7 舞の母
7 舞の母
山花さんとリモートで話をした翌日にメールが来た。
山花:昨日はお会いでき、とても楽しいひと時を過ごさせていただきました。先生のご尊顔を拝見でき、直接お声を聞くことができまして、テレビ電話を切ってからもしばらく興奮が冷めませんでした。妻が私の喜びようを見て、「よかったですね。先生とお会いできて」と申しておりました。私の両親や息子たちは写らないようにしていましたが、遠巻きからスマホにうつる先生のお顔を拝見し、お話を伺って喜んでおりました。
(ぼく:えっ、家族総出で見られていたの。ぼくなんか、誰も知らない無名の人だよ。山花家だけに有名なの? 山花さんが誇大にぼくのことを家族に吹き込んでいるんだろうな)
山花:私たち家族は全員、先生の『麦川アパート物語』を読ませていただきました。家族の愛読書になっています。
(ぼく:愛読書と言っても、本になっていなくてネットにあげているだけだよ)
山花:祖母は先生から直筆のサインをいただけないかと申しておりますが、それはさすがに厚かましいことだと言って、とめております。
ぼく:私のような無名のものがサインなぞしたら、末代までの恥となります。
山花:祖父などは、『麦川アパート物語』の中で舞について触れている一節の「舞は容姿はそれほどでもないが、愛嬌がある。それに話が面白い。」を凄く気に入っていまして、毎日朝食の前にみんなの前で口に出して唱えていたほどです。今では家族全員空で言えるようになり、朝食前に家族で唱和するようになりました。
(ぼく:なんか滑稽なような、それでいて不気味なような感じがするんだけど)
山花:祖父は、先生にここの一節を直筆で色紙に書いていただけないだろうかと、申しております。老い先短い祖父の願いなので、私としてもかなえてやりたいと思っております。もし先生から書いていただけましたら、色紙は額に入れて大事にリビングの一番目立つところに飾らせていただきたいと存じます。私どもの勝手な願いを聞き入れていただければありがたいです。
(ぼく:田舎者は厚かましいね。でも、おばあさんのサインは駄目で、おじいさんの色紙はいいの? 理解しがたいな。でも、これだけ頼まれたら色紙に書くくらいいいかな。法律に触れるわけではないし、山花さんを騙しているわけでもないわけだから)
ぼく:おじいさまのためでしたら、私の下手な字でよろしければ、色紙に書かせていただきます。
山花:本当ですか。それでしたら、横に先生のサインと著書の名前『麦川アパート物語』もお願いします。
ぼく:私は字が下手くそですよ。これから練習するので、送るのはまだ先になると思うのですが、よろしいでしょうか。
山花:結構でございます。壁に掛けたお色紙の前で、毎朝食事の時にみんなで小説の一節を唱和できる日が来ることを、一日千秋の思いで待っています。
ぼく:少しおおげさですね。
山花:いや、それほど「舞は容姿はそれほどでもないが、愛嬌がある。それに話が面白い。」というフレーズが我が家のみんなの心に響くのでございます。
ぼく:よほど舞さんは山花家のみなさんに愛されていらっしゃるのですね。
山花:そうです。良い娘に育ってくれました。
ぼく:そうなんでしょうね。
山花:ところで、次回は我が家のみんなが先生に画面越しにご挨拶したいと申しているのですが、それはいくらなんでも先生に失礼だろうと言って、制しております。
(ぼく:何なんだ、この山花家は。さっきまで恥ずかしいって、言ってたんじゃないの?)
山花:ですが、妻は舞の母として先生に直接お礼を言いたいと言い張っておりまして、私では抑えることができなくなっています。一度、テレビ電話で妻に会っていただけないでしょうか? ほんの短い時間でいいんです。妻も先生のお声を聞くだけで安心すると思いますので。
(ぼく:しかたがないか)
ぼく:奥様さえよろしければ、私としてもお会いしたいと存じます。
山花:では、次の日曜日午後2時ということではどうでしょうか?
(ぼく:えっ、日曜日午後2時がテレビ電話の定例になるの? 仕事はないけど、日曜日が潰れちゃうじゃない)
ぼく:それじゃあ、日曜日の午後2時に。
山花:妻は大喜びすると思います。日曜日の午後2時を楽しみにしています。
日曜日午後2時きっかりにテレビ電話がかかってきた。
山花:先生、こっちが妻の圭子です。
(ぼく:旦那の傍で緊張して座っているが、少し前に美容院にいったのがすぐにわかるほど、髪が整っている。服も七五三に子供を連れて行くときのようなスーツ姿だ。隣にいる山花さんは、前回よりも少し余裕が出てきたようだね)
山花の妻:妻の圭子です。いつも娘の舞がお世話になっております。
(ぼく:いったいなんて言ったら言いんだ)
ぼく:ご家族で私の小説をご愛読いただいているそうで、ありがとうございます。
山花の妻:うちの舞を先生の小説『麦川アパート物語』に登場させていただき、感謝の申しようもありません。常々、直接お会いしてお礼を申し述べたいと思っておりましたが、何分コロナのために県外に出ることが禁止されており、コロナが終息するのを待っていたらいつになるかわかりませんので、心苦しいことではありますが、テレビ電話の力を借りましてひとまずお礼を申し上げる次第でございます。
ぼく:おたくの舞さんは家族のみなさまにたいそう愛されているようですね。
山花の妻:先生にお書きいただいたように愛嬌のある子どもでした。
ぼく:そこが私の小説に登場した舞と共通していたんですね。
山花の妻:共通していたというか、私どもの舞を先生の小説に登場させていただいたのではないのでしょうか?
山花:まあまあ、ここでは。
ぼく:私の小説にモデルはいないのですが。偶然の一致なのではないですか。全国に舞という名前の女性は多いでしょうし、愛嬌のある舞さんも全国にはたくさんいると思いますから。
山花の妻:そんなことはありません。舞から麦川アパートに住んでいるから、とメールが入ったんですから。
(ぼく:奥さんの顔つきが険しくなってきたよ。まじにならないでよ。ぼくこんなの弱いんだ)
ぼく:それはご主人さまからもお伺いしました。おたくの舞さんの冗談なのではないですか?
(ぼく:あっ、不味いことを口走っちゃったな)
山花の妻:何を言っているんですか。うちの舞は親にだけは嘘をつくような子ではありません。最近、我々は麦川アパートに住んでいる他のお嬢さんの親御さんたちとも連絡を取り合っているんですよ。
ぼく:えっ、いったいそれは誰なんですか?
山花の妻:あなた、誰でしたっけ。
山花:優花さんと葵さんと明日香さんの親御さんだよ。ああ、最近、亜美さんの親からもメールが来たね。
ぼく:いったい何のことをお話しなさっているのか、さっぱりわからないのですが。
山花の妻:だから、私たちと同じように麦川アパートに住んでいる人たちの親御さんですよ。みなさん、先生の小説の愛読者なんですよ。
ぼく:愛読者なのは感謝いたします。しかし、お嬢さんがたが麦川アパートに住んでいるというのは、何の話なのかさっぱりわからないのですが。麦川アパートは架空の話ですよ。
山花の妻:麦川アパートが架空だとしたら、私たちの娘も存在しないと言うんですか。
ぼく:そう興奮なさらなくても。みなさまのお嬢さんを存在しないなんて言っているわけじゃありません。お元気に暮らしておられることと思います。しかし、そのお嬢さんがたが私の小説の中の麦川アパートに住んでいることは、常識ではあるはずがありません。どこか他のアパートじゃないんですか?
山花の妻:小説の中に出てくるうだつの上がらない五十男は先生がモデルじゃないんですか? 先生は競馬やパチンコが趣味じゃないんですか?
山花:うだつが上がらない、というのは失礼じゃないか。
山花の妻:それは先生が小説に書かれていることでしょう。私が言ったことじゃないわ。
ぼく:五十男もぼくがモデルじゃありません。こんな男どこにでもいるじゃないですか。
山花の妻:うちの舞もどこにでもいると言うんじゃないでしょうね。
ぼく:おたくのお嬢さんは立派な方です。かけがえのないお嬢さんです。
山花の妻:今度、麦川アパートの住人の親御さんたちとみんなで会いませんか? 先生、どうでしょう?
(ぼく:なんていう提案だ。もうこの際だから、その親という人たちに会ってみるか。山花夫婦がどうしてぼくを迷宮の世界に引きずり込もうとしているのかわかるかもしれないからな。別に実害はないだろう。危ないと思ったら、会わないようにすればいいんだから)
ぼく:よろしいでしょう。次回、みなさんとお会いしましょう。ご主人が手配して、日にちと時間をお知らせください。でも、どうして他の親御さんたちと連絡が取れたのですか?
山花:次男がコンピュータに詳しくて、ネットに麦川アパートの住人の親御さんと会いたいと、人探しの欄に掲載してくれたのです。すると、結構たくさんのメールが来ました。確かにいい加減なものもたくさんありましたが、小説と同名のお嬢さんの詳しい情報を教えてくれる正真正銘の親御さんがいたんです。小説に書かれているように、多くの親は子供を虐待していたので、名乗り出られなかったのでしょうが、優花さんの母親はあの頃のことを深く反省していると言っていました。みんな、娘さんのことを強く愛しているんですよ。
ぼく:何か壮大な物語を聞いているようですね。
山花:いずれにしても、今度みなさんと会ってください。
ぼく:連絡お待ちしています。
つづく