儀式
神殿に入りそのまま奥の院にある泉で禊ぎをしたアドリアーネは、それから二晩を純白の部屋と呼ばれる小部屋で過ごした。
部屋は狭く高い位置に窓があるため、外の景色を眺めることはできない。
扉に鍵をかけられているわけではないので出ることは可能だが、基本的には部屋に籠って神への祈りを捧げなければならないのだ。
残念ながら部屋へ持ち込めるのは聖書のみ。
着替えは毎朝の禊ぎのあとに、女官が着替えさせてくれる。
「退屈だわ……」
聖書は子供の頃から何度も読んでいるので暗唱できるくらいであった。
その内容の第一章は創世の神話から始まり、神の子孫として聖王が誕生したというもの。
アドリアーネにしてみればご先祖様の物語であるのだが、かなり美化されている。
実は聖王家には裏聖書とでもいうべきご先祖様の逸話が残されており、そちらのほうがアドリアーネとっては人情味があって好きだった。
もちろんそれはこの神殿――この国の大神官も知らない聖王家の秘密である。
明かり取り用の高窓から空は見えるので、アドリアーネは部屋に唯一ある家具――ベッドに横になって空に浮かぶ雲を眺めていた。
いよいよ結婚式は明日だ。
おそらくお天気も上々。
アドリアーネははしたなくもごろりと寝返りを打って大あくびをした。
「こんなに退屈なら、そりゃ廃れるわよ……」
伝統も大切だが、時代は移り変わるのだから柔軟性も必要である。
過去にずっと聖王家の花嫁たちがこんな退屈な時間を過ごしたのなら、もっと変えようとしてくれてもよかったはずだ。
せめてスマホがあればと、この世界にはあり得ないものまで想像して一人にやりとする。
(お母様はこの時間をどう過ごしたのかしら……?)
今回の輿入れの際、あれこれと様々なアドバイスをくれていた気がするが、浮かれていたアドリアーネは半分以上聞いていなかった。
今になって後悔が押し寄せる。
急に心細くなってきたアドリアーネはぎゅっとシーツを摑んだ。
明日からはこんな思いもしなくてすむはずだ。
ジュードの傍に常にいることはできなくても、家族として過ごすことができる。
そのうち新しい家族もできるだろう。
そう考えて自分を励ましていると、扉がノックされた。
まだ昼食には早い時間のはずで、誰だろうと思いながらアドリアーネは返事をしながらベッドから起き上がって急ぎ身繕いをした。
「はい、どなたでしょう?」
誰何しながらも無防備に扉を開けたアドリアーネは目の前の人物に驚きつつも、笑みを向けた。
「まあ、ローラン地方の神官長様ではありませんか。いかがなされました?」
「この後すぐに私はローランに帰りますので、その前にご挨拶をさせていただきたく、参りました」
「そうなのですね? せっかくですから式にもご出席いただきたかったのに残念です」
高位の神官とは面会が許されるので神官長はわざわざ挨拶に来てくれたのだろう。
ソファはなく、布張りもされていない素っ気ない木製の椅子が二脚あるだけの部屋に招き入れ、アドリアーネは答えて椅子を勧めた。
その向かいに腰を下ろしたアドリアーネを、神官長はじっと見つめる。
「やはり泣いていらっしゃったのですね?」
「はい?」
「そのように涙がにじんでいらっしゃるのですから、お隠しになってもわかります」
「い、いいえ、これは違います。これは、その……」
退屈すぎて大あくびをしたせいだとは、聖王女として言えなかった。
神へと祈りを捧げているはずの時間にベッドに寝転んでごろごろしていたのだ。
どう説明すべきかためらうアドリアーネのさまよう視線を追ってベッドを見た神官長は、眉間のしわをさらに深めた。
ごろごろしていたのがバレた、と思ったアドリアーネだったが、神官長は思いもよらぬ結論を出したようだ。
「ベッドに顔をふせられ、泣き声が外に漏れないようにとお気を使われたのでしょう? お気の毒に……。やはりこの結婚がお嫌なのですね?」
「まさか! そのようなことは決してございません!」
「ご無理をなさらなくてもよいのです。あのような恐ろしい男に嫁ぐなど、アドリアーネ様に耐えられるはずがありません。聖王様もこの国のためにとお考えくださった結果なのでしょうが、アドリアーネ様が犠牲になられる必要はないのです。さあ、私が手を貸しますから、お逃げしましょう」
「……逃げる?」
「はい。手配はすんでおりますのでご安心ください」
「い、いいえ! そのようなことはいたしません! 私はジュード様の許に明日嫁ぐことを楽しみにしているのですから!」
すぐには理解できずに困惑するアドリアーネを誤解して、神官長は励ますように微笑んだ。
一拍遅れてアドリアーネは否定したが通じそうにない。
どうやら神官長はアドリアーネがこの国のために我慢していると思っているようだ。
「お心優しいアドリアーネ様がご自分を犠牲にされることはわかっておりました。ですがこのままではアドリアーネ様はあの残虐な男への生け贄も同然となってしまう。ですから私どもはアドリアーネ様を救出することにしたのです」
「馬鹿なことをおっしゃらないでください」
「いいえ。私は本気です。きっと民も納得してくれるでしょう。アドリアーネ様の犠牲の上に平和など成り立たないのですから」
「ですから、それが間違って――!?」
どうしたら納得してくれるのだろうとアドリアーネは説明を試みようとした。
しかし、神官長はいきなり立ち上がると、驚くアドリアーネの口を隠し持っていた布で塞いだ。
助けを呼ぼうと抵抗するが、声も出せず、大きく息を吸い込んだことで鼻と喉につんとした刺激が入り込む。
「なっ、にを……」
「ご無礼をお許しください。ですが、こうすることが一番なのです」
喉が痛くて咳を何度かするが、呼吸が苦しい。
声もきちんと出すことができず、アドリアーネは神官長を睨んだ。
神官長はその視線をつらそうに受けながらも、断固とした口調で告げた。
それでもどうにか神官長から逃れようとし、アドリアーネの意識はそこで途切れたのだった。




