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輿入れ

 

 はじめは野花を一輪摘み取ったような素朴な花だった。

 手紙を開くとほわっと咲いたその花は、アドリアーネ以外には誰も見えないもの。

 たったの一輪の素朴な花でも嬉しくて、アドリアーネはその場でくるくる回って踊ったことを覚えている。

 ――あれから十年。

 今では控えめながらもいくつもの美しい花を咲かせた手紙を、オオカミさんは送ってくれるようになっていた。


「まあ、姫様。またジュード様からのお手紙をお読みになっていらっしゃるのですか?」

「またって、まだたったの七回目よ。オオカミさんにお会いするまでにあと三回は読むつもり」

「姫様! ジュード様のことをそのようにお呼びなさらないでくださいと、あれほど申しましたのに!」

「大丈夫よ。ご本人の前では言わないわ」


 乳母のターニャはとても愛情深いが厳しく少々口うるさい。

 わんわんと吠えるように叱るターニャから目を逸らし、アドリアーネは馬車の窓から外へと目を向けた。


「ターニャ、外を見て! 断崖絶壁ってこういうことを言うのね! 馬が怯えて暴れたりしないのかしら」

「恐ろしいことをおっしゃるのはよしてください、姫様。現実になったらどうするのですか」

「あら、そんなことにはならないわ。お父様が旅の安全を祈ってくださったのですもの」

「ええ。もちろん安全なのはわかっておりますとも。聖王様がこの善き日を選んでくださったのですから」

「ほんと、待ちくたびれてしまったわよね。もしオオカミさんが待っててくれなかったらと思うと心配で心配で……」


 十年の婚約期間は長かった。

 運命の相手を見つけたとばかりに勢いに任せてプロポーズした頃には、なぜかオオカミさんは待っていてくれると自信満々だった。

 だから結婚が楽しみだと、早く会いたいと書いた手紙。

 前世では恋愛経験がなかったが、高スペックに生まれ変われたおかげで変な自信がついてしまっていたのだ。


 さらにジュードからの返事はとてもぶっきらぼうではあったが優しさが感じられるもので、アドリアーネの想いは加速した。

 それから始まった文通はひと月に一度。

 本当はもっと頻繁に書きたかったが、手紙を届けるにはオオカミさんだけではなく多くの人の手を煩わせるのだとターニャに窘められて我慢するしかなかった。


 しかし月日が経つごとに、前世の記憶があの時以上にはっきりしてくるごとに、アドリアーネは自分のしてしまったことを後悔した。――というより悶絶した。

 転生したのには理由があると父から教えられていたアドリアーネはオオカミさんを見た瞬間、自分は彼を癒すために――彼と結ばれるために生まれ変わったのだと信じて疑わなかったのだ。

 だが今は、本当にこれでいいのだろうかと不安ばかりである。


 諸国から崇敬されている聖王国の聖王の娘――聖王女からのプロポーズなど断れる者などいるはずがない。

 しかもそれが、王位を簒奪したと揶揄される新しき王ならば、聖王女との婚姻――婚約は強力な後ろ盾となるのだから。

 成長するにつれ、前世の記憶――日本という国で平凡なOLだったときの記憶がはっきりして、聖王女など柄でもないと一人悶絶する日々。

 それでも家族以外には心優しい聖王女として振る舞い、部屋に戻ってはまた羞恥に悶え苦しむ。

 その本当の姿を家族以外に知っているのはターニャだけである。

 約束だからとこうしてオオカミさん――ボラリア王国国王の許に嫁いでいるが、本当にいいのだろうかと、アドリアーネはこっそりため息を吐いた。


 そんなアドリアーネの心境には気付かず、ターニャは不安そうに窓の外を見た。

 ターニャはこの縁談自体が何かの間違いであり、破談にならないかとずっと願ってきたのだ。

 それはターニャだけでなく、聖王国のほとんどの者たちの願いだった。

 なぜならアドリアーネの嫁ぐ相手は、身分が低いだけでなく『残虐』だの『冷酷』だのといい噂が一つもない人物なのだ。

 だからこそ、アドリアーネがかの国の王――ジュードに突然プロポーズしたときには焦った。

 しかもそれを聖王が認めるとは思いもしなかったのだ。

 ただ聖王――アドリアーネの父に対する信頼は大きく、聖王様のご決断ならと皆が涙をのんだのだった。


 ジュードの国――ボラリア王国は王位継承争いが長い間続いていた。

 そのため国土は荒れ、兵士たちは疲弊し、民は飢え苦しんでいたところに、王の系譜の中でも末端に名を連ねるジュードが立ち上がったのだ。

 伯爵家の三男であるジュードは十代前半で騎士を志し、二十歳の頃には王国一の騎士と呼ばれるようになっていた。

 そのため先代国王が急逝し、妾腹の王子だけでなく王弟たちまでもが王に名乗りを上げたときには正統な後継者である王妃の子――まだ七歳だった王子に忠誠を誓った。


 ところがそれから二年後。

 後継者争いだけでなく、領土拡大を目論む者たちによって国土の至るところで争いが起こっている中で、後継者たちが毒殺されたのだ。――ジュードが忠誠を誓った王子までも。

 結局犯人は――首謀者はわからずじまいだったが、これがジュードの怒りに火をつけた。

 しかし、ジュードは玉座を狙ったわけではない。

 ただ忠誠を誓った王子が望んだこと――ジュードの望みでもある、民が安心して暮らせるようにするために突き進んだ結果、王となったのだった。


「――とにかく、こうして無事に輿入れしているわけだし、私がオオカミさんっじゃなかった……ジュード様と結婚すれば、ボラリア王国の偏屈さんたちもジュード様のことを認めてくれるわよね?」


 自分の我が儘で成立した婚約の正当性をアドリアーネは何度も自身に言い聞かせてきた。

 もう一度誰かから念押ししてほしくて質問すれば、ターニャは大きく頷いてくれる。


「もちろんでございますとも。ジュード様がボラリア国の王だと聖王様がお認めになっていらっしゃるのですから。各国王が即位すれば聖王様にご挨拶されお認めいただくのが習わし。ジュード様は聖王様に認められたばかりか、畏れ多くも姫様をお妃様にお迎えになるのですもの。ボラリアの民はそれはもう喜び連日お祭り騒ぎらしいですよ」

「そう……。ちょっと安心したわ」


 ジュードは押しかけ女房なアドリアーネを歓迎していないかもしれないが、民が喜んでくれているのなら少しは役に立てるはずだ。

 今もまだ、反国王派は存在するらしいのだから。


 馬車の揺れはかなり治まったので、おそらく一番の難所は越えたのだろう。

 ボラリア王国への道は険しい場所も多いと聞いていたとおりだった。

 しかし、本当の難所は王城に到着してからだ。

 この十年、聖王の後見を得たジュードは王としてかなり強固な姿勢でもって改革を断行してきた。

 そのおかげで貧しかったボラリア王国の民の生活は豊かとは言えないまでもほんの少しの余裕が生まれ、このたびの輿入れでも祭りが開けるようになったのだ。

 民はジュード王を讃え、貴族の中にもようやくジュードを王として認めて賛同する者も増えてきたらしい。

 だが――。


「ターニャ、見て! 村が見えてきたわ!」


 ターニャの物思いは、明るいアドリアーネの声に遮られた。

 アドリアーネの指さす窓の外を見れば、確かに谷間に小さな集落が見える。

 農作業の繁忙期を終えた晩秋のこの時期は、村も周囲の山も畑も一面が茶色く味気ない。


「まあ、素敵! こんな辺境の地でも色とりどりの花が咲いているわ」

「姫様、そのようなことは……」

「ええ、もちろんわかっているわ。こんなこと、ターニャ以外には言わない。きっと頭がおかしいって他の人には思われるものね。これは私の――聖王家の秘密よ」


 アドリアーネの目には可愛らしい花々に彩られて見える村から視線を外してにっこり笑った。

 その笑顔は純真無垢な天使そのもの。

 実際、聖王家の王女として大切に守られ育てられてきたのだ。――中身は平凡な日本人でもあったが。


 皆、この天使のような容姿とおっとりとした柔らかな物腰に騙されるが、実のところジュードとの婚約を機にボラリア王国のことは当然のことながら、一国の王妃としての教育を受けてきたアドリアーネは見かけのように甘くはない。

 そして、ごく一部の者しか知らない聖王家の秘密。


 なぜ軍隊を持たない聖王国が長きにわたって独立を保っていられるのか。

 各国の王が即位の際に聖王に謁見し、形式上認可を得るのか。

 時に各国王は聖王に助言を求めることもある。

 その理由――聖王家の秘密は各王家の歴代王と聖王国の中でも限られたものしか知らされていない。


「――ジュード様はとても素晴らしい方なのに、どうしてお父様は私の秘密をまだ教えてはいけないっておっしゃるのかしら……」

「姫様、聖王様のお言葉は絶対でございます」

「わかっているわ。だけど理由を教えてくださってもいいと思わない?」

「それが聖王様のご判断なら、従われるべきです」


 ターニャのきっぱりとした返答に、アドリアーネは諦めのため息を吐いた。

 これ以上は聖王の絶対信者であるターニャに何を言っても仕方ない。

 アドリアーネは再び車窓の外へと視線を向け、味気ない村に住む人々の心が咲かせる美しい花々を見つめた。




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