プロポーズ
「姫様!」
「ターニャ! よかったわ、無事に戻れて」
「ええ、どうにか間に合ったようですね。それにきちんとノーハス殿にお手紙をお渡しできました」
「――ありがとう、ターニャ」
息を切らしてターニャが戻ってきたときには、アドリアーネは出発のために部屋を出たところだった。
アドリアーネはいつもより着飾っている。
そのためターニャは侍女らしく、抱きしめようとしてくるアドリアーネをそっと制した。
「ターニャ?」
「そのように美しいお姿をされていて、乱されては私どもはたまりませんから」
優しく笑って説明するターニャに、アドリアーネも一緒に微笑んだ。
いつまでも悲しんではいられない。
「神殿の周囲にお兄様を一目見ようと多くの人が集まっているんですって。それでおまけの私もそれなりに着飾ったのよ」
ターニャの気遣いに応え、アドリアーネはわざとらしく拗ねたように呟いた。
聖王女だけでも珍しいのに、聖王子など一生に一度も目にすることはできないだろう。
ヘレオンがアドリアーネと共に神殿に滞在しているという噂は一晩であっという間に広がり、近隣の街からも人々が押し寄せているのだ。
お陰でターニャも神殿内に戻るのにかなり苦労した。
ただ人々はなぜ王都ではなく隣街にあるこの神殿に二人が滞在しているのかは知らない。
「……おまけなどではございません。姫様は聡明で、お優しく、その容姿だけでなくお心まで美しい方ですもの。本当に姫様は――」
「いいわ、わかった。これ以上は恥ずかしいからやめて」
身びいきが過ぎるターニャの言葉をアドリアーネは軽く手を振って遮った。
いつも以上に強く褒め讃えるのはきっと、アドリアーネのドレスが聖殿を出発するときと同じものだからだろう。
あのときはやっとジュードに会える、結婚できると喜びに胸を躍らせていたのだ。
自分のいない間にこのドレスを着せた侍女に腹を立てているらしいターニャにアドリアーネは気付いた。
「このドレスはお兄様が指定したらしいわ。今日のような日に相応しいからって」
「ヘレオン様がですか?」
「ええ。不思議だわ。お兄様は人の心が読めるはずなのにね。ほんと男の人って鈍感だわ」
文句を言いながらもアドリアーネはスカートを両手で摘んでくるりと回った。
他の者ならはしゃいでいると思える姿も、ターニャにはアドリアーネが無理をしているようにしか見えなかった。
「アドリアーネ、そろそろ出発するよ」
「はい、お兄様」
軽くノックの後にヘレオンが顔を覗かせて声をかけた。
アドリアーネは微笑んで答え、ターニャに頷いてからヘレオンに続く。
廊下に出て差し出された腕に手を添えると、ヘレオンは困り顔で問いかけてきた。
「アドリアーネ、怒っているみたいだね?」
「自分の不甲斐なさに腹を立てているんです」
「だけど結婚の邪魔をした僕にも怒っているよね?」
「もう! お兄様は全てお見通しなんですから、わざわざお訊きにならないでください! 意地悪です!」
「ごめん、ごめん。意地悪をしたわけじゃないよ。僕たちは――父上も兄上たちもみんなアドリアーネのことを愛しているんだ。だから本当はこんな遠くの地にお嫁に出したくなんてなかったんだよ。でもアドリアーネには幸せになってもらいたいからね」
それならなぜ今、祖国に連れ帰ろうとしているのかと訴えたかったが、アドリアーネは何も言わなかった。
どうせ兄にはこの疑問も伝わっているのだ。
答えてくれないなら無駄だろう。
もし自分にも兄たちのようなしっかりした力があれば、ジュードの役に立つことができたのに。
今回の事件も阻止することができたのにと、アドリアーネは悔しく思った。
「アドリアーネ」
「べ、別にお兄様のことを妬んでいるわけじゃないのよ? ただもう少しだけ、私に力があればって……」
「違うよ、アドリアーネ。お前は誤解している」
「誤解?」
「うん。確かにたくさんの人たちの役に立つことも素晴らしいけれど、たった一人を救うことだって十分なことだよ」
「たった一人を……」
兄に触れているのに馬鹿なことを考えてしまったと慌てるアドリアーネを安心させるようにヘレオンは微笑んだ。
それはアドリアーネが人々を魅了する笑みとよく似ている。
見慣れているアドリアーネはヘレオンの微笑みに惑わされることなく、その言葉に引っかかった。
一人というのがジュードのことだとはわかるが、救ったとは思えない。
後見にはなっただろうがアドリアーネの力は役に立つことがなかったのだ。
「十年前、彼はとても傷ついていた。それは僕たちだってわかっていたけど、何もできなかった。彼の傷を癒したのはアドリアーネ、お前だよ」
「私は何もしていません。ただジュード様を縛りつけただけです」
「そうだね。十年前のアドリアーネはとても我が儘だったね」
自分で言っておきながらしっかり肯定されて、アドリアーネはちょっとショック受けた。
そんな妹を見たヘレオンは悪戯っぽく笑う。
「とても可愛い我が儘ばかりだったよ。だから僕も父上もみんなアドリアーネを愛していた。もちろん今も。そしてこの十年、傷ついていながら頑なだったジュード殿の心を解かしていったのはアドリアーネだよ。婚約してからの十年とこのひと月あまりでお前はジュード殿を癒し、魅了し、素直にさせた。ほら、ご覧」
ヘレオンの言葉と同時に神殿を出たアドリアーネは多くの人たちの歓声に気を取られた。
しかし、ヘレオンが示したのは集まった人々の向こう側。
視線を向けたアドリアーネは驚きに目を丸くした。
「まさかお見送りにきてくださるなんて……」
「そう考えたか……」
体に染みついた癖で、アドリアーネは笑顔で民衆に手を振りながらも兄にちらりと視線を向けた。
ヘレオンもまた朗らかに手を振りながら、アドリアーネの視線の意味を悟って答える。
「ジュード殿は迎えにきたんだよ」
「え……?」
ヘレオンとアドリアーネに夢中になっていた人々も、ジュードとそれに従う数人の騎士たちが乗る馬の蹄の音に気付いたらしい。
何事かと振り向いてジュードの姿を認めると、さあっと退いて道を開ける。
「アドリアーネ殿、行かないでくれ!」
「……ジュード様?」
近づいてくるジュードの口から思いがけない言葉が飛び出し、アドリアーネは目を丸くした。
いつもの微笑みも忘れている。
ジュードは花道のように開いた通りを駆け抜け、神殿の正面まで来ると馬から降りた。
そしてゆっくりと大階段を上ってくる。
「私はあなたに相応しくはない」
「そんなこと――」
「ない」と答えようとしたアドリアーネを、ジュードが片手を上げて制す。
アドリアーネは近づいてくるジュードから目を離すことができなかった。
「私はあなたと親子ほど年が離れていて、姿も醜く、身分も劣り、何よりこの手は血に塗れている」
アドリアーネは喉が詰まったように声を出せず、ただ何度も首を振って否定した。
それでもジュードは苦しそうな表情を緩めることなく続ける。
「初めは義務感だった。だが次第にあなたから届く手紙を楽しみにするようになっていた。それでもまだ私は私の気持ちを理解することなく、あなたに惹かれている気持ちを認めようとしなかった。認めてしまえば、私は自分が弱くなってしまうと恐れていたからだ。あなたの隣に立てば、嫌でも分不相応な己に気がついてしまう。だがそれこそが弱さだ」
多くの民衆が集まっているにもかかわらず、先ほどまでとは打って変わってあたりは静まり返っていた。
その中でジュードの太く強い声だけが響く。
「私はあなたが好きだ」
はっと息を呑んだのが誰かはわからない。
ひょっとして自分だったかもしれないと思いながら、アドリアーネは目の前に跪いたジュードを見下ろした。
「アドリアーネ殿、どうか私と結婚してくれませんか?」
「ジュード様……」
十年前から何度となく夢見た場面に、アドリアーネは本当に夢を見ているのではないだろうかと思った。
だが夢とは少し違うのは、多くの人たちに囲まれ、膝をつくジュードが差し出した花。
夢ではバラの花束だったが、目に映るのは今にも枯れそうなほどしおれたコスモスだった。
アドリアーネの足がふらりと一歩前に出る。
「あ、こら。アドリアーネ!」
アドリアーネにとっては花も観客もどうでもよかった。
驚き止めようとするヘレオンを無視して、アドリアーネは小さな体でいきなりジュードを抱きしめた。
それでも階段で膝をついたジュードの体勢は崩れない。
ただゆっくりと腕を動かしてアドリアーネを抱き返した。




