手紙
翌朝。
本当ならいよいよジュードの花嫁になれるのだと胸を躍らせているはずのアドリアーネは、憂鬱な気分で目を覚ました。
夜明け前までほとんど眠れなかったために体がひどく重い。
昨晩はターニャが神殿に訪れてふさぎ込むアドリアーネを慰めてくれた。
初めはこの結婚に静かに反対していたターニャだったが、このひと月に間にアドリアーネを応援してくれるようになったのだ。
怪我がなかったことを何よりも喜びながらも、ターニャの子爵夫人たちへの怒りは凄まじかった。
「性悪だとは思っておりましたが、これほどに愚かな悪党だとは想像もつきませんでした!」
「でもあの人たちはみんな、お兄様と接することによって化け物が消えていったの。私には見ることしかできないけれど、やっぱりお兄様はすごいわ。でも……どうしてジュード様との結婚を許してくださらないの? もう悪い心を持つ人たちはいなくなったわ」
納得いかないと嘆くアドリアーネに、ターニャはかける言葉もなかった。
ヘレオンが聖王に全てを任されたと言うからには、ヘレオンの決定は絶対なのだ。
「アドリアーネ、残念ながら人々の心から悪しき念を取り除くことはできないよ。それが人間だからね」
「お兄様!」
ノックもなく部屋に入ってきたヘレオンは困ったように答えた。
ターニャはヘレオンの姿を目にした途端、隅へと下がって頭を下げる。
「私は今までずっと守られてきたけれど、弱くはないわ。前世だって力はなくても、ずっと頑張っていたもの。だからこれからだって悪しき心とだって戦ってみせる。ジュード様の負担にはならないわ!」
「そうは言ってもね、アドリアーネ。お前が攫われたのは彼の失態でもある。さらにはお前が僕に連れ去られようとしているのに抵抗もしなかったどころか、進んで手放したようだったじゃないか」
「それは……」
あのときのことを思い出したアドリアーネはじわりと涙が滲んできて、慌てて顔を背けた。
弱くはないと言いながら、泣くなんて情けなさすぎる。
そのまま黙り込んでしまったアドリアーネを見てヘレオンはため息を吐くと、部屋から出ていってしまった。
一晩ベッドの中でアドリアーネは打開策を色々と考えた。
部屋から抜け出して王城にどうにか戻り、ジュードに会って強引に結婚を迫る。――などなど。
しかし結局はジュードが受け入れてくれない限りどうしようもないのだ。
また、ヘレオンが――聖王が認めない結婚を神官が執り行ってくれるわけもない。
神殿からの祝福のない結婚では正式な夫婦にもなれない。
八方ふさがりで答えを出すことのできなかったアドリアーネの最終結論は、一度国へ戻って父である聖王に嘆願することだった。
(きちんとお父様に説明してお願いすれば、きっと許してくださるわ。お父様ならジュード様の素晴らしさをちゃんとわかってくださっているはずだもの)
未来とは変えることができると言っていたのは父だ。
幸せになれると嫁がせてくれた未来が変わってしまったのなら、また変えることができるはずだった。
十年待って、さらにひと月待って、ようやくジュードも受け入れてくれたと思ったら、ヘレオンに反対されるなんて信じられない。
だからといって「はい、そうですか」と従うつもりもなかった。
(大丈夫。オオカミさんはとっても落ち込んでいたけど、私のことを嫌いになったわけじゃないわ)
ヘレオンに責められているときのオオカミさんは、ただただ悲しそうだった。
おそらくアドリアーネが攫われたことに対する自責の念が強かったのだろう。
だがあれは不可抗力だ。
しきたりに則って、離れた場所にある神殿の部屋でアドリアーネを一人にしなければならず、面会できるのは神官の位にある者のみ。
聖騎士が神殿内を警備していたにもかかわらず、まさか神官の一人が王女誘拐に手を貸すとも想像できなかったはずだ。
(そうよ。ジュード様はちっとも悪くないわ。神殿のやり方に従って、神殿の人に裏切られたんだから)
そこまで考えて、アドリアーネははっとした。
自分の気持ちばかり優先して嘆いていたが、ジュードの今の気持ちを思いやろうとはしていなかった。
幸いここは神殿の客室で花嫁のための部屋ではないので、紙とペンはある。
急ぎ机に向かったアドリアーネは、ペンを取ると少し考え、それから手紙を書き始めた。
手紙を書いているうちに感極まって涙がにじんできたが、もう堪えることはしなかった。
ぐすぐすと洟をすすりながらハンカチで涙を押さえ、手紙を書いていく。
やがて書き終えたアドリアーネはしっかり封をするとターニャを呼んだ。
「これをジュード様に渡してほしいの。だけどひょっとしてお兄様に止められるかもしれない。だからどうにか上手くやってほしいの。お願い、ターニャ」
「姫様……」
目を真っ赤にして懇願するアドリアーネを目にして、ターニャは今さら手紙を送ることを反対するなどできなかった。
むしろどうにかして届けたいと思う。
「……わかりました、姫様。確か出発は昼食後すぐだと伺っております。ですから、王都まで往復する時間はあるでしょう」
「ターニャ?」
「私が直接参ります。そして必ずジュード様にお渡しいたします」
「それは無理よ! ターニャはこの国にまだ慣れていないし……」
「あら、ひょっとして年齢のことをおっしゃりたいのですか? これでも体力はまだまだありますからご心配には及びません」
「でも……」
「もし、間に合わなくてもちゃんとあとを追いますから大丈夫です。お金だって持っておりますから」
ターニャが直接渡してくれるのが一番信頼できる。
王城にも難なく入れるだろうし、ジュードに会うこともできるだろう。
少なくともノーハスには会えるはずだ。
だが、高齢のターニャに無理をさせていいのだろうかと、アドリアーネは葛藤した。
やはり普通に誰か他の人に託してもいいのではないか。
それとも国へ帰ってからでも遅くはないのではないか。
そんな迷いをターニャが取り払うように、受け取った手紙をしっかり上着の奥にある袋にしまった。
「時間はありませんからね。無事に戻ってまいりますので、それまでに姫様はお仕度をなさっていてください。他の者を寄こしますから」
「……ターニャ、ごめんなさい」
「おや、ここはお礼をおっしゃってください。それでは、行ってまいります」
「――ありがとう、ターニャ。くれぐれも気をつけてね!」
「任せてくださいませ」
安心させるようににっこり笑うターニャに応えて、アドリアーネも微笑んだ。
もしターニャの帰りが遅くなるなら、何と言ってでも出発は引き延ばしてもらう。
それでも部屋を出ていくターニャを心配の面持ちで見守ったのだった。




