問う。
その問いかけに、『教女』は正しく彼女が召喚されたものと判断した。
「邪悪なる魔王に従う魔獣を倒してください」
事実上、かの魔獣は自分たちの手に負えないと匙を投げたようなものだ。
だがあの魔獣さえいなければと。
『聖獣』は少し首を傾げたようだった。
「その魔獣とは、どういったものだ?」
女の物にしては口調に柔らかさは無いが、『教女』はそういうものであろうと思った。
「茶色の毛皮で犬よりは小さく猫よりは大きく、我らが見たことも無いものにも、良く知る物にも、また魔物にも、自在に変わるおそるべき魔獣……わずかに聞こえた言葉によれば、タヌキと呼ばれていると」
「たぬきといったか?」
きん、と空気が冷え、肌を刺すような幻覚にその場にいたものたちは襲われた。
声に含まれている怒気を、『聖獣』が冷やして抑え込んだものが周囲に溢れたような。
「タヌキです。この世界にあのような獣はおりません」
「……そのタヌキの名は?」
「獣に名があるのですか?」
『教女』は目の前の『聖獣』があまりにも美しく人の姿をとっているものだから……彼女が獣であることを忘れてしまっていた。
その上、『聖獣』の顔は面の下で、その表情をうかがうこともできない。
「………………詳しく聞かせろ」
ゆえにしばし落ちた静寂を、沈思黙考したものであると思った。
『教女』は己の知る限りの情報を伝えるため、一旦『聖獣』を客間へとうながした。
だが『聖獣』はすぐに動かず、少し手を広げ、たとえていうなら雨が降っているかをみるような手つきをした。
「何か?」
「……拾っただけだ」
はぁ、と木の抜けたような声が出そうになったのを『教女』は慌てて噛み殺した。
女神よりつかわされた存在に対し、それは失礼にあたる、そう判断したのと、女神に近い者であるなら、自分たちに理解できぬ何かが見えているのであろうと思ったからだった。
客間での『教女』が語る言葉を『聖獣』は遮ることはなかったが、また相槌をうつこともなかった。
ただじっと、獣の面―――白に赤や青で彩色し、口吻をとがらせた、この世界にはいない獣のものだ―――の向こうから『教女』を見つめる気配を感じるばかり。
だが話も終盤、異世界から呼び寄せた少年少女たちが虐殺されたというくだりを、要点をかいつまんで語ると、その細い肩がぎゅっとこわばった。
「おそるべき、そして倒すべき魔獣なのです」
語り終え『教女』は緊張から解放されて、大きなため息をついた。
女神の力を借りて呼び寄せた少年少女たちは戦う力をほとんど持っていなかったが、魔法に対してはとびぬけた適性を持つものが多くいた。
素の状態ですらこちらで数年基礎訓練を積んだ者たちよりも上。
であれば、上位の存在であればどれほどか。
おそらくは自分たちも越えるほどの……そう思えばこその緊張であり、本来は取らせるべき面をも見逃した。
「それで、タヌキはその国にいるのだな?」
「はい」
「その国とはどれほど離れている?」
「距離は関係ありません。先ほどの魔法陣より時をかけずに行くことができます」
「…………ほう」
感心してもらえたようだと、『教女』はまたひとつ安堵する。
少年たちならばともかく、この『聖獣』に関してはあくまでも穏やかに話を進めなくてはならない……それは、『教女』の本能や肌感覚からのものであった。
砕けた言い方をするなら、『教女』は野の肉食獣に相対したときのような、自分の恐怖心に従ったのだった。
熊を相手取るときのように。
もっともその対処は、まだ人と対峙したことのない熊のためのものだったが。
「タヌキを倒してのち、貴様らはその国に対してどうするつもりだ」
「通常どおり『封印行』を続行いたします。私たちは魔王の封印をもって、世界の安寧の一端を守る者ですゆえ……」
だがその恐怖心を、生まれてからずっとその営みに参加してきた誇らしさが上回る。
自分たちは小さく弱くあっても、世界のためになっている……
貧困など魔王の脅威以外のことには、わずかにしか力になれずとも……。
その『教女』のほこらしさを『聖獣』は静に聴くのみで反論はまったくなかった。
それが彼女には肯定のとうに思えて安堵のみならず心強さをも感じた。
必ずかの魔獣タヌキを倒し、今回の『封印行』を成功させて十年、否五年の安寧を。
「話はわかった」
『聖獣』はゆっくりとその後を続けた。
「貴様らは、私にタヌキを打ち倒すことを求めるのだな?」
「はい!」
魔王を倒すのは人でなくてはならない。
だからこその願いではあったのだが、その強すぎるような望みのゆえに、彼女は見落としてしまった。
「……いいだろう、タヌキを倒してやる」
「はい!」
「……時に、名を何という?」
「私に名はありません。今は教女とのみ呼ばれております」
個を棄てて、教えに従う誓いゆえのそれもまた、彼女の誇り。
「……では、私は命婦と呼べ」
「ミョウブ、ですか?」
「私の名は、とつくにの者に発するには難しい」
獣面に開けられた目の穴は小さく、ましてや面は命婦の顔全体を覆っている。
『教女』に命婦の表情を知ることはできなかった。
読んでいただきありがとうございます。
この話で「生贄勇者編」は終了です。




