兄
「やあ、アドリアーネ。久しぶりだね」
「お兄様はどうしてこちらに?」
「可愛い妹の花嫁姿を見に寄ってみたんだけど、こっちにいることに気付いてね」
ヘレオンに抱き上げられるようにして馬車から降ろされたアドリアーネは周囲を見回した。
兄のヘレオンにはいつもの護衛が数名ついているが、今はアドリアーネの護衛を務めている聖騎士たちもいる。
そしてポレルモ子爵夫人一行の従者たちは何が起こったのかわからない様子で一カ所に集まっていた。
護衛兵ですら聖騎士を前に剣さえ抜いていない。
「姫様、ご無事で何よりでした。ですが、このたびはお守りすることができず斯様な失態を犯してしまい、大変申し訳ございませんでした」
「あら、仕方ないわ。まさか神官長様がこのようなことに加担されるなんて思わないもの」
聖騎士たちはアドリアーネに近づくと膝をつき、頭が地につくほどに下げた。
やはり聖騎士たちにとっては神官長の職にある者が聖王女誘拐に加担するなど思いもしなかったのだろう。
何でもないことのようにアドリアーネが笑ってみせると、聖騎士たちはそれ以上は何も言わず体を起こして通常の警備体制に戻った。
アドリアーネはもちろんのこと、ヘレオンも聖騎士たちが自責の念にとらわれることを望んでいないとわかっているのだ。
そこに何頭もの馬が駆ける蹄の音が近づいてきた。
聖騎士たちは剣をいつでも抜けるように柄を握る。
「心配ないよ。これはボラリア王たちのものだ」
「え? ジュード様が?」
喜びの声を上げたアドリアーネを見て、ヘレオンはくすりと笑う。
ヘレオンの言葉なら絶対なのだ。
アドリアーネが蹄の音がする方へと首を伸ばすと、土煙と同時に騎影が見えた。
「ジュード様!」
「アドリアーネ殿!」
嬉しくて駆け寄ろうとしたアドリアーネの腕を摑んでヘレオンが止める。
その様子を見てジュードは剣を抜きかけ、相手が誰かに気付いて驚き目を見開いた。
「ヘレオン殿? なぜここに?」
「少し遅かったね、ジュード殿。囚われのお姫様を救う役は僕がもらっちゃったよ」
「お兄様、手を離してください」
「ダメだよ、アドリアーネ。走っている馬に駆け寄るなんて危ない。それに彼の傍も危ないことがよくわかったからね」
いつも優しい兄が何を言っているのか、アドリアーネにはよくわからなかった。
ジュードはわずかに顔をしかめ、それからついて来ていた騎士たちに指示を出し始める。
瞬く間にポレルモ子爵夫人の一行は拘束され、アドリアーネが乗っていた馬車から夫人が引きずりおろされるようにして出てきた。
「放しなさい! 私を誰だと思ってるの!? ――ジュード!」
「連行しろ」
「ジュード! 何を言うの!? 私はあなたのためを思ってしたのよ! こんな小娘と結婚しなければならないって嘆いていたじゃない!」
拘束された子爵夫人の喚く言葉に、アドリアーネははっとしてジュードを見た。
ジュードは今までアドリアーネが見たこともないような冷たい目をして子爵夫人を見下ろしている。
「あなたは何か勘違いをしている。それと私の名を呼ぶことは許さない。不愉快だ」
「何よ! たかが伯爵家の三男が偉そうに! 今に王位もあなたがしたのと同じように奪われるわよ!」
そこまで皆の前で言っては、もう子爵夫人は極刑さえあり得る。
よくても一生投獄されたままだろう。
あまりに愚かな言動にアドリアーネは顔色をなくしてジュードを見上げた。
一瞬二人は目が合ったが、すぐにジュードはアドリアーネから顔をそむける。
するとヘレオンが拘束された子爵夫人へと近づいた。
「誰よ?」
「見栄も欲望も悪いことではないよ。ただ過ぎると何事も毒になるからね。ほんの少し肩の力を抜いて、過去ばかり見つめて後悔せず、前を向いて改める努力をするんだ。大丈夫」
「そんな馬鹿馬鹿しいこと……」
不審げに睨みつける子爵夫人にヘレオンは優しく微笑んで声をかけた。
子爵夫人はその言葉を鼻で笑ったが、急に涙をぽろりとこぼし、あとは声を詰まらせて泣き始めた。
途端に子爵夫人に憑いていた化け物がぼやけ、消えていく。
取り押さえられている者たちの中にいた神官長はすでにむせび泣いていた。
「悪いが、僕たちはこのまま街の神殿に行くよ。そして明日には聖王国に帰ることにする。それでいいね?」
「お兄様? 私とジュード様の結婚式は明日なのよ? 出席してくださらないの?」
戻ってきたヘレオンは黙ったままのジュードに穏やかに宣言する。
その内容に驚いてアドリアーネは問いかけた。
しかしヘレオンはジュードから目を逸らすことなくアドリアーネに言い聞かせる。
「違うよ、アドリアーネ。聖王国にはお前も一緒に帰るんだよ」
「何をおっしゃってるの!? 私は帰らないわ!」
「こんな危険なところにお前を嫁がせるわけにはいかないよ。そもそもなぜこんなに式が遅くなったんだ? 迷いがあったからだろう?」
「迷ってなんていないわ。ただジュード様はお互いをもっとよく知るための時間をくださったのよ」
「アドリアーネ、僕はお前には訊いていないよ」
ヘレオンはじっと見つめていたジュードから、抗議するアドリアーネへと視線を移した。
そこでアドリアーネも今さら気付く。
兄に言葉など必要ないのだと。
「お兄様、ジュード様は……」
「早々にアドリアーネの行方に気付き、追ったことは褒めよう。だがこれからもこういうことが起こるかもしれない。そのときあなたは妹を守れるのか?」
「ジュード様、ご心配には及びませんわ。次からは私も気をつけますし、ご迷惑をおかけしたりしません」
だから大丈夫だと言ってほしい。
そう願ったアドリアーネだったが、ジュードは別の答えを口にした。
「……私にはまだまだ敵が多い。そのような中ではアドリアーネ殿を危険にさらしてしまうだろう。私は……やはりあなたに相応しくない」
「ジュード様!」
「すまない」
縋るように名を呼んだアドリアーネに謝罪の言葉を残し、ジュードは騎士たちの許へ行ってしまった。
信じられない思いでアドリアーネはその背を見つめ、次いで腕を掴む兄を睨みつける。
「お兄様がいらっしゃらなかったら、ジュード様が助けてくださったのよ! これからだって、ジュード様は私を助けてくださるわ。そして私はジュード様をお助けするのよ」
可愛い妹に睨まれたことに軽くショックを受けながらも、ヘレオンは優しく微笑んだ。
それから残念そうな笑みに変えて首を横に振る。
「だけど、それを彼は望んでいない。僕の言葉は信じるだろう?」
「……これはお父様が決められたことでしょう?」
「父上は僕に任せてくれたんだ。お前が発ったあとで、きっと僕が必要になるとおっしゃってね」
「そんな……」
アドリアーネはショックのために言葉を失った。
この国に嫁いできてからずっと、父である聖王が決めた縁組なのだからと、それを支えにしてきたのだ。
ジュードが冷たかったときも、子爵夫人が現れたときも。
その支えを失って、アドリアーネはがっくりと体から力が抜けた。
「十年……この十年の間待ちわびていたのに、お兄様のせいで全て壊れてしまったわ! 私の夢だったのに!」
八つ当たりなのはわかっていた。
だが、アドリアーネは誰かに――兄に怒りをぶつけずにはいられなかったのだ。
こんなに怒りを感じたのも初めてだった。
「……いったい彼のどこがそんなにいいんだい?」
「お兄様には説明しなくてもおわかりでしょう?」
アドリアーネは呆れたように問いかける兄をきつく睨みつけて答えた。
ヘレオンは肩を竦めただけで何も言わず、ジュードを目で追い続けるアドリアーネを強引に子爵家の馬車へと押し込んだ。
子爵夫人は神官長が乗っていた馬車で輸送されるらしい。
それから近くの街――王都の一つ隣の街の神殿に着くまで、アドリアーネはずっと黙り込んでいたのだった。




