本
―――今日はお時間をいただき、ありがとうございました。
午前中に城壁を見学させていただいたとき、物見の塔からでも街の活気が伝わってくるようでした。
そこで気付いたのです。
昨夜の私は私情に流され、この国の人たちのことを――この結婚を心から喜んでくれている人たちのことを置き去りにしてしまっていたと。
ですが、代わりにジュード様のお心を置き去りにしてしまうことをどうかお許しください。
ジュード様がご心配されている私の心については大丈夫です。
十年前、初めてお会いしたときからお慕いしていたのです。
あの頃はまだジュード様のお顔の傷も生々しいものではありましたが、それも含めて幼いながらに一目ぼれをしてしまったのですね。
そして十年経ってお会いしたジュード様は記憶よりもさらにかっこよくなっていらっしゃって、自分の幸運が信じられませんでした。
もちろん、この先はどうなるかわかりません。
ですがさらに十年後はもっとジュード様のことを好きになっていることも否定はできないですよね?
そのときに、できればジュード様も私のことを好きになってくれていればよいのですが、贅沢は申しません。
もし他に好きな方ができたときには正直に打ち明けてくださいませ。
混乱を招かないよう努力しながら解決の道を選びたいと思います。
ですからどうか、私と結婚してくださいませ。―――
日記を閉じたジュードはふうっと大きく息を吐き出すと立ち上がった。
それから部屋の中を檻に閉じ込められたオオカミのようにうろうろと歩き回る。
何をどう言えばいいのかわからない。
正確には今すぐ叫び出したい。
夜中でなければ鍛錬場にいって騎士を相手に剣を振るってこの込み上げる感情を発散させるのだが、それもできない。
要するに、ジュードは熱烈なラブレターとでも言うべき日記を読んで堪らないくらいに悶えていた。
あんなに――あんなに、美しく聡明で優しくて可憐で勇気があって利発な――とにかく天使なアドリアーネがこれほどに自分を好きだと、結婚してほしいと言っているのだ。
悶えない――嬉しくないわけがない。
はっきり言って、騎士時代の悪友の悪戯を疑うレベルだ。
アドリアーネは自分にジュードの心がないと思っている。
だがそれは大きな間違いだった。
とっくの前から――今思えば手紙のやり取りをしているときにはその純真さに癒され、十年ぶりに再会した瞬間に恋に落ちていたのだ。
ずっと子どもだと思っていた少女が大人になって目の前に現れたとき、頭の中でカチリと音がしたようだった。
あれが恋に落ちる音なのかもしれない。
そして今日、執務室に訴えに現れたアドリアーネを目にして、その決意を聞いてはっきり自覚した。――アドリアーネが好きだ、と。
しかし、いかんせん自分は二十歳も年上。
今さら「好きだ」とか「愛している」などと口にできるわけもなく、だからといって、こんなに気持ちをさらけ出してくれているアドリアーネに応えないわけにもいかない。
むしろこの年になって他に好きな女ができるわけもない。
(はあぁ、ヤバい。好きだ……)
ジュードは日記を見下ろして恋する乙女のように吐息を漏らした。
日記を読むときには人払いをしているため、その姿を誰にも見られなくて幸いだっただろう。
正直に言わなくてもキモい。
結婚式の手配についてはノーハスが勝手に予定通り進めているので問題ないだろう。
あとはこの日記に返事を――逆プロポーズの返事を書かなくてはならないのだが、それにジュードは頭を悩ませた。
そもそもジュードからは一度もプロポーズをしたことがない。
婚約の申し込みすらせず、そればかりか解消を何度も申し出たのだ。
(本当にこんなおっさんでいいのか……?)
もし他人事ならジュードは情けないと喝を入れただろう。
アドリアーネにはやめたほうがいいと忠告までしたはずだ。
うーんと考えて悩み、ジュードはあることを思いついた。
そして急ぎ自室から出る。
何事かと驚く衛兵たちを無視してそのまま図書館に向かい、立ち上がろうとする夜勤の司書を手で制して燭台を受け取る。
それからいつも利用している書架の区画へと向かい、誰もいないことを確認してから別の区画へと向かった。
ジュードにとって未知の区画。
それは昔から伝わる物語――神話や伝承を集めた本や、最近流行の小説なるものが並んだ書架だった。
できるだけロウソクの明かりが漏れないように低く燭台を持ち、司書がいる入口に背中を向けて目的の書物を探す。――が、やはり暗くてわかりにくい。
時刻はもう日付が変わるころで、司書の他に誰もいないのは幸いだが、暗さは不便だった。
いっそのこと司書に訊けばと何度も思い、明日には王城中に知れ渡っていることを考えて思い直す。
そこでようやく目当てのものを見つけた。
一つ見つければ二つ目も簡単で、今回はこれだけにしておくかと手に取っていつもの区画に戻り、そこから司書の前を通って図書館を出る。
王という立場はこのようなときにわざわざ手続きをせずとも本を持ち出せるのだからありがたい。
ジュードは王位に就いてから初めて使った王の特権に感謝し、その皮肉に一人笑った。
ロウソクの明かりに照らされた笑みは不気味で、のちに頬に傷を負った幽霊が徘徊する話が広まることをジュードは知らない。
「どれ……」
自室に戻ったジュードは寝室の長椅子に腰を下ろし、図書館から拝借してきたばかりの本の一冊を開いた。
時間は遅いがこれくらいの本の厚さはジュードなら一刻もかからず読める。
それから半分ほど読み進んだジュードはいきなり立ち上がった。
そのまま居間へと入り、常備されている強いお酒をグラスに注ぎ、グラスだけでなくボトルごと持って寝室に戻った。
酒でも飲まないとこれ以上は読み進められそうになかったのだ。
ジュードが持ち帰った本は、アドリアーネが手紙の中で絶賛していた物語である。
そのタイトルを覚えていたのは幸いしたのだが、まさかここまで濃い恋物語だとは思っていなかった。
アドリアーネは甘くて素敵でとても憧れると書いていた。
物語に対して甘いとは意味がわからなかったジュードだが、これは体から糖分が吸い取られているようだ。
そこで疲れているのだろうと判断して、強くはあるが糖分の高い果実酒を選んで補給することにしたのだった。
「これはさすがに……無理だ……」
どうにか最後まで読み終えたジュードは朝の鍛錬より疲れてぐったりしていた。
それでももう一冊、この際だからと勇気を出して気合を入れ、革表紙を開く。
今度は軽く軽く読み流すだけにした。――が、読み終わったときには息も絶え絶えになっていた。
内容はどちらも姫と騎士との恋物語。
姫がアドリアーネで、騎士がジュードになぞらえて読んでくれていたのだとすれば嬉しいとは思う。
しかし、だ。
(やはり俺には無理だ……)
アドリアーネが絶賛していたのだから、何か参考になるのではないかと思ったが、打ちのめされただけだった。
それでも、ここで挽回しなければあまりにも情けない。
そうして交換日記に向かい、どうにか返事らしきものを書き終わったときにはボトルを一本どころか二本開け、さらには窓の外で鳥たちが鳴き出していたのだった。




