オオカミ
本当に聖王は正気なのだろうか。
王女はもっと反抗したほうがよいのではないだろうか。
十年前のあの王女の発言――プロポーズは幼い子ども気まぐれのようなものだっただろうに。
今はきっと後悔しているだろう。
そう考えながら、自室に戻ったジュードは檻に閉じ込められたオオカミのように室内をうろうろしていた。
そのことに気付いて足を止めると、隣の部屋で眠っているだろうアドリアーネを想い、深くため息を吐いた。
初めて会ったときの印象は、聖王女の名にふさわしい天使のような少女だった。
体も大きく頬に傷のある自分はきっとこの天使を怖がらせてしまうだろう。
その予想通り、アドリアーネはジュードを見て大きな目をさらに真ん丸に見開いた。
今まで出会った幼子のように泣き出すかと身構えたジュードだったが、アドリアーネは悲しそうな表情をしながらも無邪気に訊いたのだ。
――どうしてケガをしているの? と。
しかもジュードのことを〝オオカミさん〟とまで呼んで。
あのとき、ジュードはありきたりな言葉で答えた気がする。
するとアドリアーネは「痛いなら痛いと言えばいい」というようなことを言った。
彼女はそうやって素直に生きてきたのだろう。
そして十年ぶりに会ったあの小さかった少女は大人の女性となって、予想以上に美しくなってジュードの前に現れた。
しかもアドリアーネは二十歳も年上の男の花嫁になることに疑問も嫌悪も抱いていないらしい。
「そこは素直じゃなくて、反抗しろよ……」
一人呟いて、ジュードは一人掛けの椅子に腰を下ろした。
普段忙しくしているジュードは、この椅子に脱いだ衣服を放るように掛けることはあっても座ったことはない。
そもそもこの部屋に――寝室に足を踏み入れることさえ稀なのだ。
いつも執務室や騎士宿舎で仮眠をとることが多い。
だが今日は部屋に帰れと側近のノーハスに強く言われ、仕方なく従ったのだった。
この国王の部屋はジュードの性に合わない。
はっきり言って居心地が悪い。
今はさらに隣の部屋――王妃の部屋にアドリアーネがいるのだから落ち着かなかった。
もちろん鍵は厳重に掛けられており、結婚式を迎える当日まで部屋を繋ぐ扉が開かれることはない。
「まいったな……」
ジュードは膝に腕をついて頭を抱えた。
当時少女だったアドリアーネが大人の女性になったように、ジュードもまた年を取ったのだ。
てっきりこの十年の間に聖王が、もしくはアドリアーネが気持ちを変えて婚約解消を願いでてくるものだと思っていた。
聖王国からの支援はとても有難いことだった。
おかげでボラリア王国は国を立て直すことができ、民もようやく平和な生活を享受できるようになったのだ。
もちろん心配事はたくさんある。問題も山積みである。
それでも聖王国からの支援を得ずともやっていけるだけの見通しが立った。
これからは今までの恩返しができる。
だがまずはアドリアーネとの婚約解消――後見の証として調えてくれた縁組の解消を申し出るつもりだった。
ところがその申し出よりも先にアドリアーネの輿入れの日が伝えられ、返事をする間もなくアドリアーネはこの国にやって来たのだ。
(いや、でも、ひと月もあればさすがに考えを変えるよな……)
この十年、手紙でのやり取り――文通はしてきた。
はじめは手紙が届いたことに驚いたが、少女らしい夢のある可愛い文面に心を和まされたものだ。
それからひと月に一度、文面は徐々に大人らしくなっていったが、ジュードの中ではアドリアーネはまだ八歳の少女だった。
それがいきなり大人の美しい女性として現れたのだから、男なら惹かれないわけがない。
ただアドリアーネにとっても、おそらく大きな厳ついお兄さんだったジュードがおっさんになっていたことに驚いたのだろう。
馬車から降りてジュードを目にしたとき、アドリアーネは一瞬眉を寄せた。
そしてジュードからかすかに視線を逸らして背後を見つめ、天使のように微笑んだのだ。
きっと聖王女としての役割がそうさせたのだろう。
「よし決めた!」
ジュードは膝を打って立ち上がった。
何を決めたのかといえば、このひと月の間――できれば十日ほどの間でアドリアーネの気持ちを変えよう――というより、この約束を反故にしてもいいのだと理解させることにしたのだ。
きっとアドリアーネは約束を守らなければならないと思っているのだろう。
だから大丈夫だと、自分のようなおっさんと結婚しなくてもよいのだと理解させることにした。
実行するのは早いほうがいい。
明日の午後、お茶の時間とやらなら暇はある。――というより、ノーハスに花嫁と親睦を深めるよう無理やり時間を取らされたのだ。
そのときに告げればいい。
きっとアドリアーネは安心するだろう。
ここ最近の悩みがようやく片付いて、ほっとしたジュードは久しぶりにベッドに入って寝たのだった。
――が、翌日の午後。
にこにこ微笑んでお茶を優雅に飲むアドリアーネを前に、ジュードは言葉を失っていた。
本当のところは、言葉はジュードが持つ限りを尽くしたのだが、アドリアーネには通じなかったのだ。
「で、ですから……姫はまだお若い。私のような老いぼれと結婚などされなくても、他にもっと素晴らしい若者が大勢おります」
「アドリアーネです」
「は?」
「姫、ではなくアドリアーネと呼んでくださいませ」
「ア、アドリアーネ…殿、あなたには――」
「お言葉を遮って申し訳ございませんが、私の若さとジュード様のご年齢を問題にされておられるようですね。しかし、そのことについては逆だと思います」
「逆?」
「はい。まあ、ジュード様は老いぼれさんではございませんが、それはひとまず置いておきましょう。要するに、私が若く、ジュード様が年を取られているのだと思われるのでしたら、私のことよりもジュード様を優先させなければならないではないですか」
「……はい?」
「ですから、ジュード様には急ぎ花嫁が必要だということです。そして花嫁はすでに私に決まっているのですから、何も問題はございませんでしょう? それとも、ジュード様は私ではご不満……なのですか?」
「と、とんでもない!」
朗らかに自説を唱えるアドリアーネの言葉を必死に理解しようとしていたジュードは、反論することができなかった。
それどころか、最後には涙目になって自分では不満なのかと問いかけるアドリアーネには慌てて否定した。
こうして簡単に解決すると思っていた婚約解消の話し合いは残念な結果に終わったのだった。